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写真撮影

「そこのアクセントは違う。後ろに持って行って。あと、Disの音、ちょっと前に出過ぎてる。もう少し、奥に引かないと、別の言葉になる。それと、次のフレーズ、母音の響きで揃えて。ちょっと途切れ過ぎてる。もう1回」

 神崎のレッスンは、もっと感情だとか気持ちだとかの、精神的なものかと思っていたのだが、咲奈恵の予想とは全く違い、テクニックと理詰めの繰り返しだった。この徹底ぶりに最初は咲奈恵も面食らったのだが、途中でようやく分かってきた。その時の感情だとか、インスピレーションは、徹底したテクニックの上でしか、表現ができないということ。

 大学時代も同じように指導されていたのだろうが、この年になって、ようやくはっきり分かった。まぁ、大学の時は、まだまだ発声で行き詰っていたので、到底ここまで追いつかなかったというのが実際のところではある。

「先生、次の頭、ほんの少し遅れて入ってもかまいませんか? それで、躊躇ためらいを表現したいんですが」

「……」

 聞こえなかったのだろうか。楽譜を見ながら話していたので、顔を起こして神崎の顔を確認すると……、ん? こちらを少し、睨んでる……?

「あっ、ダメですか? もたつきますか?」

「……」

 無言でこちらを見ているだけで、まだ応えてくれない。何だろう……。楽譜、やっぱり少しでも変えるのはダメ?

「先生?」

 そういった途端、神崎の顔があからさまに歪められた。……あっ!

「ひゃ〜、すみません! ()()()()

「咲奈ちゃん、テクニックは直ぐできるのに、何でかなぁ。今日でレッスン、もう3回目だよ」

「だって〜」

 むんっ、と口を結ぶ神崎の顔を見て、咲奈恵は少し可笑しくなった。先生、こんな顔するんだ……。少し笑っている咲奈恵を見て、今度は神崎が不満気なまま質問をする。

「何!?」

「いえ、何でもありません。神崎さん、じゃここ、ほんの少し遅れます」

「あぁ、分かってる。どうしてほしい? こっちも一緒に待つ?」

「ん〜、試してみていいですか?」

 咲奈恵にとっては、本当に久々の楽しい音作りで、レッスンはあっという間に時間が過ぎた。


「撮影スタジオは、3階だよ」

 そう言いながら、雑居ビルの狭い階段を、神崎が先に上がる。レッスンの後、昼食を取り、プロフィール写真の撮影にやってきた。ガラス張りの扉を開ければ、撮影機材が雑然と並べられた、大きな空間が目の前に待っていた。撮影背景用のスクリーンが下ろされていて、照明も1つ点いている。

「やぁ、今日はよろしく」

「おぅ、お前の紹介、久々だな。もっと、お客さん回せ」

「お前は高いからなぁ。そうそう紹介できないよ」

「なーに言ってんだ。5万って値切っといて。こっちは、人も頼まなきゃならないんだから、タダ働きだぞ、まったく!」

「あの……、すみません。ちゃんとお支払いします。請求して下さい」

 髪を1つに後ろで結び、顎には無精なのか、それともきちんと整えてそれ、なのか分からない髭が伸びている。神崎とは明らかに違うタイプの、けれど歳だけは同じくらいと思われる男性が出迎えた。

 軽口を叩きながら交わされる挨拶を、咲奈恵は珍しそうに見ていたのだが、どうやら5万は、かなりの破格なのだと悟り、思わず神崎の後ろから声を掛けた。2人同時に、咲奈恵を見る。

「いいの、いいの。こいつ、稼ぎすぎだから」

 と笑いながら、神崎は咲奈恵を自分の横に立たせた。

「じゃ、改めて。こちら、大学時代からの付き合いの、大野凛太郎。こちらがメゾの真野咲奈恵さん」

「初めまして。真野と申します。今日はよろしくお願いします」

「大野です。こちらこそ、よろしく」

 握手をしながら、「ホントに請求してもいい?」と大野が言ったところで、神崎に後頭部をハタかれている。先生って、友達の前ではこんな感じなんだ……と、咲奈恵はやっぱり珍しいものを見る目で眺めた。


「さて、じゃ、ヘアメイクしましょうか。おーい、津田〜」

 そう呼びかけられて、奥から男性が出てくる。こちらは、随分サラッとした印象の、白いシャツに黒いパンツが似合っている、いかにもスタイリスト然とした男性である。

「あの、せん……、神崎さん。ヘアメイクって……」

 驚きすぎて、また「先生」と呼ぶところだった。咲奈恵が今まで写真撮影をしてきたのは、街の写真館ばかりで、ドレスに着替えはするが、ヘアメイクなどはせずに、行ったそのままで撮影するだけで、こんな本格的だとは思いもしない。

