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デュエット

「今、仕事忙しい?」 

「月末を、無事乗り切りました」+Vサインスタンプ

「じゃ、またお願いがある。時間、空けられる?」

「土日でしたら」

「今週末で。ちょっと急いでる」

「あの、何でしょうか? 私で、役に立ちますか?」

「詳しくは、会ってから」

 2月に入ってすぐ、神崎からそんなLINEが届いた。咲奈恵はOLとして、刺激の少ない日々を過ごしているので、たまに入る音楽活動が楽しくてしょうがない。

 けれど、「楽しい」には条件がある。そこに責任が伴わないという事だ。神崎の立場からすると、そのお誘いは、大いにそれを逸脱してしまう可能性がある。この間の様な、その場限りの役目なら構わないが、それ以上のことは、咲奈恵には荷が重かった。

「まっ、声も聴かれたことだし、先生なら適材適所で、無茶なお願いはされないわね」

 と、大きな独り言を言いながら、缶チューハイに手を伸ばした。今日の夕飯は、豚のしゃぶしゃぶである。大根をスライサーでたっぷりスライスし、水菜とマロニーで準備は完了。ポン酢を片手に、1人で晩餐会を始めた。

「うんま〜!」


 神崎が指定したのは、その音楽会館のレッスン室の中でも、2番目に大きな部屋だった。グランドピアノがあり、板張りの、ちょっとした発表会ができるような部屋である。咲奈恵もよく知っている会館なので、その部屋を指定された時は、何人かが呼ばれているのかと想像してやってきた。

「こんにちは……」

 小さい声で様子を伺いながら、防音扉をゆっくりと開けた。

「やぁ、咲奈ちゃん。いらっしゃい」

 グランドピアノに座ったままの神崎が、奥から声を掛ける。その神崎のピアノを挟んで前に1人、女性が向こうを向いて立っていた。肩より10cmくらい下までの明るい髪は、毛先が大きく巻かれており、全体にもふんわりと優しいウェーブが掛かっている。後ろ姿だけでもエレガントさが溢れ出ている人である。

 咲奈恵が入室したにもかかわらず、振り向きもしない。楽譜に目を落としたまま、何やら神崎に話し掛けている。神崎もそれに答えながら、ピアノで音を確認している。2人の練習に、いきなり邪魔してしまったようで、咲奈恵はどうしたものかと思いながら、恐る恐る近づいて行った。

「咲奈ちゃん、こっち来て」

 と言われたが、驚きのあまりすぐには近づけなかった。近くまで行って確認したその女性は、木之内祥子だったのだ。

 木之内はおもむろに顔を上げ、咲奈恵の顔を何の感情もないかの様に眺めた。

「咲奈ちゃん」

 もう一度神崎に呼ばれ、おずおずと近づいた。神崎は木之内に、咲奈恵を紹介する。

「こちら、この間話した真野咲奈恵さん。こちらは……」

「木之内祥子さん……、ですよね……」

 神崎に紹介される前に、咲奈恵は自分から確認する。本当に、本人らしい。わぉっ!


 木之内祥子は、ソプラノ歌手である。8年ほど前、イタリアの国際コンクールのオペラ部門で優勝し、一躍その名を知られるようになったトップソプラノだ。その後の受賞歴は世界に及び、その数は両手では足らない。しかも、オペラのみならず歌曲の歌唱にも秀でていて、ドイツでは歌曲部門で最優秀賞まで受賞している。彼女が文化庁派遣芸術家在学研修員としてミラノに留学中、一時帰国して国内のコンクールを総なめにしていったというのは、今や有名な逸話になっている。


「初めまして、真野と申します。お目に掛かれて光栄です。前に、ステージも拝見しました。握手して頂いて構いませんか?」

「あら、ありがとう。木之内です」

 咲奈恵の言葉に少し機嫌を良くした訳ではないだろうが、ニッコリと笑って優雅に握手に応えてくれた。そんな2人を黙って見ていた神崎に向かい、咲奈恵は小さく話し掛ける。

「あの、先生。私、時間を間違えましたか? 出直してきましょうか……」

「いや、間違ってないよ。咲奈ちゃんにお願いしたいのは、祥子とのデュエットだから」

「………………、はい?」


「『花の二重唱』、確か大学の時、歌ってたよね? この間、思い出した」

「……」

「あれ、違った?」

 一体、神崎は何を言っているのだろう。何? デュエットって。誰と誰が? 花の二重唱? 歌ったわよ、確かに。大学の演奏会で。あぁ、そうそう。先生が覚えてたっていう演奏会で。ソプラノの友人とデュエットしました。間違ってませんよ。で……、それが何か!? この場には、全く関係ないよね。

