仙台
ツアーは8月の第2週から始まった。最初の開催会場は「トークネットホール仙台」。いわゆる仙台市民会館である。
近年、文化施設の「命名権」を、企業が購入するというシステムがビジネス化している。「ネーミングライツ」といい、よく知られているのが「味の素スタジアム」だろう。自治体側は施設の維持費が確保でき、企業側は効率的な宣伝効果を得られるWinWinなシステムである。
客席は1200席余り、チケットは1000枚以上捌けている。これは一重に、木之内の人気の賜物である。
「咲奈ちゃん、これ食べる~?」
仙台には新幹線で移動することになっていた。朝8:20に出発し、仙台には9:50頃に到着する。3人での移動かと思っていたのだが、木之内と神崎は同じ音楽事務所に所属しており、木之内の演奏会では、必ずCD発売とサイン会が催されるため、事務所のスタッフ2人とマネージャーの今川が同行していた。また、木之内のヘアメイクを担当するスタイリストも同行していて、思ったより大所帯の移動になった。
新幹線に乗った途端、木之内がお菓子を配ってくれる。もちろん、東京から運んできたのは事務所のスタッフで、木之内が持つ荷物は、ハンドバッグ1つである。座席は当然グリーン車で、一番前に祥子とスタイリスト。次に神崎と咲奈恵。その後ろに、事務所のスタッフという並びになっていた。
咲奈恵は、木之内と神崎が隣同士だろうと思っていたので、意外だった。「代わりますよ」と乗る時に神崎に申し出たのだが、「いつも、こうだから」と執着している様子はなかった。う~ん、皆の前では、あんまりベタベタもできないか……。と、大人な2人を感心しながら、座席に落ち着いた。
「……いえ」
「じゃ、これは~」
「……いいです」
次々に木之内から繰り出されるピクニック気分の差し入れに、一切手を付けない咲奈恵を気遣って、神崎が声を掛ける。
「何、どうかした? 咲奈ちゃん、甘いもの嫌いじゃないよね」
「うっ……、緊張して……」
咲奈恵は演奏会初日の緊張に、全身が他人の様な感じさえしている。
「今から!? 大丈夫?」
「……帰りたい」
神崎の気遣いをよそに、木之内は前の席から身を乗り出して話し掛けてくる。
「何で~。これから、楽しい本番なのに~」
本当に旅行にでも行くかのように楽しんでいる木之内を見て、咲奈恵は小さく溜息を吐く。
「すごいですね。木之内さん……」
「まぁ、祥子は昔から変わらない。本番が大好きなんだよ。今日は初日だから、あれでもまだ大人しい方だ」
「……そうですか」
「咲奈ちゃんは顔色まで悪いよ。はい、深呼吸して」
「すー、はー」
言われた通りに素直に息を吸って、吐く。
「そりゃ、肺呼吸だ。歌のプロが、何やってるの。腹式呼吸!」
「……だって~」
情けない声で引きつった顔で言われれば、守ってやりたい気持ちに拍車がかかる。
「……咲奈ちゃんなら、大丈夫。あんなに練習したんだから」
結局、神崎との練習は、神崎のスケジュールが空いていれば、土・日のどちらかには必ず行った。通算、15回以上になる。もちろん、咲奈恵は自分でもレッスンをしたし、イタリア帰りの先生のボイストレーニングにも通った。
ただ、以前付いていた先生の所には、行くのを止めた。学生の頃には分からなかったが、彼女の発声は、役に立たないものだと分かったからだ。今思えば、年齢的にも今の時代の発声とは違っている。ひと昔前のものだ。彼女も近い将来、引退を余儀なくされることになるだろう。
けれど、あくまでも咲奈恵のプロフィールには、彼女に師事したと名前が載る。それが、世話になった礼儀というものだ。でも、それを見た若い歌手が、彼女の指導を受けに行くことは、どうぞしないで欲しいと願っている。
