第21話 王都から来た“視察”
朝霧亭に、王都の空気は似合わない。
少なくとも、山の朝そのものはそう思っているようだった。
夜の冷えをまだ少し含んだ風が、回廊の柱を撫で、石段の縁に溜まった露を揺らし、谷の底から上がる靄へ七泉の湯気が重なって白く長く伸びていく。鳥の声は遠く、広間の火はまだ柔らかく、厨房の鍋も本格的に鳴き始める一歩手前。そんな時間帯に、街道の下の方から響いてきた車輪の音だけが、妙に硬かった。
ごと、ではない。
ごとり、ごとり、と、石畳を確かめるような音だ。
ユノは玄関先の敷布を直していた手を止めた。
「……なんか」
「何じゃ」
と、リューシェ。
「今日の馬車、いやな感じです」
「ほう」
と、リューシェは頬杖をついたまま笑う。
「坊や、ついに“馬車の嫌な感じ”まで分かるようになったか」
「え、いや、そんなすごいことじゃ……」
「すごいぞ」
と、ベルノルトが帳場の奥で書類をまとめながら言った。
「最近のユノ、かなり宿の側の感覚になってきてる」
「そうか?」
と、アレクシス。
「そうです」
と、ベルノルト。
「旦那様よりは言語化が柔らかいですけど」
「“よりは”が余計じゃ」
と、リューシェ。
「だが的確ではある」
「主様は?」
と、ユノ。
「何だ」
「分かりますか」
「分かる」
と、アレクシス。
「嫌な音だ」
「出ましたね」
と、ベルノルト。
「最近、本当に迷いなく言い切りますよね」
「見れば分かる」
「それとだいたいセットなんですよね……」
ほどなくして、馬車が朝霧亭の馬車寄せへ入ってきた。
豪奢ではない。
だが、無駄がない。
車体は濃い色で塗られ、紋は控えめ、装飾も少ない。けれど車輪の作りも、馬具の質も、御者の手綱さばきも“雑な役人の旅”ではない。王都の人間が、王都のやり方で整えてきた馬車だ。
扉が開き、最初に降りてきたのは痩せた中年男だった。
四十代半ば。髪はきっちり撫でつけ、顎には短く整えた髭。外套は地味だが上等で、靴の泥ひとつにまで「歩き慣れているが、汚れ慣れてはいない」感じが出ている。目元は冷静で、口元は薄い。人を値踏みするのが仕事になっている顔だ。
その後ろに、若い補佐官めいた男と、書記役らしい女、それに護衛が二人。
ユノは一目で「面倒だ」と思った。
口にこそ出さないが、全員が“仕事で来た顔”をしている。
男は馬車から降りるなり、宿を見上げた。
石壁。木の回廊。湯殿の位置。厩舎。馬車寄せ。広間へ続く導線。
目が動くたびに、「見る」というより「査定する」に近い空気がある。
「……なるほど」
男は小さく言った。
「山の宿にしては、思ったより整っている」
「整えてある」
と、アレクシス。
「ようこそ、朝霧亭へ」
「私は王都より来たセルジオ・ファルン」
男は名乗った。
「街道整備局と地方資源管理院の連名による視察だ」
「視察」
と、リューシェが横で言う。
「主様、来たのう」
「来るとは思っていた」
と、アレクシス。
「思ってたんですか!?」
と、ベルノルト。
「言っておいてくださいよそういうのは!」
「必要だったか」
「必要です!」
「便利な言葉じゃのう」
と、リューシェ。
「今日は主様ではなく、おぬしがそれを使う番か」
セルジオは、リューシェを一瞥し、次にユノを見た。
だがそこで余計な反応はしない。
そこは王都の役人らしい。
少なくとも表に出すべきでない驚きは飲み込む程度には訓練されている。
「宿主殿でよろしいか」
「そうだ」
「元勇者アレクシス卿」
「今は宿主だ」
「そういう話をしているのではありません」
「だいたい同じだ」
「全然違います」
と、ベルノルトが小声で言う。
「今のは違います」
「おぬし、今日ずいぶん素早く反応するのう」
と、リューシェ。
「嫌な予感がしてるので」
「賢い」
セルジオはわずかに眉を動かしただけで、会話の流れを切らさなかった。
「本日の訪問は、あくまで表向きには、街道整備と温泉資源の確認だ」
「表向きには?」
と、リューシェが面白そうに言う。
「おや、裏もあるのかえ」
「……率直に申しましょう」
セルジオはアレクシスをまっすぐ見た。
「王都では今、“魔王を倒し最上位貴族の一角となった男が、辺境の山で本気の湯宿を始めた”という話が流れている」
「流れるだろうな」
と、アレクシス。
「否定しないのか」
「事実だからな」
「主様、そういう時だけ変な清々しさを出すのう」
「事実だ」
「便利じゃなあ」
補佐官らしい若い男が、少しだけ口を挟んだ。