 ニコニコ笑って話しかける神崎と対照的に、完全に機能停止状態の咲奈恵は、答えることすら拒否していた。

「何よ、直樹。違ったの!? ちゃんと確認してから紹介してよ!」

 木之内が分かりやすく不快な態度で、神崎に詰め寄った。神崎は特に動揺するでもなく、変わらぬテンションで話を続ける。

「あの時のソプラノは、ちょっと咲奈ちゃんの声と合ってなかったんだよね。歌いにくかったでしょ」

「……」

「まぁ1度、合わせるだけでも、お願いできないかな」

「……先生、説明……、足りません」

 困惑しきった咲奈恵の顔を見て、神崎はすました顔で続ける。

「練習相手を探しててね。少しの間、お願いできないかな」

「……私が、木之内さんの、練習相手ですか……?」

 何言っちゃってるの!

「無理です!」

 きっぱりと断れば、木之内は右眉だけをピクリと動かした。

「今日だけでいいんだ。実は、今度、祥子のリサイタルがあるんだけど。全国ツアーでね」

 話しながら、何やら神崎はピアノの上に置いていたコピー用紙の束をまさぐっている。何か探しているらしい。

「二重唱もプログラムに予定してたんだけど、峰原律子さん、知ってる?」

「ええ、もちろん」

 峰原はメゾ・ソプラノの歌手である。確か、()()木之内を、日本音楽コンクールで2位に抑え込み、優勝した強者のはずである。

「その峰原さんがね、今フランスにいるんだけど、網膜剥離になっちゃってね」

「えっ、大変じゃないですか……」

「そう。本人は日本に戻りたがってるんだけど、飛行機に乗るのが危険だって、医者に止められたらしくて」

「あぁ、気圧ですか……」

「うん。それでね、取り敢えず今、様子を見てるんだよ。本番には間に合うだろうってことなので、こちらでの練習風景だけでも、送ってほしいって話でね」

「……」

「お願いできるかな」

 そう言いながら渡されたのは、やっと探し当てた、楽譜のコピーだった。しっかり、製本までしてある。

「今日だけ、ですか……?」

「うん」

「でも……」

「タダで、とは言わないよ」

「そんなことは、いいんです。私は構いませんが、ご迷惑だと思います」

「大丈夫だよ、僕が頼んでるんだから。なぁ」

 神崎は木之内に同意を求める。木之内は即座に返事をしなかった。……ほら、嫌がってるじゃん。そうだと思うよ。変な声で隣で歌われるくらいなら、1人で音創りをした方が、よっぽどマシだ。よく分かるわ〜、その気持ち。

 ところが、

「えぇ、お願いできるかしら」

 と、思わぬ返事が返ってきた。そのことに咲奈恵が純粋にビックリしているのを見て取ったのか、木之内が付け足すように言葉を続ける。

「貴雄が言うなら、しょうがないわ……」

「……」

 あっ……、そういうことか。やっと少し平常心が戻ってきた咲奈恵は、ここに来て、やっと2人の関係に気持ちを向けることができるようになった。「祥子」に「貴雄」って……、そういうことかぁ……。咲奈恵は、なぜだか少し胸の奥の方に、小さく痛み感じる。……そうだよねぇ。

「分かりました。じゃ、邪魔な様なら、すぐにおっしゃってください」

「ええ」

 もちろん! と最後まで言わずとも分かるほど、きっぱりと返答され、逆に咲奈恵も腹が据わる。

「発声する?」

「大丈夫です。歌いながら、で」

 神崎に聞かれ、これ以上練習を中断させても申し訳ないので、咲奈恵は譜読みに入る。さすがに何年も前のデュエットは、思い出さなければ歌えない。

「先生、とりあえず進めてください。ちょっと、思い出します」

「分かった。じゃ、適当なところで入って」

「はい」

 咲奈恵の返事を合図に、木之内達の練習が始まった。その響きは、演奏会場の客席で聴くのとは違い、やはり迫力を持って迫ってくる。咲奈恵は楽譜を追いながら、木之内の歌い方と、神崎の伴奏の特徴を、丹念に書き込んでいく。