「先生、レッスン代、ほんとにありがとうございました」
15回以上にも上る練習ができたのも、神崎がレッスン代を取らなかったからだ。毎回、1時間以上、長いと2時間近く教えてもらったこともある。正式に支払えば、30万を超える額だ。それを神崎は「出世払いでいいよ」と受け取らなかった。
「免除してないよ。投資したんだから、倍にして返して」
「……うぅ、やっぱり、帰りたい……」
「ははっ、それだけ言えれば、大丈夫だな。少し寝たら? 祥子みたいに。気が休まるよ」
前の座席を確認すれば、木之内はすっかり熟睡状態だった。さっきまで、あんなにはしゃいでたのに……。本番までにまだ時間はある。今なら、まだ寝ても大丈夫だろう。声帯は、起こすのに時間が掛かる。咲奈恵の場合、6時間くらいは掛けている。
「あっ、先生も寝てください。昨日も遅くまで、練習だったんですよね」
「大丈夫。いつものことだから」
せっかく君と一緒にいられるのに、寝るもんか。気を紛らすためにも、歌の話はやめておこうか。
「咲奈ちゃんは、震災の時はどうしてた?」
「名古屋の実家にいたんです。大学、春休みだったから」
「名古屋って、揺れたの?」
「揺れました。もちろん、東京よりは小さかったんですけど、横揺れで……。最初、自分が目眩を起こしてるのかと思って、気持ち悪くて……。でも、家全体が揺れてるんだと分かって……。長かったですね」
「そうか……」
「先生は?」
「高校で、レッスン中」
「わっ、じゃ、大変だったんですよね」
「まずは生徒達を避難させてね。ちょうど期末テスト後の休みに入ってて、補習授業に出てる子達だけだったから、少なかったんだよ。ただ、僕もそうだけど、部活で来てた生徒達も結構いてね、校庭の真ん中で、揺れが収まるのを待った。皆無事だったから、良かったけどね」
「そうでしたか」
「ドイツの友達から、メールが凄かったな」
「あぁ」
「向こうにいた時には話したこともなかった人からとか、友達の友達とか、もちろん先生達からも……。知らない人からもいっぱい心配されて、ありがたかったよ」
「お家は大丈夫だったんですか?」
「帰ったら、以外と物が落ちてたな。ピアノが少しズレてた」
「えぇ、そうなんだ」
「うん。家にいなくて良かったんだと思う。楽譜とか、当たると痛いからね。まぁ、結果論だけど」
「確か、今日のホールも、被害が大きかったんですよね」
「そう。だから祥子も、仙台は外せないって、毎回ツアーに入れてる」
「皆さん、待ってらっしゃるでしょうね、木之内さんの歌……。もちろん、先生のピアノも」
「そうだね。喜んでもらえると嬉しいけど。今回は、咲奈ちゃんもね」
その言葉に、また咲奈恵の顔が歪む。
「……うぅ、やっぱり、帰りたくなってきた……」
「ははっ、頑張って」
そう言いながら咲奈恵の頭に手を乗せる。「ふぇ〜」といつもの様に変な声を出しながら、座席に身を沈めている……。
本当は、触りたいのは髪だけではない。その頬にも、耳にも唇にも触れたい。彼女はレッスン代をしきりに気にしていたが、神崎にとっては半分デートみたいなものだった。レッスン代なんて、会えたことで十分吹き飛んでいる。君の歌を聴けば、新しい君が見つかり、僕がピアノを弾けば、僕のことが君に伝わる。しかも隠しようがない、お互いの本質がだ。
言葉ではごまかすことができても、音はごまかせない。そうやって、君に自分のことを知ってもらうことが、どれほど楽しかったか……。けれど、その「楽しさ」は伝わらないから不思議だ……。