「正直に言えば、王都では半分が“気まぐれの道楽”だと思っています」
「半分?」
と、リューシェ。
「年寄りの評価みたいじゃな」
「そういう比率ではないと思います」
と、ベルノルト。
「だが近いものはある」
と、アレクシス。
「そしてもう半分は?」
と、アレクシス。
「放っておくと、本当に評判になりそうだと見ている」
「……なるほど」
「どちらなのか、見に来た」
「分かりやすいな」
「役人は分かりやすく言う時の方が危ないのですよ」
と、ベルノルトがぼそっと言う。
「よく知っておるのう」
と、リューシェ。
「旦那様の領地で散々見てきましたから……」
アレクシスは少しだけ頷いた。
「なら見ろ」
「案内していただけるか」
「構わん」
「主様」
と、リューシェが小さく笑う。
「今日は妙に素直じゃな」
「見るために来たのなら、見せた方が早い」
「それもそうじゃ」
こうして、朝霧亭は営業前の時間帯に“視察の客”を抱えることになった。
まず案内したのは湯殿だった。
セルジオは最初、明らかに「山の宿にしては整っている」程度の目で見ていた。
だが、赤湯、白湯、青湯、硫黄泉、塩泉、清湯、そして露天へと順に見せられるうち、その目つきが少しずつ変わっていく。
「七つとも、分けておるのか」
「分けている」
と、アレクシス。
「混ぜない」
「維持が大変では?」
「大変だ」
「それでも?」
「役割が違う」
「役割?」
「客の状態で勧める湯が変わる」
「……本気だな」
セルジオはそこで初めて、やや意外そうに言った。
「何だと思っていた」
「もう少し、“名物を並べた宿”に近いものかと」
「違う」
「違うな」
と、リューシェ。
「主様は“湯を使って客を休ませる”ところまで考えておる」
「第三泉は朝方の温度が少し落ちやすいから、そこは今も調整中だ」
と、アレクシスがさらりと言う。
補佐官が目を丸くする。
「今も?」
「今もだ」
「開業後も?」
「当然だ」
「主様、その“当然”の範囲が王都の人間にはだいぶ異常に映っておるぞ」
「そうか?」
「そうです」
と、ベルノルト。
「かなりです」
と、ユノも小さく頷いた。
次に見せたのは客室だった。
貴族向けの客室。
湯治客向けの長逗留の部屋。
どちらも寝台の質は落とさないが、調度と広さは変える。
セルジオは窓掛けの布に触れ、寝台の詰め物の沈みを確かめ、床の軋みを見た。
「……妙だな」
「何がだ」
と、アレクシス。
「見栄のかけ方が、王都の宿と違う」
「そうか」
「王都の宿なら、貴族部屋にもっと露骨な豪奢さを入れる」
「要らん」
「なぜ」
「湯の後に休める方が大事だ」
「主様」
と、リューシェ。
「今日は“宿だからな”をまだ言っておらんぞ」
「そのうち出る」
「出ると思います」
と、ベルノルト。
「時間の問題ですね」
「何の賭けだ」
ユノは視察一行の後ろを回りながら、客室の札や水差しをさりげなく直していた。
王都の役人と聞いて、最初はずいぶん緊張した。
だが今は、少し違う感覚もある。
この宿がどう見えるのか。
王都の人間が何を気にするのか。
それを見ることも、宿の側にいる者の仕事なのだと、なんとなく分かってきたからだ。
書記役の女が、そのユノを見てぽつりと言った。
「所作がきれいですね」
「え」
と、ユノ。
「ありがとうございます」
「看板娘と噂される理由が少し分かる」
「違います!」
ユノが反射的に叫ぶ。
書記役の女が一瞬だけ目を丸くし、それから吹き出した。
「失礼。ああ、なるほど、そういう反応も込みで噂になるわけですね」
「だから込みにしないでください!」
「坊や」
と、リューシェ。
「やはり今日は王都相手でもよく声が出るのう」
「もう嫌です……」
「でも、今のは悪くなかった」
と、アレクシス。
「接客の声もちゃんと届いた」
「主様、そこはやっぱりそこなんですね」
と、ベルノルト。
「そこだ」
「ぶれませんねえ」
広間へ戻ると、ちょうど厨房から昼前の煮込みの香りが立ち始めていた。
セルジオはそこで初めて、はっきりと足を止めた。
「……飯も出すのか」
「宿だ」
と、アレクシス。
「出た」
と、リューシェ。
「本日一回目じゃ」
「来ましたね」
と、ベルノルト。
「やっぱり締めはそれなんだ」
「便利だろう」
「便利すぎるんですよ」
視察一行へは、軽い昼食が出された。
温い煮込み。
根菜を柔らかく煮た皿。
薄い塩の利いた汁。
少量の魚。
そして黒パン。