 いくら基本のリズムやテンポがあるとはいえ、人それぞれ音の揺らぎは、確実にある。それを見極めて、揃えていかなければならない。オーケストラであれば、それは指揮者の役目なのだが、指揮者がいないステージでは、各々が相手の音を聴きながら、瞬時に判断して揃えていくのである。歌いながら聴くことができなければ、アンサンブルは成しえない。

 

「ん……?」

 何、これ……? 咲奈恵は、譜面から顔を上げ、2人の様子に目を向けた。どうしてこんなことになってるの……。2人共、特段気にしているようには見えないが、明らかに意図してそうしている。

 お互いの音が聴けない2人ではない。よくもまぁ、2人共、めげないこと……。恋人同士の痴話喧嘩なのだろうか……。歌が終わったところで、咲奈恵は椅子から腰を上げた。

「咲奈ちゃん、いけそう?」

 神崎は「待ってました」との顔をしながら、咲奈恵に声を掛ける。咲奈恵はそれには応えず、2人に向かって静かに質問を投げかけた。

「私は、どちらに合わせて歌えばいいんでしょうか?」


 2人同時に、小さく動きを止めた。

「僕で」「私に」

 これも2人同時に答えが返ってきた。息が合っていること……。でも、答えが合っていない。お互いの返答を聞いて、2人の先程までの静かな様相が、一変する。

「何言ってるのよ。歌ってるのは私なんだから、私に合わせるのが当然でしょ」

「この曲は、祥子の歌い方ではテンポが保てないんだよ。揺れすぎ」

「いいじゃない。私の声が一番綺麗に聴こえる歌い方なんだから。このリズムで踊るように歌って、何が悪いのよ」

「ソロじゃないんだから、大体、本来はオケなんだぞ。祥子の揺らぎに、メゾやオケが合わせられると思ってるのか」

「オケの時はオケの様に歌うわよ。真野さんは合わせてくれるって言ってるんだから、後は貴雄が合わせてくれれば済む話でしょ」

「だから、祥子に合わせていくと、どんどんへんな曲になっちゃうんだよ。分からない!?」

「分からないわよ。ずっとそのまま歌う訳じゃないんだし。最後はいつも綺麗に収まってるでしょ」

「だから、それがおかしいって、何度も言ってるだろ」

「何度言われても……」

「ちょっ、ちょっと、落ち着いてください。2人共」

 たまらず咲奈恵が、割って入った。

 

 なるほど、これは根が深そうだ。確かに木之内の歌い方には、独特の揺れがある。発声によるものなのだが、長い音を歌い出す時に、いきなり真っ直ぐ声を出すのではなく、ふわりと小さなクレッシェンドを掛けながら出すのである。「息を回す」とよく言うが、普通は瞬時にそれをするところを、木之内はかなり時間を取って行うのである。それによって、微妙にテンポが遅くなる。その代わり、直接的な声で始まってしまう危険性はないので、終始柔らかく均整の取れた声で歌うことができる。

 咲奈恵も、この発声には少し疑問を持っていたのだが、今となってはこれが木之内の専売特許のようになっていて、評論家はもちろん、誰もそのことを指摘するものはいない。何せ、この歌で、各国のコンクールを渡り歩いてきたのだから、誰も文句は付けられないだろう。逆に、声だけを聴いて、これが木之内だと誰もが分かる。そんな歌手は、世界に於いてもトップクラスにしかいない。

 それを神崎は、敢えて木之内に合わせることなく、曲の初めから最後まで、徹底してインテンポで弾き切ったのだ。当然、ズレが生じる。木之内はフレーズの最後を思う存分歌い切れずに、喰い気味に入ってくる神崎の伴奏に、無理矢理合わせて歌っていた。あれ程気持ち良く人を歌わせてくれる、この神崎が、こんなにあからさまに歌手を引っ張っていくなど、あり得ない。

 

 先程咲奈恵は、どちらも引くことがない様子に、ある種、感動を覚えながら聴いた。お互いにズレたまま進行するには、それなりの技術がいる。

「お2人の言い分は分かりました。とにかく一度、私も歌ってみてもいいですか」

 こんなことは普通、プロの音楽家同士ではほとんどない。力関係は、はっきりしているからだ。この場合は、木之内が言った通り、歌うのは木之内なので、彼女が主導権を握ってしかるべきである。