「こちらへ、どうぞ」

 と、津田と呼ばれた彼に言われるまま、不安げな顔で神崎の方を見ながら、咲奈恵は隣の部屋に連れて行かれる。それを見送りながら、神崎は少し眉根を寄せて、大野を睨んだ。

「おい、スタイリスト、加代さんじゃないのか?」

「お前は男だから、いつも加代さんを頼んでるの。女性の時には、あいつを頼んでるんだよ」

「何で!」

「……おいおい、何!? お前は彼女の父親か!」

 呆れた笑い顔で、両手を軽くお手上げ状態にし、上半身を後ろに反らしている大野を見て、自分が詰め寄っていることに気づいた神崎は、腕を組んで、1つ大きく深呼吸をした。

「……どうして、彼なんだ?」

 冷静になったらしい神崎を見て、それでも大野は顔に張り付いた笑いを拭えない。ははーん、そういうこと……。

「異性の方が、その人の魅力をより引き出せるんだよ。普段とは違う、その人の持っている一番美しい所を見つけやすいんだ。本能だよ。分かる?」

「……」

 まだ納得してないらしい神崎に、大野は笑いが堪え切れない。

「お前さぁ……。何も、服ひっぺがしてヌード撮るわけじゃないんだからさぁ」

「ヌード!」

 くっくっと笑いながら、大野は更に神崎を焚きつける。面白れぇ……。

「で、お前忙しいんだろ。後は任せて、帰っていいよ」

「バカ言え。ちゃんと今日は、スケジュールを空けてある。好きにさせるか!」

「うわっ、めんどくせぇ〜」

 だわな。祥子の時とは、えらい違いだ。あん時は、5分もいなかった。では、希望をかなえてやるか……。

「で、お前的には、どんなのを狙ってるんだ?」

 やっとまともな顔に戻った神崎は、まっすぐ前を見て答えた。

「月の精だな」

「へぇ、随分ハッキリしたビジョンだな。そんな選曲なのか?」

「いや、祥子と同じ舞台に乗るからな。あの太陽の横に並べられるのは、月くらいだろ」

「……、そういうことね。では、お望み通りに」

「頼むよ」

 大野は津田にその旨を伝え、スクリーンや照明の準備に取り掛かった。


「ドレス、色合わせしよう。当てて、立ってくれる」

 大野は、1着ずつハンガーに掛かったままのドレスを咲奈恵に持たせて、レンズを覗く。照度をアシスタントが確認する中、何度かシャッターが切られ、咲奈恵は持ってきた次のドレスを当て直す。後ろの方で神崎はその様子を眺めながら、先刻の様子を思い出し、モヤモヤとすっきりしない頭と格闘していた。


「こんな感じで、どうでしょう」

 柔らかい笑顔で出てきた津田の後ろから現れた咲奈恵は、明らかにブラッシュアップされていた。フルメイクなのだろうが、ケバさはなく、むしろ肌が透けるように透明感を増している。ほんの少し入れたアイメイクとチークが、咲奈恵の若さを自然と引き出している。唇にはピンクのルージュが乗せてあり、少し艶も乗っている。どれもほんの少しの色なのに、ふわっとした笑顔の咲奈恵にぴったりと当てはまっている。

 ヘアは全体的に緩くウェーブを掛けた上で、アップスタイルにしてあった。豊かな黒髪の中に、キラキラと小さく輝くアクセサリーが、天の川の様に差し込まれている。サイドや後ろから少し後れ毛が垂らしてあり、動くたびにそれが揺れる……。


 神崎は、当然のごとく動きが止まった。それを確認し、大野は咲奈恵に声を掛ける。

「綺麗ですよ。こんな美人、どこに隠してたんだか……。神崎も隅に置けない」

「あの、ほんとに、綺麗にして頂いて……。何とお礼を言ったらいいのか……」

 咲奈恵は津田に、何度も頭を下げる。

「いやいや、元がいいんですよ。肌も綺麗だし。苦労しませんでしたよ」

 そんな言葉に、また頭を下げる咲奈恵を見て、津田は前髪に手を伸ばす。少し乱れたところをそっと直している。咲奈恵はじっと目を閉じて、されるがままに預けている。

「もういい……!」

 小さい神崎の声を、大野だけが聞き逃さなかった。ニヤ〜と口を歪めながら神崎に耳打ちする。

「取られちまうぞ〜」

 瞬時に神崎の目が、攻撃性を帯びる。

「お〜、怖っ!」

 大野がからかっているのだと、やっと気づいた神崎は、それでも噛みしめた奥歯を緩められずにいた。

「悪かったよ、口出しして。やっぱり、プロだな。予想以上だ……」

「おぅ、分かったか、この石頭。まぁ、俺の写真で、もっとお前の口を黙らせてやるよ」

「……よろしく」


 神崎は人生で初めての種類の強い衝動を、自分でも持て余していた。

「触るな!」

 さっき、神田が咲奈恵の髪に触れたのを見た時、声に出そうになった。これほどの独占欲に、神崎は今まで支配されたことはない。しかも若い時ならいざ知らず、もう40を間近にした歳になってだ……。自分でも驚いた。

「執着……か」

 いつか咲奈恵が言った言葉を思い出していた。執着は、嫌なものだと思っていた。ドイツのあの晩、翻弄されていたその想いを捨てた時、やっと地中から這い出たかのように息を吸って、思い知った。身の丈に合わない執着は、最後に自分の身を亡ぼすと……。

