30話:湾岸戦争の戦況
湾岸戦争は、昨年1990年8月2日のイラクによるクウェート侵攻をきっかけに国際連合が多国籍軍「連合軍」の派遣を決定。翌1991年1月17日、アメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領はアメリカ軍部隊をサウジアラビアへ展開。
同地域への自国軍派遣を他国へも呼びかけた。諸国の政府はこれに応じ、いわゆる「多国籍軍」が構成された。同日、イラクを空爆して湾岸戦争が、勃発し、拡大していった。
アメリカ軍が多数を占めるこの連合軍には、ノーマン・シュワルツコフ米陸軍中将が司令官となり、イギリスやフランスなどといったヨーロッパのみならず、イスラム世界の盟主サウジアラビアを始めとする湾岸諸国。
その他、アラブ連盟の盟主エジプトといった親米アラブ諸国、さらにイラクと同じバアス党政権のシリアのような親ソ連の国も参加した。この湾岸戦争に参加したアラブ諸国はシュワルツコフではなく、サウジアラビアのハリド・ビン・スルタン陸軍中将の指揮下に置かれた。
これに続き、2月23日から陸上部隊による進攻が始まった。多国籍軍はこれに圧倒的勝利をおさめ、クウェートを解放した。陸上戦開始から100時間後、多国籍軍は戦闘行動を停止し、停戦を宣言した。
空中戦及び地上戦はイラク、クウェート、及びサウジアラビア国境地域に限定されていたが、イラクはスカッドミサイルをサウジアラビア及びイスラエルに向け発射した。
戦費の約600億ドルの内、約400億ドルはサウジアラビアから支払われた。1月17日に、多国籍軍はイラクへの爆撃「砂漠の嵐作戦」を開始。宣戦布告は行われなかった。
この最初の攻撃は、サウジアラビアから航空機およびミサイルによってイラク領内を直接たたく「左フック戦略」と呼ばれるもので、クウェート方面に軍を集中させていたイラクは出鼻をくじかれ、急遽イラク領内の防衛を固めることとなった。
巡航ミサイルが活躍し、アメリカ海軍は288基のUGM/RGM-109「トマホーク」巡航ミサイルを使用、アメリカ空軍は、B52から35基のAGM-86XC CALCMを発射した。CNNは、空襲の様子を生中継して世界に実況報道した。
1月27日にアメリカ中央軍司令官であったアメリカ陸軍のノーマン・シュワルツコフ大将は「絶対航空優勢」を宣言し、戦争が多国籍軍側に有利に進んでいることを強調した。
アメリカ空軍はイラク軍防空組織に最初期から攻撃を加えており、イラク軍防空システムは早期の段階でほぼ完全に破壊された。これによって戦闘開始直後からイラク空軍の組織的な防空戦闘は困難となり、多くの航空機がイランなどの周辺国へと退避した。
ただし開戦初日にはイラク空軍ミグ-25によりF/A18が撃墜された。また、イラクの防空体制がまだ機能している状況下で、JP233による攻撃を行ったイギリス空軍のトーネードIDSは、多国籍軍の攻撃機としては、最も多くの犠牲を出した。
一方、フセイン大統領は「アラブ『イスラーム』対イスラエルとその支持者『ユダヤ教・キリスト教などの異教徒』」の構図を築こうと考え、1月18日からイスラエルへ向けスカッドミサイル「アル・フセイン」と「アル・ファジャラ」計43基を発射。
イスラエル最大の都市テルアビブなどに着弾し、死傷者が出た。イスラエルは開戦直前にモサッドなどによりフセイン大統領が攻撃準備をしていることを知り、1月16日に全土へ非常事態宣言を出していた、
しかし、42日間に18回39発のミサイル攻撃を受け、そのうち10回の攻撃で226名が負傷し、2名がミサイルの直撃で、5名がミサイル警報のショックで、7名が対化学攻撃用ガスマスク「イラン・イラク戦争時に配布した物」の取り扱いミスで死亡。
イスラエル世論はイラクへの怒りで沸騰したが、イラクからの挑発を受けてイスラエルが参戦することで、「異教徒間戦争」となるというフセインの目論見通りになることを恐れたアメリカや国連の要請によってイスラエル政府は動かなかった、
フセイン大統領のもくろみは、失敗した。続いてイラクは、サウジアラビアとバーレーンに対して、同数程度のミサイルで攻撃を行った。これは、「異教徒に加担した裏切り者を制裁することで、アラブ世界の結束を図ろう」という試みであった。