「えっと、まず、木之内さんに合わせてみます。先生、よろしくお願いします」

 咲奈恵がそう言ったことにより、神崎も一旦引かざるを得ないだろう。今度は歌に合わせてくれるに違いない。木之内が若干、勝ち誇ったかのように見えた。

「……分かった」

 不承不承ではあるが、音が始まる。咲奈恵は、木之内の揺らぎに合わせるように歌い出した。


 綺麗な3度で進行するこの曲は、誰にでも分かりやすくハモる。咲奈恵の声を聴いた途端、木之内は響きが自分の身の回りで3倍くらいに膨らんだ気がした。これは、声が溶けている証である。

 歌い易い……。木之内は大して期待していなかった咲奈恵の声を、驚きを持って受け入れた。声の響きが、似ているのだろう。的確な場所で的確な息通りをしているから、メゾやアルトによくある「くぐもった」響きでもない。2人は身長も近いので、口の高さも揃って、余計響いているのだ。

 ところが木之内には、咲奈恵の歌が、時々「枠を超える」と感じられる時があった。「枠」が何なのか、木之内は分からないまま歌い続ける。確かに今回は、神崎は木之内に合わせて弾いてくれていると分かるので、それではない。では、何……?

 1ページほど歌ったところで、木之内が歌うのを止めた。

「真野さん、何だか、歌が粘ってるわよ。それ、変だわ」


 その言葉に、()()()驚いているのが分かった。

「私、木之内さんの様な綺麗なテクニックはできませんが、今、テンポだけは合わせたつもりです」

 今度は木之内が、その言葉にしばし考える間があった後、何かに思い当たったかの様に、小さく目を見開く。そして、そこに答えを求めるかの様に、神崎を見た。神崎は見つめられた視線に、まっすぐ応えるかの様に、見つめ返している。


 すかさず、咲奈恵は次の手を打つ。

「今度は、先生に合わせてみます。もう一度お願いできますか」

 戸惑いを隠せないまま、木之内も最初から歌い始めてくれる。今度はインテンポで、神崎の喰い気味の伴奏に合わせて、フレーズを歌い切らずに次の小節に移っていった。今度は、1ページの半分も行かないうちに、神崎が伴奏を弾くのを止めた。


「咲奈ちゃん……」

 神崎が咲奈恵の名前を、独り言の様に呼んだ。その目も、小さく見開かれている。咲奈恵は2人の顔を眺めつつ、ゆっくりと微笑む。

「ほんの少し、歩み寄っていただけませんか」

 それで、十分だった。2人共、トッププロなのだ。咲奈恵の言わんとすることは、すぐに理解してくれた。

 木之内は、自分の歌い方がいかに「変」になっているか、咲奈恵の歌を聞いて分かったし、神崎は自分の伴奏が、曲の許容範囲を超えて喰い込んでいることに、ちゃんと気付いてくれた。きっと、木之内に分からせるために弾いていたため、どんどん先走りが酷くなっていったのだろう。あれほどせっつかれては、合わせる以前に、「歌う」ことができない。


「もう一度、初めからお願いできますか」

 そうやって始まった「花の二重唱」は、今度こそ見事に、均整の取れた曲に仕上がった。歌い終わった時、神崎と木之内は、納得した顔をした。


「咲奈ちゃんの声、歌い易いわ。もう1曲、『舟歌』もあるんだけど、どうかしら?」

 「真野さん」から、「咲奈ちゃん」になって、咲奈恵も嬉しかった。考え様によっては、随分失礼なことをしたのに、受け入れてくれたようだ。さすがに、器も世界規模である。もちろん、神崎にも感謝の念は後で伝えよう。

