第25話 初めての雪見客、まだ秋なのに気が早い
朝霧亭の朝は、今日も湯気と一緒に始まった。
夜の冷えが少しずつ深くなってきたせいか、山あいの空気はこのところ前よりもひと息ぶん鋭い。谷底から上がってくる靄も、夏の名残りの白さではなく、どこか薄く青い。回廊の板は朝露を吸ってひんやりしており、石壁の縁に触れれば指先が少しだけ冷える。
だがその冷たさが、湯気の存在をむしろ強く見せていた。
赤湯の重たい湯気。
白湯のやわらかな白。
青湯の静かな気配。
塩泉の熱の残り方。
露天へ流れるぬる湯の、細く長い息のような立ち上り。
秋が深くなるにつれて、朝霧亭の湯はますます“らしく”なっていく。
そして、そういう季節の変化を一番先に察して面倒な顔をするのは、当然ながらアレクシスだった。
「主様」
と、帳場の前で鍵札を整えていたリューシェが言う。
「何だ」
と、アレクシス。
「今朝のその顔は、何を見つけた顔じゃ」
「顔で分かるのか」
「分かるとも。湯が良すぎて困っておる顔じゃ」
「困ってはいない」
「では」
「少し早い」
「何がじゃ」
「塩泉の入りが良くなりすぎている」
「……また始まったのう」
リューシェは笑った。
「主様、季節が変わるとそうなると思うておったぞ」
「塩泉は冬向きだ」
「秋でも冷える日はある」
「ある」
「なら客が増える」
「増えるだろう」
「良いことではないか」
「準備が要る」
「出たぞ」
と、帳場の奥で宿帳を開いていたベルノルトが肩を落とす。
「最近の旦那様、何でも準備の話へ繋げますよね」
「必要だからな」
「便利すぎるんですよ、その言葉」
「事実だ」
「はいはい」
ユノは広間の長卓へ湯上がりの水差しを置きながら、その会話を聞いていた。
「塩泉、そんなに違うんですか」
「違う」
と、アレクシス。
「今朝は特に熱の残りがいい」
「主様」
と、リューシェ。
「坊やにも分かるように言うてやれ」
「……秋の冷えに合う」
「それは分かりやすいです」
と、ユノ。
「そうか」
「はい。昨日の夕方、白湯のあとに塩泉へ入った地元のおじさんも、“夜まで足が冷えなかった”って言ってました」
「見ておるのう」
と、リューシェ。
「聞いてました」
と、ユノ。
「坊や、だいぶ宿の耳になってきたな」
「嫌ではない」
と、アレクシス。
「また重いの出た」
と、ベルノルト。
「最近それ、褒め言葉の代わりになってません?」
「なっておるな」
と、リューシェ。
「便利じゃ」
その時、玄関の方から、がらりと少し勢いのある音がした。
朝霧亭には毎日いろんな客が来る。
湯治客、商人、旅の冒険者、噂を聞いた貴族、日帰りの地元客。
最近では、宿札の下をくぐる足音だけで、ある程度どんな客か分かるようになってきた。
今回の足音は、少し軽い。
だが軽薄ではない。
旅慣れた者の足取りだ。
「いらっしゃいませ」
と、ユノが玄関へ向かう。
「日帰り湯ですか、お泊まりですか」
「泊まりたい」
と、返ってきた声は若い女のものだった。
「できれば、今日と明日」
「空いてます」
と、ユノは答えかけて、相手の顔を見て少しだけ目を丸くした。
年の頃は二十代の半ばくらい。
上等ではないが手入れのいい旅装。
髪は短くまとめ、外套の肩には乾いた葉がいくつかついている。
商人にも見えるが、荷は軽く、歩き方はむしろ観察者に近い。
女は、玄関に入るなり宿の中を見回し、そして湯気の流れる方角へ顔を向けて、妙に真剣な顔で言った。
「雪が降った時の露天は、きっと最高だろうな」
ユノはきょとんとした。
「え?」
「まだ秋だぞ」
と、アレクシスが帳場から出てくる。
「分かってる」
と、女は即答した。
「分かってるけど、来てみたら確信した。ここ、雪が降ったらもっと化ける」
「主様」
と、リューシェが吹き出す。
「来たぞ。“まだ来ておらぬ冬”を目当てに来る客が」
「気が早いな」
と、アレクシス。
「よく言われる」
と、女。
「でも、そういう宿でしょう? ここ」
その言い方に、アレクシスは少しだけ目を細めた。
「名は」
「ミレナ」
「旅の者か」
「半分そう。半分は、湯宿を見るのが好き」
「ほう」
と、リューシェ。
「主様、珍しい客じゃな」
「前世みたいですね」
と、ユノが小さく言う。
アレクシスが少しだけそちらを見る。
「……そうだな」
「何です?」
と、ミレナ。
「いや」
アレクシスは短く首を振った。
「部屋はある。二泊で取るか」
「取る。あと、露天はいつ入るのが一番いい?」
「今日はまだ日が高いうちはぬるい。夕方から夜がいい」