僕がどんなに距離を詰めようとしても、一定の壁厚みたいなものがあって、君は僕の手からすり抜けてしまう。このままでは、いつまでたっても「ものにする」どころか、気持ちを伝えることもできない……。大野が呆れてバカにしている顔が、目に浮かんでくるようだった。
「咲奈ちゃん、今日演奏会終わったら、2人で少し仙台の街、歩いてみない」
「……」
「咲奈ち……」
返事がない咲奈恵をよく見ると、小さく頭を傾けて眠っていた。
「昨日、寝られなかったんだろうな……。少しでも、休むといい」
神崎は、バッグから楽譜を取り出し、3日後の別の演奏会の確認を始めた。
会場に到着後、すぐにステージの確認に向かう。先に木之内が舞台で、手を叩いていた。その反響で、この会場の残響具合を確認する。舞台上のあちこちに立って、その作業を繰り返していた。これを誰かがしている時は、声を出すのは邪魔になる。咲奈恵は、舞台から会場に降りて、客席からの視線を確認して回った。既にグランドピアノは出ているので、どこが死角になり、どこまで視界に入るのか、確認するために歩き回る。そうしているうちに、神崎がピアノで指慣らしを始めた。
「咲奈ちゃーん」
木之内が舞台の上から、手をかざし咲奈恵を呼ぶ。
「はい!」
「ちょっと、バランス聴いてて」
そう言うと、神崎のピアノが始まる。少し音を出してみるようだ。すぐに木之内の歌が乗って、アリアが流れていく。まだ高音は抜いて、発声を兼ねているようだ。
「どう?」
「大丈夫です。よく響いてます。バランスもOKです」
と大きく頭の上で、両手で〇を作る。2人の音は安定していて、いつも通りだ。ここにお客さんが入って、多少残響が短くなっても、何ら問題ないだろう。そんなテストを、更に舞台のあちこちに立って繰り返す。何か所目かで、咲奈恵が待ったを掛けた。
「木之内さん、それ以上前に出ないで下さい。上の反響がなくなります」
それを聞いて、スタッフにその場所の床にバミリをしてもらう。咲奈恵も後で確認しようと、心に留めた。
「OK~。次、咲奈ちゃん、交替〜」
咲奈恵は急いで舞台に戻る。今度は咲奈恵が声を出す番だ。神崎に「お願いします」と声を掛ければ、彼は無言で大きく頷き、前奏が始まる。まずは、デュエット曲で声出しも兼ねる。木之内が、会場の最後列まで行って聞いている。あとは、真ん中あたりの通路で確認して、2階席で聴いているマネージャーと、ジェスチャーで確認していた。
「咲奈ちゃん、OK。よく声、届いてるよ〜」
「ありがとうございます」
咲奈恵はホッと一安心した。練習室と演奏会場とでは、歌う本人が感じる声の響きは、全く変わる。これは、決して自分では把握しきれない。あまりの心許なさに、無理な発声をして失敗することも多くある。とにかく、この不安を除くには、信用できる誰かに確認してもらう他ないのだ。今回は確実な判断で、1つ不安が減った。
この後、ゲネプロを無事終了し、本番を迎えることになった。
開場され、間もなく開演の時間が迫ってきたころ、タキシードに身を包んだ神崎が舞台袖に現れた。
「祥子、頼むよ」
ピンクのドレスに身を包んだ木之内は、そんな神崎を明るいところまで連れていく。咲奈恵は遠巻きにそんな2人を眺めていた。何するんだろ……。
すると、神崎のシャツやネクタイ、タキシードの襟などに触れながら、服装を整えている。スラックスの裾を神崎が上げ、靴下のチェックまでしている。
「OK」
と木之内は神崎の背中をパンッと叩いた。
「サンキュ」
と神崎は応えて、2人で袖まで戻ってきた。
「……夫婦みたい」
咲奈恵は改めて2人の仲を見せつけられたようで、胸の奥がキュンと小さく反応する。
「何、贅沢言ってんだか……」