 だが、今日のこれは、あの時とはまるで違う。一瞬にして、全身に血が巡った。これを闘争心と呼ぶんだろうなと、妙な納得をした。そして、咲奈恵に出会ってから今日までのことが、走馬灯の様によみがえり、自分の気持ちがしっかりと心に刻まれた。


 僕が見つけた。僕のものだ。……誰にも、渡さない。


「……さん。か……さん。先生!」

咲奈恵の呼ぶ声に、我に返った。いつの間にか、咲奈恵がドレスに着替えていた。

「ん……、何?」

「ドレス、本当にこれでいいのかと思って。7年も前のものなので……」

「前も言ったけど、それ、良く似合ってるから、それがいい」

 不安そうだった咲奈恵の顔に、笑顔が浮かぶ。今回、神崎は初めて咲奈恵を見た、音大時代のあの水色のドレスを着る様、アドバイスをしていたのだ。いや、正確にはリクエストだな……。

「神崎、一応もう2着の方も撮るぞ。いいな」

「あぁ、構わない」


 上半身、全身、椅子に座ったり、横向きに立ったり、撮影が続いていく。

「いいよ〜」

「はい、そのままで」

「息、吐きながら、笑ってみて」

 15分程して、大野がカメラを下ろした。津田がすぐに咲奈恵のメイクを直し始めた。

 大野は、一旦パソコンで写真を確認するという。神崎も後ろからその画面を覗き込んで、感想を口にした。

「綺麗、だな……」

「ん〜、緊張が取れない。これじゃ、綺麗で終わっちまう。かと言って、あんまり時間を掛けても、疲れちゃうしな……。ちょっと、お前、何とかしてこい」

 と、神崎を咲奈恵の方に押しやった。何とかって……。神崎は、これ以上咲奈恵が不安にならない様に、困惑の顔は引っ込めた。ゆっくりと、咲奈恵に近づいて行く。咲奈恵の表情に、影が落ちる。

「先生……、私、良くないですか?」

 ふっ、また先生だ……。落ち着いているように見えるが、よっぽど、テンパってるんだな。神崎は咲奈恵の揺れる後れ毛を、そっと手に取って微笑んだ。

「綺麗だよ。自信を持って……」

 その言葉に、咲奈恵は心から安堵する。胸のあたりでつっかえていた塊が、やっと無くなった。

「……おいおい、待て待て……」

 離れた場所から見ていた大野が、慌ててカメラを構えて、シャッターを切った。

「少し、緊張してる?」

「……はい。でも、ちょっと落ち着きました」

「あいつ、写真撮り出すと、少し怖いからな」

「あっ、先生もそう思います? ああいう視線は、初めてで……。慣れなくて……」

「仲本さん……、マエストロ、覚えてる?」

「はい、もちろん」

「仲本さんの写真も、あいつが撮ってる」

「わぁ、すごい」

「でね、……たまにデートもしてるらしい」

「……わぁ、……すごい」

 2人は目を合わせて、ドッと笑った。一気に咲奈恵の気持ちが、(ほぐ)れた。

「じゃ、もう少し頑張って。どうしてもまた緊張が戻って来るなら、『Morgen!』心の中で歌ってごらん。きっと、楽になるから」

 咲奈恵は小さく目を見開く。そしてまた、ニッコリと微笑んだ。

「先生、ありがとうございます」


 再開された後に撮った写真を、またパソコンで確認しながら大野が神崎に呟いた。

「お前、彼女に何言った? 全然、表情が違う」

「お前が、仲本さんとデートしてるって……」

「はぁ!? 誰があんな脂ぎったおっさんと、デートするんだよ! もう少し景色のいい冗談言えよ、まったく……」

「いいじゃないか。お陰で、いい写真が撮れただろ」

 ドヤ顔の神崎に、大野は冷ややかな横目を向ける。そして、勿体付けるかの様にパソコンを操作した。

「……、じゃ、この写真は、売ってやらねぇ」

 画面に映し出されたのは、咲奈恵のカラー写真とは違う、1枚のモノクロ写真だった。

「……」

 神崎は、今日2度目の身動きを忘れる体験をする。いつの間に……。

「お前、ちゃんと彼女を、ものにしろよ。まだ、抱いてないだろ」

「……」

「見りゃ、分かるんだよ、それくらい。この写真、今度の個展に使いたい。そのためにも、上手くやれ」

「……、言われなくても、そのつもりだよ」


 咲奈恵の写真は、結局最初の水色のドレスで撮ったものになった。少し暗めのグラデーションが掛かったスクリーンをバックに、斜に構えた姿勢で、顔だけこちらを向いている。髪に散りばめられた小さな光が、キラキラと反射している中に、静かに微笑んだ咲奈恵の顔があった。ふんわりとした光で、咲奈恵が浮き上がってくるかの様に見える。それは本当に、「月の精」かのような、凛とした静けさをまとった、1枚だった。

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