29話:ベルリンの壁崩壊と湾岸戦争
1989年11月、ベルリンの壁が崩壊するというニュースが、飛び込んできた。詳しく調べてみると、ベルリンの壁崩壊は、ひょんな事がきっかけで起こったことがわかった。
それは、1989年11月9日に、それまで東ドイツ市民の大量出国の事態にさらされていた東ドイツ政府が、その対応策として旅行及び国外移住の大幅な規制緩和の政令を「事実上の旅行自由化」と受け取れる表現で発表した。
それによって、その日の夜、ベルリンの壁に、ベルリン市民が殺到し、混乱の中で国境検問所が開放され、翌11月10日にベルリンの壁の撤去作業が始まったのであった。
この事件を皮切りに、東欧諸国では、続々と共産党政府が倒された。そして、翌1990年10月3日に、「ドイツ民主共和国に再設置された各州がドイツ連邦共和国に加盟する」という名目「実質的な編入」にて、東西ドイツの統一がなされた。
もともと、第2次世界大戦後、東西の対立とともに1949年に東西2つドイツが成立した。ドイツ民主共和国「東ドイツ」は、ソ連からの大きな経済援助と軍事力で社会主義国として東側陣営に属した。
西側陣営に属するドイツ連邦共和国「西ドイツ」とで、ドイツは分断された。そして首都ベルリンもソ連側管理地区の東ベルリンと英米仏3ヵ国管理地区の西ベルリンに分断された。
ただし1961年夏まではベルリン市内での東西の往来は自由であった。しかし1961年8月13日、突然、東ドイツ側がベルリン市内の東西の往来を遮断し境界線近くに壁を建設して、ベルリン市民の東西間の自由通行はこの日に断絶された。
これは、東西に分かれて、以後、東ベルリンから西ベルリンへの人口流出が止まらず、1945年から1961年までに東ドイツから西ドイツに移った人々は約300万人に達し、その半数以上が当時自由に行けた西ベルリン経由で西ドイツに逃れていた。
危機感を持った東ドイツは西ベルリンが逃亡への出口になっていることから、西ベルリンを壁で塞ぎ、東ドイツ国民を閉じ込めるために建設したもので、これを「反ファシズム防壁」と呼んだ。
国境が遮断されて有刺鉄線が張り巡らされたが、ある所では道路の真ん中に、或いは運河が、また橋の真ん中が、国境線であった。以後、東西のベルリン間での市民の行き来は不可能となった。
ベルリンは第二次世界大戦後の東西冷戦の最前線であり、1961年8月に突然出現したこのベルリンの壁は東西冷戦の象徴であった。しかし西へ逃れるために壁を乗り越えて越境しようとした市民が死亡する悲劇は後を絶たなかった。
1961年8月から1989年11月までの28年間で5千人以上が越境して逃れ、約2百人以上が越境できずに命を失い「その多くは国境警備兵による射殺と河を泳ぎきれずの溺死であった」、約3千人以上が越境を試みて失敗し逮捕された。
こうして、1989年も年末になり1990年を迎えた。この頃になると、日経平均株価が、大きく下げ始めた。2月21日、日経平均株価が1日で1161円下がり,終値が3万5734円になる
1990年1月から暴落に転じ、湾岸危機と原油価格高騰や公定歩合の急激な引き上げが起こった。1990年3月に大蔵省銀行局長、土田正顕から通達された「土地関連融資の抑制について」「総量規制」、
さらに、加えて、日本銀行総裁三重野康による金融引き締めは急激なものとなり、信用収縮が一気に進んだ。信用崩壊のさなかにおいても金融引き締めは続けられ、日本の経済を極度に悪化させた。
そのため、雨宮は、証券会社の担当者に電話してロームの価格を注視しておくように伝えた。10月1日には、一時20000円割れと、わずか9か月あまりの間に半値近い水準にまで、日経平均株価が、暴落した。
翌、1990年10月2日、早朝、証券会社の担当者から、ロームの気配値が2530円と安く、買いと助言され5千株の成り行き買いを指示し、1265万円で、購入し、投資残高が、3820万円となった。
その後、11月27日、ローム株が、135%の株式分割を発表し、1万株が、13500株に増えた。そうして、1990年が、終わり、1991年を迎えた。