自分に言い聞かせるように、しっかりと声にした。私が今やらなくちゃいけないことは、きちんと最後まで歌うこと! 胃がギュウギュウと音を立てるかと思う程締まってきて、苦しい……。思わず目をぎゅっと瞑って、大きく息を吐いた。そのまま胃をさする。もうすぐ、ステージが始まる。意を決して目を開ければ、丁度2人がステージに足を踏み出したところだった。近くにいるステージマネージャーやスタッフ達が拍手で送り出していた。
木之内と神崎が舞台に登場すれば、万雷の拍手が送られる。観客の期待を込めた熱気が、袖にいる咲奈恵の元まで伝わってくる。歌が始まるまでの静寂は、見ている観客も巻き込んで、切れそうなほどの緊張となって舞台を包み込んだ。
それを、柔らかで軽やかな木之内の声が、見事に切り裂いていく。咲奈恵の全身に鳥肌が立った。あっという間に、会場全体がジュリエットの悦びに包まれる。
オペラ「ロミオとジュリエット」より、「私は恋に生きたい」。いきなり高音でハイテクニックな曲を1曲目に持ってくる。車で言えば、走り出していきなりトップギアに入れるようなものだ。このプログラムを知った時、咲奈恵はぶっ飛びそうなほど驚いた。これこそが、世界に通用する歌姫の歌である。咲奈恵はその現実に飲み込まれそうになりながら、必死に自分を保っていた。
1曲目が終わり、2人が袖に戻ってきた。次が、咲奈恵とのデュエットである。今日、もう何度目かも分からない、大きな深呼吸をして2人の元に近づいた。
「少し待ってください。お客さんを入れます」
ステージマネージャーから入り待ちを指示される。
クラシックの演奏会の場合、開演に間に合わなかったお客様は、曲の演奏中は会場に入れない。会場の扉を開けると、音響が変わってしまうためだ。客席に背中を見せている指揮者だが、扉が開けば、音の歪でちゃんと分かるという。もちろん、自分の席に着くために、他のお客さんの邪魔をするなどという行為は、言語道断である。映画館とは違うのだ。
では、入りそびれた人たちはどうするかというと、大抵1曲目が終わったところで入れてもらえる。即座に着席してもらえる様、席の場所が分からない人は、会場の案内係が席まで案内してくれる。ちなみに、この時点にも間に合わなかったお客様は、次の休憩時間まで入れてもらうことは叶わない。
今、その客入れの時間を取っているのである。5分程のことなのだが、咲奈恵にとっては永遠かと思われた。ヘッドセットを装着したステマネが、小さい声で告げる。
「間もなく、行けます」
「さあ、咲奈ちゃん。行くわよ」
何とも楽しそうに木之内が声を掛けてくる。小さく返事をするのが精いっぱいだ。
「咲奈ちゃん、笑って」
後ろから神崎に言われ、慌てて口角を上げる。それだけでも気持ちが顔に引っ張られて、楽になる。最後に横隔膜を開いて、ちゃんと息が吸えることを確認した。
「どうぞ」
ステマネの合図とともに、光の中に踏み出した。
オペラ「ラクメ」より「花の二重唱−ジャスミンとバラが咲くドームへ−」。
イギリス統治下のインドを舞台に繰り広げられる、悲愛の物語である。主人公ラクメが、木之内。その侍女マリカが咲奈恵である。CMなどにも使われ、二重唱の中でも有名な1曲である。
歌い始めから、リズムとメロディを進めていくのは、メロディを歌う木之内ではなく、実は咲奈恵の役目になっている。ピアノの神崎が同じフレーズを弾き、2人で合わせていく。木之内と咲奈恵の声が溶け合っているので、聴いている者には、どちらがどちらのメロディを歌っているのか分らなくなる程……。
