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第20話♨近すぎる名物、遠すぎる静けさ

 朝霧亭の評判は、湯気より早く町へ降りる。


 それは良いことでもあり、面倒ごとの始まりでもあった。


 この日の朝、山道を上がってくる足音は、湯治客のゆっくりしたものでも、荷を担いだ商人の実務的なものでもなかった。軽い。無駄に軽い。しかも二人、三人ではなく、妙にまとまっている。


 帳場で予約札を見直していたベルノルトが、玄関の方を見やって嫌そうな顔をした。


「……嫌な歩き方ですね」

「歩き方で分かるのか?」

 と、アレクシス。

「最近、少しだけ」

 と、ベルノルト。

「主様と一緒にいると、嫌でもそうなります」

「良いことだ」

「良いのかなあ……」

「良いことじゃ」

 と、リューシェが頬杖をついたまま笑う。

「坊やは?」

「え?」

 と、広間の卓を拭いていたユノ。

「今の足音、分かるか?」

「えっと……」

 ユノは耳を澄ませた。

「……なんか、湯に入りに来た人って感じじゃないです」

「ほう」

 と、リューシェ。

「だいぶ宿の側の耳になってきたのう」

「そうか?」

 と、アレクシス。

「そうです」

 と、ベルノルト。

「最近のユノ、かなり主様寄りですよ」

「嫌ではない」

「また重いやつだ」

「そんなにですか……」

 と、ユノ。

「かなりです」

 と、ベルノルト。


 ほどなくして、玄関先に若い男たちが現れた。


 年の頃は二十前後。町で半端に洒落たつもりらしい上着を着て、湯治に必要な荷は持っていない。手ぶらに近い者までいる。顔つきも、善人とも悪人とも言い切れないが、とにかく軽い。


