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異世界湯けむり勇者 ~魔王討伐後に王国から領地も爵位ももらったけど全部妻子に継がせて前世で大好きだった源泉かけ流しの宿を異世界で本気再現したら七つの泉質を目当てに貴族も冒険者も押しかけてきます~  作者: 常陸之介寛浩✪書籍・本能寺から始める信長との天下統一
第一章 七泉の湯宿《朝霧亭》、開業までの十二日譚

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第25話 初めての雪見客、まだ秋なのに気が早い

朝霧亭の朝は、今日も湯気と一緒に始まった。


 夜の冷えが少しずつ深くなってきたせいか、山あいの空気はこのところ前よりもひと息ぶん鋭い。谷底から上がってくる靄も、夏の名残りの白さではなく、どこか薄く青い。回廊の板は朝露を吸ってひんやりしており、石壁の縁に触れれば指先が少しだけ冷える。


 だがその冷たさが、湯気の存在をむしろ強く見せていた。


 赤湯の重たい湯気。

 白湯のやわらかな白。

 青湯の静かな気配。

 塩泉の熱の残り方。

 露天へ流れるぬる湯の、細く長い息のような立ち上り。


 秋が深くなるにつれて、朝霧亭の湯はますます“らしく”なっていく。


 そして、そういう季節の変化を一番先に察して面倒な顔をするのは、当然ながらアレクシスだった。


「主様」

 と、帳場の前で鍵札を整えていたリューシェが言う。

「何だ」

 と、アレクシス。

「今朝のその顔は、何を見つけた顔じゃ」

「顔で分かるのか」

「分かるとも。湯が良すぎて困っておる顔じゃ」

「困ってはいない」

「では」

「少し早い」

「何がじゃ」

「塩泉の入りが良くなりすぎている」

「……また始まったのう」

 リューシェは笑った。

「主様、季節が変わるとそうなると思うておったぞ」

「塩泉は冬向きだ」

「秋でも冷える日はある」

「ある」

「なら客が増える」

「増えるだろう」

「良いことではないか」

「準備が要る」

「出たぞ」

 と、帳場の奥で宿帳を開いていたベルノルトが肩を落とす。

「最近の旦那様、何でも準備の話へ繋げますよね」

「必要だからな」

「便利すぎるんですよ、その言葉」

「事実だ」

「はいはい」


 ユノは広間の長卓へ湯上がりの水差しを置きながら、その会話を聞いていた。


「塩泉、そんなに違うんですか」

「違う」

 と、アレクシス。

「今朝は特に熱の残りがいい」

「主様」

 と、リューシェ。

「坊やにも分かるように言うてやれ」

「……秋の冷えに合う」

「それは分かりやすいです」

 と、ユノ。

「そうか」

「はい。昨日の夕方、白湯のあとに塩泉へ入った地元のおじさんも、“夜まで足が冷えなかった”って言ってました」

「見ておるのう」

 と、リューシェ。

「聞いてました」

 と、ユノ。

「坊や、だいぶ宿の耳になってきたな」

「嫌ではない」

 と、アレクシス。

「また重いの出た」

 と、ベルノルト。

「最近それ、褒め言葉の代わりになってません?」

「なっておるな」

 と、リューシェ。

「便利じゃ」


 その時、玄関の方から、がらりと少し勢いのある音がした。


 朝霧亭には毎日いろんな客が来る。

 湯治客、商人、旅の冒険者、噂を聞いた貴族、日帰りの地元客。

 最近では、宿札の下をくぐる足音だけで、ある程度どんな客か分かるようになってきた。


 今回の足音は、少し軽い。

 だが軽薄ではない。

 旅慣れた者の足取りだ。


「いらっしゃいませ」

 と、ユノが玄関へ向かう。

「日帰り湯ですか、お泊まりですか」

「泊まりたい」

 と、返ってきた声は若い女のものだった。

「できれば、今日と明日」

「空いてます」

 と、ユノは答えかけて、相手の顔を見て少しだけ目を丸くした。


 年の頃は二十代の半ばくらい。

 上等ではないが手入れのいい旅装。

 髪は短くまとめ、外套の肩には乾いた葉がいくつかついている。

 商人にも見えるが、荷は軽く、歩き方はむしろ観察者に近い。


 女は、玄関に入るなり宿の中を見回し、そして湯気の流れる方角へ顔を向けて、妙に真剣な顔で言った。


「雪が降った時の露天は、きっと最高だろうな」


 ユノはきょとんとした。


「え?」

「まだ秋だぞ」

 と、アレクシスが帳場から出てくる。

「分かってる」

 と、女は即答した。

「分かってるけど、来てみたら確信した。ここ、雪が降ったらもっと化ける」

「主様」

 と、リューシェが吹き出す。

「来たぞ。“まだ来ておらぬ冬”を目当てに来る客が」

「気が早いな」

 と、アレクシス。

「よく言われる」

 と、女。

「でも、そういう宿でしょう? ここ」


 その言い方に、アレクシスは少しだけ目を細めた。


「名は」

「ミレナ」

「旅の者か」

「半分そう。半分は、湯宿を見るのが好き」

「ほう」

 と、リューシェ。

「主様、珍しい客じゃな」

「前世みたいですね」

 と、ユノが小さく言う。

 アレクシスが少しだけそちらを見る。

「……そうだな」

「何です?」

 と、ミレナ。