木之内の声は、どんな小さな高音であっても、今日も美しい。あの独特の小さなクレッシェンドに揃えて、咲奈恵もクレッシェンド・デクレッシェンドを繰り返す。まるでワルツのように繰り返される音楽に、客席もうっとりと耳を澄ます。
曲の最後は、オペラでは2人は小舟に乗って舞台から掃け、舞台裏から歌う演出がなされる。それを模して、今回は舞台下手に移動して歌うという演出にした。移動している間は神崎のピアノが情景を音にする。最初のフレーズに戻り、最後は2人の消え入るようなppで終わる。神崎のイヤリングの様なフレーズと同時に音が鳴りやんだ。
「ブラボ!」と声が掛かり、一瞬で会場が拍手に包まれる。咲奈恵は、やっと心からの笑顔をすることができた。木之内と一緒に腰を落としてお辞儀をし、神崎と3人で手を繋いで挨拶をする。舞台袖に掃け切るまで、観客に笑顔を振りまく木之内を見習って、咲奈恵も笑顔のまま袖に戻ってきた。奥に引っ込んでも、興奮は収まらない。よし、上手く行った。とにかく、歌い切った。
「よかったね〜。ブラボーが貰えたよ〜」
木之内も喜んでいる。ただ、彼女は、すぐに次の曲を歌うための準備を始める。次は、今のラクメの流れで、そのあとの物語で歌われる、ラクメのアリア「鐘の歌−インドの娘はどこへ行く−」を歌う。これもまた、ハイテクニックを要する曲である。
拍手が収まったところで、神崎と一緒にステージに出ていく。神崎は、まだまだ緊張で引き締まった顔だったが、咲奈の横を通る時に、優しい笑顔で「よかったよ」と言い置いて行ってくれた。咲奈恵は、第一関門を突破した気分だった。
木之内のソロが終わり、次はいよいよ咲奈恵のソロである。ここまで来たら、あとは運を天に任せる気分だ。もう、既に一度声を出しているので、気持ちは随分静まっている。しかし、やはり2人で歌うのと、1人で歌うのとでは、まるで別物で、また新たな緊張がせり上がってきた。
袖に戻ってきた木之内は、そのまま楽屋に向かう。待ち構えていた咲奈恵と、楽譜を持ち替えた神崎が、拍手の鳴り止むタイミングを計る。
その時、神崎が横に立って、咲奈恵に声を掛けた。
「咲奈ちゃん、大丈夫だから。後ろには僕がいる。何があっても、音は止めない。安心して、君の好きな様に歌っていいから」
「先生……」
そこにあるのは、本当に頼りがいのある顔で、一瞬泣きそうになったが、そこをグッと堪えて右手を拳に握った。
「さあ、僕らのシュトラウスを聴いてもらおう」
「はい」
ステージの中央まで行って、準備が整ったところで神崎を見る。お互いに相槌を打って、神崎のピアノが始まった。
「Aus dem Walde tritt die Nacht」
(森の中から夜がやって来た)
「Die Nacht(夜)」という曲である。
「夜は何もかも奪ってしまう。あぁ夜を僕は恐れている」
「君までも奪ってしまうのではないかと」
これも大変美しい曲で、ピアノが優しく咲奈恵の声を包み込み、木之内とは違う、咲奈恵のビロードの様な中声音の響きに、会場がさっきまでとは別の空気に変わっていく。
歌曲の場合、一曲ずつ終わったところで拍手はしない。曲が終わり、一旦歌い手が緊張を解いたところで、会場のお客さんも一緒に息を吐く。それまで我慢していた咳をしたり、椅子に座り直したりするのも、こういう時だ。会場の小さなざわつきが収まったところで、あ・うんの呼吸で次の曲に入っていく。次は、あの「Morgen!」だ。
神崎のピアノが、一気に観客を引き込んでいく。一度緩んだ空気を、それは見事に引き戻す。長い前奏の間、咲奈恵はピアノの方を向いて片手をその上に置き、観客と一緒になって神崎の音を堪能する。自然に見つめてしまって、神崎が応えるように微笑んだ。なんて甘い一瞬なのか……。咲奈恵は息を吸って、その流れにスッと足を差し入れた。
