31話:イラク敗戦と日本の景気後退
しかし、「不法な侵略者イラク対国際社会」の構図は揺らがなかった。アメリカは、急遽イスラエルや湾岸諸国にパトリオット地対空ミサイルシステムを配備して迎撃し、当時はほとんど打ち落としたと主張していた。
しかし、本来これは対航空機用の兵器である。後の研究報告により、それほど役立っていなかったことが判明。「これを受けて、アメリカとイスラエルはミサイル迎撃システムの開発を進めることになり、ミサイル対応のパトリオットミサイルPAC-3を開発した」。
1月29日、イラク軍はサウジアラビア領のペルシャ湾上にあるカフジ油田を奇襲攻撃。しかし戦略も何もなく、また多国籍軍の抵抗にあって失敗し、翌30日に撤退した。
1カ月以上に亘って行われた恒常的空爆により、イラク南部の軍事施設はほとんど破壊された。2月24日に空爆が停止された。同日、多国籍軍は地上戦「砂漠の剣作戦」)突入。クウェートを包囲する形で、イラク領に侵攻した。
イラクは、翌2月25日にスカッドミサイルでサウジアラビアを攻撃、ダーラン近郊の第14補給分遣隊兵舎に命中させ、28人を殺害、100人以上を負傷させた。しかし、抵抗はここまでであった。
地上戦開始から100時間後にイラク軍は二本の幹線道路に長蛇の列を作って撤退開始、2月26日から翌日にかけてそれを米軍機は猛爆し、死のハイウェイと化し、夜が明けた頃には無数の焼け焦げた車両と焼死体が散乱していた。
2月27日には、クウェート市を解放、多国籍軍は敗走するイラク軍を追撃した。2月28日の朝「イラク時間」に戦闘が終結した。アメリカのブッシュ大統領は記者会見で、クウェートは解放された。
イラク軍は敗北した。我々の戦闘目的は達成された。多国籍軍の勝利であり、国連の、全人類の、そして法の支配の勝利であると述べた。一方で、イラクのフセイン大統領は、あなたがたは勝利した。
イラク国民よ、イラクこそ勝者である。イラクは悪とテロと侵略主義の帝国であるアメリカのオーラを破壊するのに成功したのだと主張した。その後、3月3日には暫定停戦協定が結ばれた。
3月3日に、イラク代表が暫定休戦協定を受け入れたが、イラク軍の主力は多くが温存され、この温存兵器が後の懸案事項となった。終戦直後に南部シーア派住民と北部クルド人が反フセイン暴動を起こした。
しかし、米英の介入はないと見たフセイン大統領は温存した軍事力でこれらを制圧し、首謀者ら多数が殺害されたといわれる。国連では、1ヵ月後の4月3日にクウェートへの賠償。
「大量破壊兵器(生物化学兵器)の廃棄」、「国境の尊重」、「抑留者の帰還」などを内容とする安保理決議687号が採択された。4月6日にイラクが受諾して正式に停戦合意、4月11日に687号は発効した。
日本では、証券・金融不祥事が続発し、大口顧客への損失補てんなど一連の不祥事について、野村証券の田淵義久社長が、陳謝した。8月のモスクワでは、保守派のクーデターが失敗に終わり、ソ連邦が事実上崩壊。
市民が見守るなか引き倒されたKGB「旧ソ連国家保安委員会」の前身に当たる治安機関の初代長官ジェルジンスキーの銅像が、引き倒された。こうして、1991年が終わり、1992年となった。
以前、購入したローム株が、1992年3月26日に120%の株式分割をして、所有するローム株13500株が、16200株に増えた。4月には、雨宮時雄は、地元の中学に入学。
この年から時間があると両親が、雨宮時雄の勉強を見てやるようになった。すると時雄は、計算が早く、記憶力も良いとわかった。それに父に似て、集中力が強く、考えてるときに話しかけるのを嫌がった。
1992年2月19日、経済企画庁が日本経済が昨年1~3月期をピークにリセッション入りしたと発表した。5月2日、国家公務員の週休2日制スタートした。8月11日、東京証券取引所第1部の平均株価が、15000円を割り込む。
1992年11月3日、沖縄県那覇市首里に首里城が復元された。やがて、1992年が終わり1993年となった。1993年2月7日から2泊3日で、雨宮一家は、沖縄旅行を企画した。




