シュトラウスの歌曲
土曜日の午後、咲奈恵は神崎の高校に来ていた。今日の神崎のスケジュールは、この時間だけが辛うじて空いている。午前中は合唱部の特別練習があり、夜は次のステージの音合わせが予定されている。
木之内のコンサートツアーに、正式に出演することが決まった咲奈恵は、ソロで2曲歌わなければならない。あくまでも木之内のリサイタルなので、咲奈恵のソロは必要ないと辞退したのだが、木之内の喉を休ませるためにも必要なのだと説明され、今日、神崎と相談しながら選曲することになった。元々、峰原も2曲歌う予定だったとのことで、咲奈恵も渋々了承し、今日に至っている。
咲奈恵はとりあえず、以前ソロ活動をしていた時の自分のレパートリーを、何曲か持ってきたのだが、イタリア物が中心で、特筆するほど上手いわけではない。自分でも良く分かっていた。あの木之内の歌の合間にこれらを歌うことは、苦痛に違いない。実力が歴然としてしまう。
咲奈恵は今回の演奏会に、「爪痕を残す」などと野望を抱いているわけではない。だから、無理をして実力以上を出そうなどとは考えていない。せめて、自分の今のベストで、誠実な演奏をしたいと思っている。
「フィガロにコジか……。モーツァルトもいいけど、何だろうなぁ。咲奈ちゃんの声を、もっと生かせる曲があるはずなんだけど……」
そう言いながら、咲奈恵の持ってきた楽譜を確認している。
「すみません……」
咲奈恵は恐縮しながら、神崎の判断を待った。
「ん、サムソンか……。いいね。ちょっと、歌ってみて」
サン・サーンス作曲「サムソンとデリラ」である。古代イスラエルを舞台に、愛と復讐を歌った、フランス語のオペラだ。
戦が続いているイスラエル。ヘブライ人の英雄サムソンは、神から授かった怪力を使って、戦に勝利をもたらしていた。
戦に敗れた復讐を果たそうと、敵対するペリシテ人の美女デリラは、彼を誘惑して陥れようと目論む。その誘惑のシーンで歌われるのが、この曲「あなたの声に心は開く」である。
デリラは、メゾの数少ないオペラの主役であり、この曲自体も、サン・サーンスらしい優美でメランコリックなメロディで親しまれており、テレビなどのメディアでもよく使われている。題名は知らなくても、聴けば分かるという「運動会の曲」的な1曲である。
物語としては、結局この歌の後、サムソンは誘惑に負け、デリラに愛を誓ってしまう。デリラはサムソンの怪力の源が「髪」であることを彼から聞き出し、見事その髪を切り、力を奪うことに成功する。
もちろん、サムソンの嘆きは激しい。英雄と崇めていたヘブライの人々からは、裏切り者と罵られ、更には両目をえぐられ、処刑台に運ばれることになってしまう。そこでサムソンは、最後にもう一度だけ、「自らの命と引き換えに、ヘブライの人々を救って欲しい」と神に祈る。その願いが神に届き、怪力が戻るのである。
最後の力を振り絞り、戻った怪力で神殿の柱を破壊し、建物が崩壊していく中、デリラの悲鳴が響き渡る。そのまま幕が下りる。という、ドラマチックなオペラである。
歌の形としては、モーツァルトのようにコロコロと転がす音形ではない。ただただ、壮大なレガートの連なりで、とにかく英雄を陥落させるべく誘惑するための音楽なので、曲を聴くだけでもデリラの妖艶な表情と肢体が想像できるほど、官能的に完成されたアリアである。2人のラブシーンになるので、過去のオペラ演出でも、結構際どいものも多い。
歌い終わった咲奈恵に、神崎は言葉を掛けた。
「すごく綺麗だね。咲奈ちゃんも低い音、あんまり無理しないで発声してるから、聴き易いし。まずは候補とするけど……、咲奈ちゃん、この曲、好きじゃないね?」
「うっ……」
やっぱりバレるか……、思わず視線を外した咲奈恵に、神崎の言葉は続く。
「ちょっとまだ、早いかな。後、10年くらいすると、もっと歌いやすくなると思うけど」
「はい。大学の時にもそう言われて、そろそろ10年経つんですが……」
「ははっ、咲奈ちゃんの響きは、ソプラノに近いからね。年を取っても重くはならないかもしれないな」
「それに、デリラは高貴で美女ですから……。英雄を誘惑するなんて芸当、私には到底……」
「無理とか言わないの。それが、役を歌うということだから」
「……はい」
