36話:株投資成功と小渕首相の急逝
ローム株は、1990年11月27日、135%、1992年3月26日、120%、の2回の株式分割で5000株が8100株に増加していた。そのため、税引き後利益が30800万円で、残金合計が31300万円となった。
こうして2000年を迎えた。1月1日、コンピュータの2000年問題の発生が注目されたが、大きな問題などは起こらずに無事年越しを迎えた。その時の小渕恵三総理大臣が、4月2日に脳梗塞を発症。
実はこの前日4月1日、連立与党を組んでいた自由党との連立が決裂しており、4月1日午後、政権運営がより困難になったと思われる。この緊急事態について記者から質問されると小渕はしばし答弁できず、無言状態から言葉を出すのに10秒前後の不自然な間があった。
これが、脳梗塞が原因で生じる一過性脳虚血発作と考えられており、症状が回復したときに言葉を出すことができた。元々心臓に持病があり加えて首相としての激務が脳梗塞を引き起こしたのかもしれない。
総理の執務が終わり公邸に戻っても大量の書類・書籍・新聞の切り抜きに目を通し、徹夜でビデオの録画を見るのが日課で、一般人を含む様々な電話をかけ、休日返上で様々な場所へ出かけたり外相時代から外遊を多くこなしたことも健康悪化に拍車をかけた様だ。
小渕総理は、意識が判然としないまま当日の夜に順天堂大学医学部附属順天堂医院に緊急入院した。執務不能により青木幹雄を首相臨時代理に指名したとされている。
しかし、青木の首相代理就任に関しては、「脳梗塞で既に意識を完全に失っていた小渕本人に指名を行うことができたのか」と野党やメディアに疑惑として追及された。
後に青木本人が「小渕さんの症状は脳死ではないのか?」という記者からの異議申し立てを却下したうえ、医師団が曖昧な説明しかしなかったため疑惑は残り後任の森喜朗総裁誕生の舞台裏と併せて、密室談合政治と批判された。
4月5日、小渕首相が、昏睡状態の中、青木首相臨時代理は、小渕内閣の総辞職を決定。内閣総理大臣の在職中の病気を理由とした退任は1980年6月に急逝した大平正芳以来20年ぶりのことであった。
その後も小渕の昏睡状態は続き、意識を回復することのないまま、倒れてから約1か月半を経た同年5月14日16時5分に死去。62歳だった。なお奇しくも、父と同じ病気で倒れ同じ病院で亡くなった。密葬は5月16日に東京都青山葬儀所にて行われた。
2000年の夏休み、川崎のNECに入社したいと希望して夏休み4週間のアルバイト研修を志願して働きに行った。その時、ソフトウェア開発技術者の能力の高さを見て、自分に出来るのか、不安になってしまった。しかし、従業員の対抗の良さは好感が持てた。
アルバイトを終えて、雨宮時雄は、自分には、NECの方が、あってるかもしれないと感じ、漠然と、NECの研究所に入社した意図考えるようになった。特に、先輩の新しいことをしようぜの一言が、気に入ってしまった。
しかし、この年も日本経済の凋落ぶりが目立つ1年となった。7月に、大手百貨店そごう、民事再生法の適用を東京地裁に申請し事実上倒産した。関連会社を含むグループ全体の負債総額が2兆円を超える大型倒産となった。
10月にもバブル期の過剰な不動産投融資で失敗した千代田生命や協和生命など倒産が相次いだ。こうして2001年を迎えた。このこと、雨宮ほたるは、奥さんに、金が出来たから、仕事を辞めても構わないと告げた。
それに対し、自分の生活リズムを壊したくないし、会社でも、まだ、必要とされているので、申し出は、ありがたいが、継続して銀行で、働きたいと話した。それを聴き、了解しましたと答えた。
この頃、雨宮は、投資の方法を攻めの投資から、安全性を重視した守る投資へ変更しようと考え、再度、投資法について、シティバンク、メリルリンチ、その他、日本の大手、中小の証券会社で、意見を聞いて回った。
しかし、聞かされることは、為替取引が良いとか、今後出てくるであろう投資信託「ファンド」が、良いなどの意見であり、なるほどと言えるものが、なかった。そのため、少し様子を見て対応しようと考えていた。