「塩泉は?」
「最初に入るな」
「じゃあ後?」
「白湯か赤湯のあとだ」
「よし」
ミレナは満足そうに頷いた。
「話が早い宿主、好き」
「主様」
と、リューシェ。
「今のはちょっと嬉しかった顔じゃぞ」
「そうか?」
「そうです」
と、ベルノルト。
「かなり分かりやすかったです」
「不本意だな」
ユノが案内のために鍵札を取る。
「こちらです」
「ありがとう」
ミレナはついてきながら、回廊の先の露天の方を見た。
「本当にいい位置だなあ」
「露天、好きなんですか」
と、ユノ。
「好き。特に、季節が乗る露天はいい」
「季節が乗る?」
「雪、風、夕焼け、朝靄、月。そういうものが湯と一緒に入ってくる露天」
「……あ」
ユノは少しだけ分かった気がした。
「主様が好きそうです」
「そうだな」
と、後ろからアレクシス。
「だろうと思った」
と、ミレナ。
「だから“雪が降ったらもっと化ける”って言った」
「気が早い」
「でも本音でしょ?」
「……本音ではある」
「主様」
と、リューシェ。
「今のはかなり刺さった顔じゃ」
「やっぱりそう見えるんですねえ」
と、ベルノルト。
客室へ通すと、ミレナは荷を下ろすより先に窓を開けた。
冷たい山の空気がふっと入る。
湯気の匂いも少し混じる。
「いい」
と、彼女は短く言った。
「出た」
と、リューシェ。
「主様の口癖が移るぞ」
「宿の湯気と一緒に広がるんじゃろう」
と、ベルノルト。
「嫌な感染力ですね」
「悪くない」
と、アレクシス。
「主様、それを今ここで言うから余計なんですよ」
「事実だ」
昼前、ミレナはまず白湯へ入った。
そして戻ってくるなり、広間の窓際へ座って、出された湯上がりの椀を飲みながらしみじみと言う。
「これは、冬に人を呼ぶな」
「今朝からそればかりだな」
と、アレクシス。
「だって本当にそうだもん」
「そうなんですか?」
と、ユノ。
「うん。今でもいい。でも雪の時季は、きっと“来る理由”が一段増える」
「ほう」
と、リューシェ。
「嬢ちゃん、なかなか見る目があるの」
「見るのが好きだから」
「何をだ」
と、アレクシス。
「宿の“これから”」
「……変わった客だな」
「よく言われる」
「主様、そこは妙に相性が良さそうですね」
と、ベルノルト。
広間の奥には、今日もいつもの顔ぶれがいた。
赤湯帰りの老騎士。
白湯を短く楽しみに来た地元の女たち。
そして、昼の遅い時間に降りてきたゼフ。
ミレナはその空気に、妙に自然に馴染んだ。
広間で騒ぐわけではない。
だが静かすぎもしない。
窓の外の湯気を見ながら、ぽつりぽつりと必要なことだけ言う。
「この宿、冬になったら混むね」
「だろうな」
と、アレクシス。
「主様」
と、リューシェ。
「昨日の道の話、やはり正解じゃったな」
「ああ」
「橋と雪除け、急いだ方がいい」
「急ぐ」
「旦那様、もうその方向で決まりなんですね」
と、ベルノルト。
「必要だ」
「出た」
「最近、本当に全部が一本に繋がってますよね」
と、ユノ。
「湯、道、飯、部屋、全部」
「宿だからな」
「便利ですねえ……」
と、ベルノルト。
「でも、ちょっと格好いいです」
と、ユノ。
「坊や」
と、リューシェ。
「今のはかなり主様寄りの感想じゃぞ」
「そうでしょうか」
「そうじゃ」
「嫌ではない」
「今日はそれ何回目です?」
と、ベルノルト。
「数えるな」
「もう無理です、癖なので」
夕方、塩泉の入りが良くなった時間帯になると、ミレナは言葉通り露天へ向かった。
戻ってきた顔は、完全に“また来る客”の顔だった。
「どうだ」
と、アレクシス。
「まだ秋なのに、気が早くて正解だった」
「そうか」
「うん。次は雪の時に来たい」
「本当に来る気ですね」
と、ユノ。
「来る」
ミレナは迷わず頷く。
「その時、橋がちゃんとしてると嬉しい」
「やる」
と、アレクシス。
「主様」
と、リューシェ。
「今のは宿主の顔じゃな」
「そうか?」
「そうじゃ。客に“来る理由”を渡された時の顔じゃ」
「そんなに分かるんですか」
と、ユノ。
「分かるとも」
「最近、主様の顔を読む技能だけ、みんなすごく伸びてません?」
と、ベルノルト。
「嫌な宿じゃのう」
と、リューシェは笑った。
夜の広間には、今日も火が入り、湯上がりの熱と飯の匂いが混ざっていた。
新しい客が来る。
前からの客がまた来る。
話が一つ増える。
やるべきことも一つ増える。
朝霧亭は、本日も騒がしい。
そしてその騒がしさは、もう立派に日常になっていた。




