69話:テレサ・テンの墓参り
墓地の駐車場に着いて、歩き始めると、高齢の男性が、別当さんですかと聞き、そう出ると言うと、私は、色々と説明をしてくれた。彼は、テレサ・テンの墓地の案内をしているガイドさんだった。テレサは、元々大陸出身の外省人であると言った。
大陸出身の両親の子として台湾で生まれ14歳でプロデビュー、その後、スターの階段を登った。でも彼女を取り巻く環境は、時を追うごとに煩雑化し、中国への反共の歌として流されていた時代もあったと明かした。
まだ、日本と台湾が、正式な国交がなかった時、2つの国の間で、旅券法違反に問われて国外退去処分になった。1年程のブランクを経て復帰し、香港へと活動拠点を移して活動を再開させた。
日本での活躍は美佐さんが、ご存じの通り。しかし、両親の祖国である中華人民共和国の共産党の一党独裁政治に否定的な考えを持っていたこともあり、民主化支援コンサートに参加し30万人もの民衆の前で歌の披露と中華人民共和国の民主化実現を訴えた。
中国が、例え、弾圧しても水面下では、情報が流れてしまう時代、中華人民共和国ではテレサの歌の販売や所持を禁止する措置を取っていたものの、実際には海賊版のテープが多数流通しており、それによってテレサの歌に触れていた国民も多かった。
ふたつの祖国のひとつ、両親の出身地である大陸でのコンサートをテレサは熱望した。しかしそこで起こった天安門事件、1990年に予定されていたコンサートは、テレサの生前にはついに行われなかった。
この話を聞いていると、満重先生が、目頭を押さえ、泣き始めたのには、他の人達も驚いていた。その後1989年、傷ついた心を癒すため、単身パリへ移住し、表舞台から距離を置くようになった。ところが、彼女の持病の気管支喘息を悪化させ喘息発作が頻発するようになり体調が悪化。
パリで知り合った10歳も年下の若いフランス男とタイへ移動したが、喧嘩が絶えなかったようだ。1995年5月8日、彼女の恋人は、外出していた。17時過ぎにドアを開け、倒れこんだ。
ホテルの人が見つけ、病院へ急いで運んだが、交通混雑で、病院着は、30分後であり、既に心肺停止状態で瞳孔が開き脳死状態で、その後死亡が確認されて、亡くなった。
約30分のガイドが、終了して、近くを散策すると、大勢の台湾人の中に日本人の参拝者もかなりいて、かつての日本での人気の高さを彷彿とさせられた。そして、彼女のお墓に入ると自動的に彼女の名曲が流れるのには、感銘を受けた。
その後、再び車に乗って、台北の中心街に帰り、17時に、満重先生たちにお礼を言って、別れた。17時半の台湾新幹線で、台南へ向かった。19時前に台南駅に到着し、タクシーでシャングリラホテルに入った。
ホテルで夕食を食べて、風呂に入り、部屋で酒を飲んで21時過ぎに床についた。翌朝、8時起きて朝食をとって、タクシーでを呼んで、40分で関子嶺温泉へ行った。そして「関子嶺大旅社」で、温泉付客室を借りた。
早速、部屋の風呂に温泉を入れ温泉に浸かって雑談をして部屋に戻りゆっくりとした。灰色と言うか、昔の言い方で言えば「ねずみ色」の湯であり、手で触った感触はさらさら、少し泥の滑らかさ、ぬめりを感じるといった感じである。
しかし、強烈な油臭がして、泥湯特有の硫黄の香りがしない。熱すぎる場合は、隣の水の蛇口をひねれば加水でき適温に調節できる。湯あがりは、ぽっかぽかで汗が出て止まらない。また、肌がしっとりと柔らかくなった。
部屋は、簡素で、ベッドで、ゆっくりと休んで、時を過ごし、のどが渇くとお茶、冷蔵庫のビールを飲んで、窓を開放すれば、涼しい風が、入って来る、日本の古き温泉宿の趣があり休息できる。
16時に予約したタクシーが来て、シャングリラホテルに帰った。その後、タクシーを呼び、神農街へ向かった。あらかじめホテルで聞いていた台南のちまきの名店に入り、大きな、ちまきをほおばった。ちまきの中にはピーナッツ、豚肉が入り実に旨い。
食事を終えると、暗くなって、また、一段と昔の日本の街角と言った風情を醸し出していた。次は、これもホテルで聞いた「太古」と言う店にむかった。徒歩10分足らずで、見つかり中に入った。