「いや」

 アレクシスは短く首を振った。

「部屋はある。二泊で取るか」

「取る。あと、露天はいつ入るのが一番いい?」

「今日はまだ日が高いうちはぬるい。夕方から夜がいい」

「塩泉は?」

「最初に入るな」

「じゃあ後?」

「白湯か赤湯のあとだ」

「よし」

 ミレナは満足そうに頷いた。

「話が早い宿主、好き」

「主様」

 と、リューシェ。

「今のはちょっと嬉しかった顔じゃぞ」

「そうか?」

「そうです」

 と、ベルノルト。

「かなり分かりやすかったです」

「不本意だな」


 ユノが案内のために鍵札を取る。


「こちらです」

「ありがとう」

 ミレナはついてきながら、回廊の先の露天の方を見た。

「本当にいい位置だなあ」

「露天、好きなんですか」

 と、ユノ。

「好き。特に、季節が乗る露天はいい」

「季節が乗る?」

「雪、風、夕焼け、朝靄、月。そういうものが湯と一緒に入ってくる露天」

「……あ」

 ユノは少しだけ分かった気がした。

「主様が好きそうです」

「そうだな」

 と、後ろからアレクシス。

「だろうと思った」

 と、ミレナ。

「だから“雪が降ったらもっと化ける”って言った」

「気が早い」

「でも本音でしょ?」

「……本音ではある」

「主様」

 と、リューシェ。

「今のはかなり刺さった顔じゃ」

「やっぱりそう見えるんですねえ」

 と、ベルノルト。


 客室へ通すと、ミレナは荷を下ろすより先に窓を開けた。


 冷たい山の空気がふっと入る。

 湯気の匂いも少し混じる。


「いい」

 と、彼女は短く言った。

「出た」

 と、リューシェ。

「主様の口癖が移るぞ」

「宿の湯気と一緒に広がるんじゃろう」

 と、ベルノルト。

「嫌な感染力ですね」

「悪くない」

 と、アレクシス。

「主様、それを今ここで言うから余計なんですよ」

「事実だ」


 昼前、ミレナはまず白湯へ入った。


 そして戻ってくるなり、広間の窓際へ座って、出された湯上がりの椀を飲みながらしみじみと言う。


「これは、冬に人を呼ぶな」

「今朝からそればかりだな」

 と、アレクシス。

「だって本当にそうだもん」

「そうなんですか?」

 と、ユノ。

「うん。今でもいい。でも雪の時季は、きっと“来る理由”が一段増える」

「ほう」

 と、リューシェ。

「嬢ちゃん、なかなか見る目があるの」

「見るのが好きだから」

「何をだ」

 と、アレクシス。

「宿の“これから”」

「……変わった客だな」

「よく言われる」

「主様、そこは妙に相性が良さそうですね」

 と、ベルノルト。


 広間の奥には、今日もいつもの顔ぶれがいた。


 赤湯帰りの老騎士。

 白湯を短く楽しみに来た地元の女たち。

 そして、昼の遅い時間に降りてきたゼフ。


 ミレナはその空気に、妙に自然に馴染んだ。


 広間で騒ぐわけではない。

 だが静かすぎもしない。

 窓の外の湯気を見ながら、ぽつりぽつりと必要なことだけ言う。


「この宿、冬になったら混むね」

「だろうな」

 と、アレクシス。

「主様」

 と、リューシェ。

「昨日の道の話、やはり正解じゃったな」

「ああ」

「橋と雪除け、急いだ方がいい」

「急ぐ」

「旦那様、もうその方向で決まりなんですね」

 と、ベルノルト。

「必要だ」

「出た」

「最近、本当に全部が一本に繋がってますよね」

 と、ユノ。

「湯、道、飯、部屋、全部」

「宿だからな」

「便利ですねえ……」

 と、ベルノルト。

「でも、ちょっと格好いいです」

 と、ユノ。

「坊や」

 と、リューシェ。

「今のはかなり主様寄りの感想じゃぞ」

「そうでしょうか」

「そうじゃ」

「嫌ではない」

「今日はそれ何回目です?」

 と、ベルノルト。

「数えるな」

「もう無理です、癖なので」


 夕方、塩泉の入りが良くなった時間帯になると、ミレナは言葉通り露天へ向かった。


 戻ってきた顔は、完全に“また来る客”の顔だった。


「どうだ」

 と、アレクシス。

「まだ秋なのに、気が早くて正解だった」

「そうか」

「うん。次は雪の時に来たい」

「本当に来る気ですね」

 と、ユノ。

「来る」

 ミレナは迷わず頷く。

「その時、橋がちゃんとしてると嬉しい」

「やる」

 と、アレクシス。

「主様」

 と、リューシェ。

「今のは宿主の顔じゃな」

「そうか?」

「そうじゃ。客に“来る理由”を渡された時の顔じゃ」

「そんなに分かるんですか」

 と、ユノ。

「分かるとも」

「最近、主様の顔を読む技能だけ、みんなすごく伸びてません?」

 と、ベルノルト。

「嫌な宿じゃのう」

 と、リューシェは笑った。


 夜の広間には、今日も火が入り、湯上がりの熱と飯の匂いが混ざっていた。


 新しい客が来る。

 前からの客がまた来る。

 話が一つ増える。

 やるべきことも一つ増える。


 朝霧亭は、本日も騒がしい。

 そしてその騒がしさは、もう立派に日常になっていた。

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