愛の言葉が交わされるように、何度も何度も練習した言葉を、丁寧に音に変える。愛する人に明日も会える喜びを歌い、そのまま、恋人達の逢瀬を詩人の言葉に乗せる。咲奈恵が呼びかけ、神崎がまるで体を寄せるかのように、音で咲奈恵を包み込む……。
そして歌が終われば、最後にあの神崎の口づけを、そっと受ける……。咲奈恵は祈るように合わせた手を、指先だけ小さく唇に当てて、目を閉じた。
ペダルから、神崎の足が、……離れた。
一瞬……、静寂が満ちた後に、会場は拍手に包まれた。それは、木之内への拍手の様に、称賛と興奮の混ざり合ったものではなく、とても暖かい、歌曲にふさわしい拍手だった。咲奈恵はそれで、十分に満足した。
神崎と共に挨拶を繰り替えし、袖に戻りながら、咲奈恵は心から安堵する。曲が終わった瞬間、全く拍手が来ないかと思った。……よかった。
袖には木之内が待ち構えていて、次に出る準備をしている。劇場のスタッフやステマネが拍手で咲奈恵を迎えてくれる。神崎は次の楽譜を手に取った。
その横を擦り抜けるように、楽屋に戻ろうと咲奈恵が通り過ぎる。神崎はすかさず、咲奈恵の頭にポンと手を置いた。その顔は、「よくできました」との笑みに包まれていて、「ふぇ」と声を出しながら歩みを止めた咲奈恵は、胸に手を当て、肩を小さく上げながら、「何とか終わりました」と言ったかのように微笑み返した。
その様子を奥の方からじっと見ている男性がいた。マネージャーの今川は、今回神崎の推薦で咲奈恵を起用したことに、一抹の不安を抱いていた。木之内のCD販売の準備もそこそこに、袖でずっと演奏を聴いていた。
無名の歌手で本当に良かったのか、別の手はなかったのか、不安が払拭し切れなかった。木之内と神崎のコンビは、事務所にとっても稼ぎ頭である。その演奏に汚点を残すわけにはいかない。そんな思いで仙台にやって来た。
しかし、どうやらそれは杞憂に終わりそうである。逆に先程のシュトラウスなどは、聴き応えがあった。木之内の様に派手さはないが、もっと聞きたいと思わせるものがある。商業ベースに乗せるには、そこは必須事項だ。彼女の容姿なら、売り出すのもそれほど難しくはないだろう。
「事務所に入ってもらうか……。しかし、あの様子じゃ……」
神崎さんが、手放さないかな……。今日の新幹線でも、咲奈恵の横はスタッフにしようと思っていたのだが、自分が座ると譲らなかった。今川は腕組みをして考える。他の伴奏者で歌わせるって言ったら、絶対怒りそうだな。どうするか……。これ以上、神崎に仕事を増やすのは難しい。ということは、彼女に別のパートナーを付けた方が、明らかに活動はしやすくなる。でもなぁ……。神崎さん怒らすと、やっかいだしなぁ。……アンケートを待つか。
よくコンサートのパンフレットには、アンケート用紙が挟まれている。今日の演奏会はどうだったか。曲の感想や、次回演奏会のリクエスト。演奏者たちに宛てたメッセージなどを書き込めるようになっている。
実はあれは、結構皆が目を通している。事務所の人間はもちろん、演奏者も必ず目を通す。だから、メッセージなどがあれば、是非書き込んで提出したほうがいい。リクエストなどは、次の演奏会で本当に叶うことも多いのだ。
演奏会は、聴いてくれる人がいなければ成り立たない。どんな要望があるのか、皆知りたいと思っているのだ。もちろん、批判も重要なファクターである。それは音楽事務所にとっては大きな判断材料になるし、演奏者にとっても成長の一環になるからだ。ただ、音楽家も人間である。なるべく優しくお叱り頂きたいとは思っている……。