「ここか」

「おお、本当にでかいな」

「湯宿っていうより館じゃん」

「なあ、あの噂の」


 その視線が、ほとんど一斉にユノへ向いた。


 ユノはもう、その視線の意味を知っている。


 数日前までなら、ただ縮こまっていただろう。

 だが今は、縮こまるだけで終わりたくないという気持ちも、少しだけある。


 それでも気分の良いものではない。肩が強張る。


「いらっしゃいませ」

 と、ひとまず言う。

「日帰り湯ですか。お泊まりですか」

「え?」

 と、一番前の男がきょとんとした。

「いや、その……」

「何だ」

 と、アレクシスが帳場から出てくる。

「主様」

 と、リューシェ。

「来たぞ、“宿に来たのではない客”が」

「見れば分かる」

 と、アレクシス。

「最近、ほんとにそればっかりですね」

 と、ベルノルト。


 男たちはアレクシスの顔を見て、一瞬だけ居心地悪そうにした。だが数がいることで気が大きいのか、すぐににやにやした笑いへ戻る。


「いやあ、ちょっと見物に」

「見物?」

「噂を聞いて」

「何の噂だ」

「可愛い看板娘……じゃなくて、看板係? がいるって」

「だから嫌な歩き方だったんですね」

 と、ベルノルト。

「主様、もう少し嫌そうな顔をしていい場面です」

「している」

 と、アレクシス。

「見えにくいんですよ!」


 ユノは耳まで赤くなった。


「ぼ、僕は……」

「看板係じゃ」

 と、リューシェが即答する。

「そこを今、肯定するんですか!?」

 と、ユノ。

「否定する理由がない」

 と、アレクシス。

「接客も所作も悪くない」

「そこじゃないです!」

「でも、見た目が強いのは事実だよな」

 と、男の一人が笑う。

「娘みたいだし」

「違います」

 今度のユノの声は、前より少しだけ低く、はっきりしていた。

「娘じゃないです」

「でも可愛いじゃん」

「それを見に来たなら、帰ってください」


 空気が、ぴたりと止まった。


 言った本人のユノが、いちばん驚いている。

 口に出すつもりはあった。

 でも、ここまですぐに出るとは思っていなかった。


 リューシェが、面白そうに目を細める。


「ほう」

 と、彼女は小さく言った。

「坊や、今日は早いのう」

「……あ」

 ユノははっとしたが、もう引っ込められない。


 男たちは顔を見合わせた。


「え、何」

「感じ悪くない?」

「俺たちまだ何もしてなくね?」


「している」

 と、アレクシスが言った。

「何をだよ」

「宿へ来たのではなく、働いている者を眺めに来た」

「それの何が悪い」

「宿では悪い」

「意味分かんねえ」

「分からなくていい。分かる客だけで回す」


 リューシェが、ぱたんと帳場の帳面を閉じた。


「主様」

「何だ」

「今日はちょっと機嫌が悪いな」

「静けさを食いに来ている」

「それは悪い」

「悪いです」

 と、ベルノルトが頷く。

「ユノが働きにくそうな顔をしてる時点で、かなり悪いです」

「そこ、そんなにはっきり言うんですね」

 と、ユノ。

「最近は言います」

 と、ベルノルト。

「帳場も回したいので」


 男たちはまだへらへら笑っていたが、その笑いは少しずつ引きつり始めていた。


「別に湯に入ってもいいんだろ?」

「入るなら客だ」

 と、アレクシス。

「だが、“あの可愛い子を見るついでに湯でも”という顔のまま入るなら歓迎しない」

「顔で決めんのかよ」

「かなり」

「主様、その返しはちょっと好きです」

 と、リューシェ。

「好きでよいのか?」

「よい。今日はかなり宿主らしい」


 その時、広間の奥から別の声が飛んだ。


「おい、そこ邪魔だぞ」


 赤湯帰りの老騎士である。

 今日は短い滞在で来ていたらしく、広間の隅で湯上がりの椀を飲んでいた。


 男たちが振り向く。


「何だよじいさん」

「玄関先でだらだら立たれると、出入りの邪魔だ」

「関係ねえだろ」

「ある」

 と、老騎士。

「ここは宿だ。湯へ入り、飯を食い、休むための場所だ。見世物小屋ではない」

「なんだよ、あんたまで」

「筋を違えるな」

 老騎士の声は大きくない。だが、よく通る。

「宿の者が嫌がっておる。十分だ」


 男たちの顔が明らかに変わった。


 アレクシスだけならまだ、“宿主がうるさい”で済ませたかもしれない。

 だが湯に入って戻ってきた客まで同じことを言うと、話は違う。


 そこへ、さらに白湯帰りの地元の女たちまでが顔を出した。


「あら、何の騒ぎ?」

「また看板係目当てかい」

「やだねえ」

「坊や、気にしなくていいよ。こっちは湯に入りに来てるんだから」


 ユノは目を瞬いた。


 守っているのはアレクシスだけではない。

 もう、この宿の客たちの側にも、“朝霧亭の空気”を守る意識が生まれ始めているのだ。


「主様」

 と、リューシェが愉快そうに言う。

「これは面白い流れになってきたのう」

「どういう意味だ」

「宿の客が宿の空気を守り始めた」

「……ああ」

 アレクシスは短く頷いた。

「そうだな」


 男たちはさすがに居心地を失ったらしく、ひそひそと顔を寄せ合った。


「……行くか」

「何だよ、感じ悪い宿」

「感じ悪くて結構」

 と、アレクシス。

「湯に入りに来る時は迎える。そうでないなら要らん」

「主様、それ、今日かなり切れ味いいですね」

 と、ベルノルト。

「静けさが大事だ」

「そこへ戻るのう」

 と、リューシェ。


 男たちはぶつぶつ言いながら去っていった。


 山道を下りる軽い足音が遠ざかると、玄関先の空気はようやく元に戻る。


 ユノはずっと詰めていた息を吐いた。


「……はぁ」

「怖かったか」

 と、アレクシス。

「……はい」

「そうか」

「でも」

「何だ」

「ちゃんと言えました」

「言えたな」

 アレクシスはそれだけ言った。

 だがその一言は、ユノにとって十分に重かった。


「坊や」

 と、リューシェ。

「今日のおぬしは上出来じゃ」

「……っ、はい」

「主様の前でそれを言われると、また妙に重く響くんですよ」

 と、ベルノルト。

「実際重いです」

「そうなのか」

 と、アレクシス。

「そうです」

 と、ユノが今度は少し笑った。


 だが、問題はそれで終わらなかった。


 昼を過ぎた頃、また別の若者たちが二人、三人と様子を見に来たのである。今度は露骨に声をかけるほどではない。だが広間へ入らず、玄関の外から覗くだけ覗いて帰る。噂が町で独り歩きしている証拠だった。