久しぶりに指導を受けて、咲奈恵のテンションは「だだ下がり」である。学生時代は、毎週こんなレッスン受けてたなぁと、小さくため息が出そうになった。そんな咲奈恵を眺めつつ、神崎はちゃんとフォローをする。
「まぁ、咲奈ちゃんなりのデリラでいいと思うけどね」
「はーい!」
打たれ強い咲奈恵は、復活も早い。フォローをまともに受けて、軽い返事をする。
「真剣にね」
「……はーい……」
真顔で促されて、さすがに声も態度も小さくなった。咲奈恵としては、これを選ばれては困るという心理が働いていて、気持ちはやっぱり「だだ下がり」である。
「う〜ん。今から新譜見てもいいけど、間に合わないといけないから、これ以外に何か好きなものはある?」
「大学時代から、歌ってみたいものはあったんですけど……」
「何?」
「ドイツリートです」
「へぇ……、それは面白い」
神崎の専門は、ドイツリート(歌曲)である。ドイツに留学していたので、ドイツ語が話せることも大きいが、何より単純に好きなのだ。オペラ協会でも、ドイツ歌曲研究会で伴奏をしている。もちろん咲奈恵も、そのことは承知している。
「練習はしてあるの?」
「一応……。でも、まだ誰にも見てもらったことは無くて……。だから、お願いがあるんです! 先生の伴奏、一度聴かせて頂けませんか!?」
今日一番テンションが上がっているらしい咲奈恵の顔を見て、神崎は思わず気を緩めてしまう。しょうがないな……、咲奈ちゃんがそう言うなら。
「曲は?」
「シュトラウスです」
「Die Nacht(夜)?」
「Morgen!(あした)」
咲奈恵の言葉を確認すると、神崎はまるでその指からこぼれ落ちるように、楽譜も見ないで、何の前触れもなく弾き始めた。
咲奈恵は瞳を閉じる。思った通り、とても甘美な、まるでピアノの小品の様な音が紡ぎ出される。あと2小節で歌が入る……。けれど、咲奈恵は歌わなかった。頭の中でメロディを流し、ただ、神崎のピアノを聴く。この愛の歌を、聴く。
――私達は、黙って目を見つめ合う……
まるで歌詞にある「波打ち際」を思わせるメロディが、静かに続く。
あぁ、先生はこんな風に愛を語るんだ……。まるで言葉を音にしているかのように、咲奈恵の頭の中の歌詞やメロディと重なっていく。
最後は、そっとその手で顔に触れられたかのように、静かに、静かに、終わった。
「次は、咲奈ちゃんの言葉を聴かせて……」
そう言うと、神崎はもう一度最初から弾き始めた。繰り返される波の音が、音楽室を満たしていく……。
「Und morgen wird die Sonne wieder scheinen」
(そしてあした、太陽は再び輝くだろう)
カルメンとはまるで違う声だった。それは、多くの人に聞かせる声ではなく、本当に私的に、秘密に、ささやかに歌われる。でも、もし大きな会場で歌ったとしても、きちんと空気を振動させて、最後尾の席の人まで届く声だった。
綺麗なp(ピアノ)だ……。神崎は、1音、1音、咲奈恵の言葉に合わせてピアノを弾く。
耽美なレガート……。小さく吹き込まれた響きが、どんどん周りの空気を包み込んでいく……。声の芯は変わらずに、響きだけが膨らんで、なんて綺麗なクレッシェンド……。神崎の足元から、ぞわぞわと肌を舐めるように小さな刺激が逆撫でしていく。
「Und auf uns sinkt des Glukkes stummes Schweigen ……」
(そして物言わぬ喜びが私たちの上に降り注ぐ……)
咲奈恵の最後の言葉が、ふわりと降り立つ。ぞわっと、もう一度神崎の全身に鳥肌が立った。
後は、神崎のピアノが、何度も何度も立ち止まるかのように、ポツリ、ポツリと流れていく……。それは譜面に書かれた通りなのだが、明らかに1回目の時とは弾き方が違う。咲奈恵の歌に、言葉に、神崎の音が変わったのだ。最後の和音が小さく鳴って、その響きが消えるまで、2人は身動き一つしなかった。
「ほぅ……」
神崎は目をつむり、大きく1つ溜息を吐いた。ゆっくりと目を開け、咲奈恵を見つめる。一体君は、今までどこに隠れていた……。
「咲奈ちゃん、これ……、演奏会に乗せるよ」
「……」
どうしてそんなことを神崎が言い出したのか、咲奈恵にも理解できた。こんな風に歌えたのは、神崎だからだ。神崎のピアノが、咲奈恵の歌を変えたのだ。そのことが、咲奈恵にも充分分かっていた。今までの伴奏では、こんなことは一度もなかった。溶け合って、求めあう音……。咲奈恵は小さく、けれど確信を持って返事をした。