「咲奈ちゃん、これ、読んでみて。咲奈ちゃん……? 寝ちゃったか……」
帰りの新幹線で、神崎は隣の咲奈恵の寝顔を見て、小さく呟いた。
演奏会は、無事大盛況のうちに幕を下ろした。木之内がCD購入者にサインをするイベントをしている間に、神崎は咲奈恵を誘って仙台の街を歩きたかったのだが、思いのほか神崎にもファンが多く押し寄せ、急遽サイン会の様相になってしまい、そのまま帰京の時間になってしまった。咲奈恵は楽屋でずっと待っていて、初日の緊張もあったし、きっと疲れ果てていたのだろう。
新幹線に乗ってしばらくしてから、アンケート用紙の束を、皆で回しながら読み始めた。もちろん、木之内への称賛の声がほとんどを占めている。神崎の伴奏への賛美も多い。たまに神崎の熱烈なファンからのメッセージもあったりして、皆で楽しく読み進めていく。
「貴雄、またこの人聴きに来てくれてるよ〜」
木之内が読み終わったアンケートを1枚、神崎に回す。
「あぁ、樋口さんだ。東京からわざわざ……」
「へぇ、そんな熱心なファンの方がいらっしゃるんですか?」
横から覗きながら、咲奈恵も話に加わる。
「うん。祥子と組む前から、よく来てくれててね。もう10年位になるかな」
「すごいですねぇ……」
「僕のピアノをよく知ってるから、変な演奏すると遠慮なく叱られる。紳士的な人だよ」
「えっ、男性なんですか?」
「そう。今年、70歳になったって、この間言ってたな」
「お元気ですねぇ。あっ、何かコメント書いてありますね。どれどれ……」
なぜか神崎が渡したくなさそうにしたので、咲奈恵は無理やりその手から取り上げる。最後のフリーメッセージ欄に「メゾの方との、今後の演奏が楽しみです」と書いてあった。
「あら……、光栄なお言葉を」
咲奈恵は嬉しそうに神崎を見た。「うん……」と言ったきり、神崎は次のアンケートに目を落とす。そんな様子を見て、咲奈恵は、実は神崎はこの先、あまり自分との演奏を望んでいないのではないかと、ちょっぴり不安になった。
次々にアンケート用紙が回って来るため、これも早く次に回そうと、慌てて他の項目にも目を通す。すると、咲奈恵のドイツ歌曲のアンケート欄に「実に官能的なMorgenでした」とある。思わず咲奈恵は神崎を呼ぶ。
「先生、これ……」
「うん。樋口さんは、音楽をよく分かってるから……」
と、少し照れているように見える。よく分かってるって……、じゃ、口づけされてるかのようなあの感覚も、伝わっちゃってる……? 咲奈恵まで、赤くなった。
「ちょっと! 2人共、何止まってるの!? 早く次に回して」
と木之内が前の席から乗り出して、神崎に次の束を押し付けた。
「ああ、ごめん」
それを受け取りながら、何となく咲奈恵と神崎は顔を見合わせて、クスッと笑う。
「急いで読んじゃお」
「そうですね」
後は黙々とアンケートを読んだ。その中で神崎は、1つのメッセージに気づく。それを読ませたくて咲奈恵に声を掛けたのだが、アンケートを読みながら、咲奈恵は眠ってしまっていた。
神崎はそっと、その手にある束を抜き取って、後ろの今川に渡す。そして、読ませたかったメッセージは、スマホを取り出して写真に収めた。
「咲奈ちゃん、よかったな……」
神崎はそれを、LINEで咲奈恵に送信した。
アンケートには20代女性との回答で、次のメッセージが添えられていた。
「ドイツ歌曲が、あんなに素敵だとは知りませんでした。大好きになりました。真野さんの歌、本当に良かったです。CDあるなら欲しい。もっと、聴きたいです。またコンサートがあったら、絶対聴きに行きます」