派手ではない。
王都の役人に見せるなら、もっと飾ることもできただろう。
だがアレクシスはしなかった。
セルジオは最初、その質素さに少しだけ眉をひそめた。
だが、ひと口食べたあとで表情が変わる。
「……軽いな」
「湯の後に重すぎないようにしている」
と、アレクシス。
「昼の客には特にそうだ」
「見た目は素朴だが、腹には静かに落ちる」
「そうだ」
「これは……」
セルジオは椀を置き、少しだけ考えるような顔をした。
「王都の宿では、あまり出ぬ発想だ」
「豪勢な方が喜ばれるからの」
と、リューシェ。
「主様は、そこをあえてずらしておる」
「湯宿だからな」
「二回目です」
と、ベルノルト。
「数えるな」
補佐官が低く言った。
「……これは、道楽の味ではないですね」
「何だと思った」
と、アレクシス。
「貴族が余生の趣味で始める宿なら、もっと“見せる”方へ金を使います」
「見せるところも整えてはいる」
「ええ。ですが、それより先に“休ませる”方へ金と頭を使っている」
「そうだ」
「主様」
と、リューシェ。
「今のは、ちょっと嬉しそうな顔をしたぞ」
「してない」
「しております」
と、ベルノルト。
「かなり分かりやすく」
「不本意だな」
「でも、悪いことではありません」
と、ユノが小さく言う。
「何だ」
「だって、ちゃんと見てもらえたんだなって」
「……そうだな」
食後、セルジオは帳場の前で静かに言った。
「アレクシス卿」
「宿主だ」
「では、宿主殿」
「それでいい」
「正直に申し上げます」
「言え」
「私はここへ来る前、半分は“田舎で始まった上等な湯の道楽”だと思っていた」
「もう半分は?」
「元勇者の名前で評判だけが先に走っているのでは、と」
「で、今は」
セルジオは広間を見た。
帳場。
湯上がりの客の動線。
広間の火。
食器の置き方。
湯殿から戻る地元客と貴族客が、互いにぎこちなくも同じ空気を共有している様子。
ユノの立ち働き。
ベルノルトの帳面の回し方。
リューシェの、何もしていないようで全部を見ている目。
そして、細部にまで本気で手を入れているアレクシス。
「放っておけば、評判になる」
セルジオは言った。
「かなり大きく」
「そうか」
「ええ。これはもう、ただの辺境の宿では終わらない」
「終わらせるつもりもない」
「主様」
と、リューシェ。
「今のはちょっと勇ましすぎるぞ」
「事実だ」
「出ましたね、便利なやつ」
セルジオは少しだけ口元を緩めた。
「王都へは、そのまま報告する」
「好きにしろ」
「好きにする」
「主様、そういう時だけほんに投げるのう」
「見るために来たのなら、見たまま持ち帰ればいい」
「それは正しいが、愛想はない」
「最近、その評価で固まりつつありますね」
と、ベルノルト。
「宿主としては悪くないかもしれんが」
視察一行が帰る前、書記役の女がユノへ声をかけた。
「あなた」
「は、はい」
「王都では、噂というものはよく歪みます」
「え」
「だから、“看板娘がいる宿”で終わるかもしれない」
「嫌です」
「でしょうね」
女は少し笑った。
「でも、そのうち“ちゃんとした宿に、看板みたいに目立つ働き手がいる”くらいには変わると思うわ」
「……それも、ちょっと嫌です」
「そういう顔も含めて、覚えられやすいのよ」
「褒められてる気がしません……」
「たぶん半分は褒め言葉じゃ」
と、リューシェ。
「年寄りの評価みたいですね」
と、ベルノルト。
「近いのう」
馬車が去ったあと、広間には少しだけ妙な静けさが残った。
王都の目がここを見た。
それも、ただ“元勇者の道楽”としてではなく、“評判になる宿”として見た。
その意味は、小さくない。
アレクシスはしばらく玄関の外を見ていたが、やがて振り返って短く言った。
「悪くない」
「出たぞ」
と、リューシェ。
「今日は何度目じゃ」
「数えるな」
「無理です」
と、ベルノルト。
「最近もう、そこは本当に習慣なので」
「主様」
と、ユノ。
「何だ」
「王都の人にも、ちゃんと伝わったんですね」
「そうだな」
「それ、ちょっと嬉しいです」
「そうか」
「はい」
「……なら、それでいい」
「また重いやつだ」
と、ベルノルト。
「本当にユノ相手だと濃くなりますね」
「そうか?」
「そうじゃ」
と、リューシェ。
「主様、おぬしそこだけは分かりやすすぎる」
朝霧亭は、山の宿だ。
だが、山の中だけで完結していく宿では、もうなくなり始めていた。