 リューシェが額へ手を当てる。


「これはいかんな」

「良くない」

 と、アレクシス。

「どうする」

 と、ベルノルト。

「宿札の横に“見物のみの立ち寄りお断り”でも出します?」

「出す」

「即答ですね」

「必要だ」

「またそれですか」

「事実じゃ」

 と、リューシェ。

「だが、文字だけでは足りぬな」

「どういう意味ですか」

 と、ユノ。

「噂の流れそのものを少し変えたい」

「変える?」

「うむ。今は“可愛い看板係がいる”ばかり先に出ておる」

「嫌です……」

「嫌なのは分かる。だから“名湯の宿で、働き者の看板係がいる”くらいまで変えねばならん」

「そこまで行っても結局そこなんですね!」

「見た目は強いからの」

「武器として便利ですし」

 と、ベルノルトがつい言ってしまう。

「ベルノルトさん!?」

「いや、違う、違うんだよ。そういう意味ではなく、宿の印象として……」

「同じです!」


 アレクシスは少し考え、それから言った。


「では、帳場の前へ立て」

「え?」

 ユノが固まる。

「な、なんでですか」

「立つだけだ」

「主様、それは何の策じゃ」

 と、リューシェ。

「客を見分ける」

「ほう」

「本当に湯に入りに来た者は、湯や部屋や飯の話をする。そうでない者は、おまえの顔ばかり見る」

「……ああ」

 と、ベルノルト。

「なるほど、選別ですか」

「そうだ」

「主様、そういう時だけ妙にえぐいのう」

「必要だからな」

「でも理にはかなってる」

 と、リューシェ。

「坊や、やってみるか」

「…………」

 ユノは少し迷った。

 だが今日、ちゃんと自分の口で言えたことが、背中を少し押した。


「……やります」

「よし」

 と、アレクシス。

「無理はするな」

「はい」


 午後の広間は、少しだけいつもと違う空気になった。


 ユノが帳場の前に立つ。

 もちろん、何も派手なことはしない。客が来ればいらっしゃいませと言い、日帰りか泊まりかを聞き、茶器を運ぶ。いつも通りだ。


 ただ、見える位置にいるだけ。


 すると、面白いほど違いが出た。


 本当に湯目当ての客は、まず湯の札を見る。

 次に湯の匂いを嗅ぎ、部屋が空いているか、日帰りでも入れるか、食事はつくかを聞く。ユノの見た目に多少驚いても、それで終わる。


 反対に、見物目当ての者は、最初から最後までユノしか見ていない。湯の札も部屋も見ない。

 アレクシスはそれを横から静かに切り分けた。


「日帰り湯なら受ける」

「宿の見物だけなら帰れ」

「次だ」

「おまえは客ではないな」


 ぶっきらぼうだが、明快である。


「主様」

 と、リューシェが言う。

「おぬし、今日はほんに容赦ないのう」

「静けさを守る日だ」

「良い顔で言いおる」

「でも、すごく助かります」

 と、ユノ。

「そうか」

「はい」

「ならいい」

「その返しで全部よくなるの、ずるいですよね」

 と、ベルノルト。


 そして夕方近く。


 最後に来たのは、町で噂を聞いてきたらしい若い娘二人組だった。


「すみません」

「ここ、噂の宿ですよね」

「白い湯に入りたいんですけど……」

 そのあと、片方がユノを見て目を輝かせた。

「え、ほんとに可愛い」

「…………」

 ユノは少しだけ固まりかけたが、今度はそこで引かなかった。

「ありがとうございます」

 と、はっきり言う。

「でも、僕はこの宿の仕事をしてるので」

「え?」

「お湯に入るなら案内します」

「……あ」

 娘たちは顔を見合わせ、それから少し恥ずかしそうに笑った。

「ごめんなさい。そうですよね」

「白い湯、今空いてます?」

「空いてます」

 ユノはきちんと頷いた。

「今日はやわらかいです」

「やわらかい?」

「主様がそう言ってたので」

「坊や」

 と、リューシェが吹き出す。

「完全に宿の言葉を喋るようになったのう」

「だって本当にそうなんだもん」

 と、ユノが少しむくれる。

「おお」

 と、ベルノルト。

「今の、かなり自然に出ましたね」

「自然じゃったな」

「悪くない」

 と、アレクシス。

「主様の“悪くない”、今日何回目です?」

「数えるな」

「無理です。最近、そこはもう習慣なので」


 娘たちは白湯へ向かっていった。


 ユノはその背中を見送りながら、少しだけ肩の力を抜く。


「……あれ」

「何じゃ」

 と、リューシェ。

「なんか、今日はちょっと平気です」

「何がじゃ」

「見られるの」

「ほう」

「嫌じゃないわけじゃないです。嫌な見方は、やっぱり嫌です。でも……」

「でも?」

 と、アレクシス。

「ちゃんと宿の仕事として立ってるなら、少し違う気がして」

「…………」

「主様」

 と、リューシェが笑う。

「坊や、今日かなり育ったぞ」

「ああ」

 と、アレクシス。

「そうだな」

「主様、その“そうだな”は今日いちばん重いですね」

 と、ベルノルト。

「そんなにですか……」

 と、ユノ。

「そんなにです」

 と、ベルノルト。

「かなりです」


 アレクシスは少しだけ視線を和らげて言った。


「よく立った」

「……っ、はい」


 短い言葉だった。


 けれど、その一言で今日一日の緊張と恥ずかしさと、少しだけ誇らしい気持ちまで全部が報われるような気がして、ユノはまた耳まで赤くなった。


 リューシェは、その様子を見てにやにやしている。


「やはり看板係向きじゃな」

「結局そこへ戻るんですか!?」

「戻るとも」

「もう嫌です!」

「嫌がる顔まで込みで看板じゃ」

「悪質!」


 広間には、今日も湯上がりの笑い声が混ざり始めていた。


 朝霧亭は、ただの名湯宿ではなくなりつつある。

 湯があり、飯があり、静けさがあり、そして宿の空気そのものを守ろうとする人間が増え始めている。


 それは宿にとって、かなり大きな変化だった。

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