「はい」
「ちょっと、休憩しよう」
神崎は音楽室を一旦出て行った。咲奈恵も椅子に座り、気持ちを整える。あまりに濃厚な愛のやり取りだった。歌が終わった後の小節は、まるで、ゆっくりと、ゆっくりと顔を近づけて、最後にそっとキスをされているかのようだった……。
教室を出た神崎は、1階の渡り廊下に設置されている自動販売機の前で足を止めた。コインを入れて、ミネラルウォーターを2本買う。
「ふぅ……」
さっき、僕は確実に彼女の頬を両手で包み込み、口づけをした。……もちろん、音を通してだ。
「それにしても……」
この曲は幾度となく伴奏をしてきた。メゾに限らず、ソプラノもテノールも、よく歌うリートである。けれど、今まであんなことはなかった。
咲奈恵の声がすぅと頭に入り込んで、その言葉のリズムに、僕は引きずり込まれた。その流れに身を任せれば、今度は咲奈恵が僕の音に乗って声にする。そして、ほんの小さな狂いもなく、2人の音は重なって、僕らはまた新たな音を生み出していく。
それはまるで、海の中で、彼らにしか分からない言葉で意思疎通をし合うイルカの様に、戯れながら、寄り添いながら、1つになった。……何もかも。だから、音を終わらせたくなかった。君を、離したくなかった。けれども、それは終わってしまう。たまらなくて、最後の音に誘われて、君の唇に触れたんだ。
「事務所に、連絡……」
神崎はスマホを取り出した。
「あぁ、神崎です。今度の祥子のツアーの、真野さんのソロですが、シュトラウスのリートにします。……ええ、……ええ。曲が決まったら、また追って連絡します。それで、確か今、ホームページで少し予告動画、流してるんですよね。それに、そのリートも追加してほしいんですが、可能ですか? ……よかった。……はい。では、録音できたら、送ります。よろしくお願いします」
誰が予想しているだろう。存在すら知られていないメゾが、あの曲をあれほど歌えるなどと……。こうやって埋もれている歌手が、日本にはどれくらいいるのだろう……。
神崎は、晴れ渡った空を、振りむいて仰ぎ見た。
最終的に、5曲の歌曲を選んだ。前半のステージで2曲。後半で3曲歌うことにした。どの曲もまだまだ仕上げなければいけない点は、山ほどある。曲を決めながら、少しずつ神崎の指導が入り、咲奈恵も自分の練習の甘さを自覚した。
次の練習会場に、神崎が車で移動するというので、咲奈恵は近くの駅まで乗せて行ってもらうことになった。駐車場で咲奈恵の目に飛び込んできたのは、プジョー508。セダンのスポーツカータイプだ。咲奈恵は恐る恐る近づきながら、車の周りをグルッと一周する。
「かっこいいですね~。ギャップだわ~」
「ギャップって、何が?」
「先生なら、ファミリーカーかと思いました」
「誰かにもそんなこと、言われたな。去年買い替えてね。……まずは、乗って」
そうそう、急がないとね……。咲奈恵は慌てて助手席に乗り込もうとして、一旦躊躇してから後ろのドアに移動した。
「ん? 前でいいよ。そんなに、怖い運転しないよ」
「えっと……、では、お邪魔します」
彼女にしか助手席には座らせない人もいるので遠慮したのだが、どうやらそこのところは無頓着らしい。木之内さん、しぃません……。内心で小さく詫びながら中に入れば、インパネもコンソールも、まるでコクピットの様でかっこいいこと! きょろきょろしながら見とれているうちに、車は発進した。
「中も、本当にかっこいいですね。やっぱり、日本車とはデザインが全然違う!」
「まぁね。国産車と迷ったんだけど、ディーラーの営業に、こんな高い買い物、妥協しちゃダメだと言われてね。それもそうかと、好きなものを選んだ。故障とか、燃費とか、色々皆に言われるけど、好きなものは変えられないからね」
「ほんとに、ギャップだなぁ……」
「そんなに似合わない?」
「先生は、お顔が優しいから、もっと慎重派で、家庭的な方に見えるってだけです。元々、こだわりや執着がない音楽家なんて、いませんもんね」
「……執着……か」
「そういえば、音楽家で思い出した! 先生、今日のレッスン代、おいくらか聞いてませんでした。ちゃんと用意してきているので、教えてください。お渡しするの遅くなって、申し訳ありません」
そう言うと、バッグから封筒を取り出す。途中、ずっと歌っていたわけではないが、それら雑談や休憩も含め、すべてレッスン扱いになる。今日は2時間以上になったので、2~2.5コマ扱いになるだろう。
「咲奈ちゃん。君はいつ、僕の生徒になったの?」
神崎が、意外な言葉を言う。しかも、笑ってはいない声だ。
「……あの」
「今日のは、演奏会のための音合わせなんだから、君からお金を貰うことはないよ」
「えっ、でも……」
「君だって、出演料を貰うんだ。僕とは対等ということ。もう少し、プロとしての自覚を持たなきゃ」
「……」
「この際だから言うけど、先生って呼ばれるのも気になってた」
「……そんなぁ」
「いいかい。今度の演奏会に限ったことじゃない。もし演奏会の当日、楽屋で『先生』って呼んだら、どうなるか分かる?」
「えっと……」
咲奈恵は小さくかぶりを振った。
「全員が、振り向く」
なるほど……。確かに楽屋にいるのは、音楽家ばかりなのだから、かならずどこかで誰かを教えているはずなのだ。つまり、皆、「先生」なのである。
「これからは、先生抜きで」
「えぇー。……神崎先生では、ダメですか……」
「僕より活躍している『大』先生ばっかりいる中で、そう呼ばれるのは、逆に恥ずかしいよ」
「……じゃあ、神崎さん……、でいいですか?」
「はい、そうして下さい。それ以外は、返事しません」
「ふぇ~……」
隣で変な声を出しながら、シートに沈み込んだ咲奈恵を横目で見ながら、思わず神崎は小さく笑った。そのまま頭にポンと手を乗せれば、咲奈恵はもう一度声を出す。
「ふぇ~……」
あと少しで到着するのを見て取って、咲奈恵は焦った様に話し掛けた。
「せん……、違ったぁ。神崎さん、やっぱりレッスンしていただけませんか? 私、今日改めて、自分1人では無理だと自覚しました。プロ意識に欠けるかもしれないけど、でもやっぱり、せ……、神崎さんの様な有名なコレペティに見ていただく機会は、もうないと思うんです。ちゃんと、レッスン、お願いできませんか?」
「それは、構わないけど……」
「私、残業頑張るし、ボーナスも出るし、何回かはお願いできると思うんです」
真剣に見つめられ、いやいや、咲奈ちゃんならタダでいいんだけど……とも言えず、だな。
「今日、いくら出すつもりだったの?」
「5万円しか、用意して来なかったんですけど。足りませんか……」
神崎は、「はっ!」と小さく言ったきり、しばし沈黙した。咲奈恵はガックリ肩を落とす。
「足らないんですね……。レッスン、受けられない……」
小さくなってしまった咲奈恵に、神崎は溜息を吐きながら返事をした。
「咲奈ちゃん……。そんなに貰ったら、僕、祥子に殴られるな。『私でも、1コマ3万なのに!』って」
「えっ」
パッと顔を上げた咲奈恵に、神崎は微笑んだ。
「事務所を通さなければ、僕は1コマ1万5千円。大体、あんまりレッスンする時間が取れないんだ。だから、定期的なレッスンは断ってるんだよ。相手に申し訳ない」
「ホントですか! じゃ、先生の空いてる時間に、どこでも行きます。教えてください!」
「ふっ、分かった。演奏会まで時間もないから、その方がいいね。少しでも君の不安を、取り除こうか」
「わぁ、やった! ありがとうございます。よろしくお願いします!」
「その5万、もしよければ、別の事に使わない?」
「別の事?」
「プロフィールの写真、ある?」
「はい。5年前の……」
「詐欺だな」
「うっ……」
演奏会のパンフレットに乗せるプロフィール写真は、とても大切な宣材だ。ところがクラシックの世界では、これをさして気にしていない演奏家が多く、舞台に登場すると、写真とあまりに違うため、どれが誰だか分からないことがある程だ。有名になればなるほど、直近の写真を使用しているものである。写真撮影は、実はかなり値段が張る。ある意味、隠れたステータスかもしれない。
「僕はいつも友達に頼んでる。プロだから、いい写真撮ってくれるよ。どう? 咲奈ちゃんなら、5万にさせる」
「……お願いします。ホントに、今日のレッスン代は、いいんですか?」
「いいよ。僕も楽しかったから」
あの「Morgen!」で、もう君は充分、僕と同じステージに立った。分かってるかな……。
「じゃ、写真撮影も楽しみにしてるから」
そう言われて、咲奈恵は駅のロータリーで車を降りた。