「舟歌は、本当に1度しかレッスンしたことがないので、自信ないですけど、それでもよければ」

「いいわ。きっとすぐに、上手くなるわよ」

「祥子……」

 神崎は、咲奈恵とは違った意味で、今の言葉を受け取った。もう一度、確認するために木之内を見る。それに応えるように小さく頷いた木之内は、

「いいんじゃないかな。本番も、これで」

 と、何か振っ切ったように言葉にした。神崎が安堵の溜息を()いたのを、咲奈恵は不思議な気持ちで眺めた。きっと私には分からない、2人の事情でもあるんだろうな……。

「よかったです。少しでもお役に立てて。峰原さんに伝わるといいんですけど」

 咲奈恵の言葉に、木之内は真っ直ぐに目を見て首を振る。

「ううん、違うわよ。咲奈ちゃんと一緒に、本場も歌うのよ」

「……えっ!?」

 木之内の言葉を引き取って、神崎が説明の続きをする。

「咲奈ちゃん、実は峰原さん、本番も断ってきたんだよ。だから、デュエットの相手、探してたんだ。君の声なら、祥子も納得すると思ってたんだけど、やっぱり大丈夫だった」

 さっきの安堵の様子は、そういう……。

「声以上に君が必要だと、さっきので僕は感じたんだが、どうやら祥子もそうらしい。なぁ?」

 神崎は木之内に確認する。

「そうね。ちょっと、やり過ぎだったわね、私達。もう少し、『歩み寄る』わ。そのためにも、咲奈ちゃんが間に入ってくれると、スムーズにいきそう」

「木之内さん……」

「どう? 引き受けてくれるかな」

「先生……」

 突然のオファーに、咲奈恵の中で、歌いたい思いとやめるべきだとの思いがせめぎ合う。胸の奥の方で疼くように鼓動が鳴って、でもやはり、それを理性が抑え込む。

「先生、私、仕事もあるし、無理です」

「それは大丈夫だよ。僕も一緒だ。演奏会はどれも土、日で組んである。心配ない」

「私じゃなくても、他にもメゾのお知り合いは、沢山いらっしゃるんじゃないですか?」

「……そうだね。祥子も僕も、目ぼしい人は当たったんだ。だけど、どの人も上手くいかなかった」

「生徒さんとか、他の音楽事務所に当たれば……」

 咲奈恵が後ろ向きだと捉えた木之内は、半ば呆れたように神崎に話し掛ける。

「ねぇ、貴雄。そんなに無理強いしちゃ、ダメよ。彼女は、諦めよう。大丈夫よ、他にも歌いたい人はたくさんいるんだから」

 こんなチャンスを無駄にして! と、暗に言われていることは、すぐに理解できる。しかし、神崎はその言葉に同意しなかった。

「ごめん祥子。ちょっと、2人で話させてくれないかな」

 木之内は、「しょうがないわね」の代わりに1つ大きな溜息を()いた。するとおもむろに、ピアノの前から神崎の横に移動して、「どうぞ、お好きに」とでもいう様に、椅子から神崎をどかす。そこに座ってピアノを弾きながら、1人で練習を始めてしまった。


 神崎はそれを見届けて、咲奈恵の手を引っ張って練習室を出る。エレベーターホールにあるソファに咲奈恵を座らせ、自分もその横に座わり、体ごと咲奈恵の方に向いた。

「咲奈ちゃん、君がなぜ演奏活動をやめてしまったのか、僕には分からない」

「先生……」

「きっと、何か事情があったんだと思う。それは君の生き方だし、君の決断だ。だから、否定はしない。でもね……」

 神崎は俯いてしまっている咲奈恵の目線を、覗き込む。

「君は歌うことが、大好きだよね?」

「……」

 咲奈恵は、覗き込まれた目を、思わず見てしまった。でもすぐに、目を逸らす。逆にそれが、答になる。神崎はそれを確認し、更に続ける。

「あの『ハバネラ』にしても、さっきの『二重唱』にしても、歌っている時の君は、すごく生き生きとしてるんだ。見てるこっちまで幸せな気分になるほど……」

 咲奈恵は神崎の言葉に、何とか言葉を返すべく、小さく声を出した。

「……でも」

「ん?」

「でも、それだけではダメなんです……」

 絞り出すような咲奈恵の答えに、神崎は少しホッとする。僕の声は、届いてるんだね……。

「それだけではダメなことは、良く分かってる。僕はドイツで思い知らされた」

「っ……」

 初めて咲奈恵が顔を上げた。苦しそうな視線で神崎を見つめる。本当に真剣な目で、逆に神崎は少し微笑んでしまった。咲奈ちゃん、そんなに心配しないで……。昔の話だから。

「それでもね、君はあの『第九』に参加しただろ。姪御さんに聴かせたいって言うのも本当だろうけど、わざわざ東京から通って、週末潰して、好きじゃなきゃできないことだよ」

「……」

「そしてそのお陰で、僕は君に会えたんだ。それが、どういう事か分かる?」

 少し柳眉を寄せながら、咲奈恵は神崎を見て、小さく首を横に振る。

「この出会いは、君が選んだという事だ」

「……私?」

「そう。君が一歩前に進んだからこそ、見えた新しい世界だ」

「新しい……」

「大丈夫。1人じゃない。僕も、祥子もいる。怖くない」

「……」

「どんなことでもサポートするよ。君の不安は、全て僕が取り除く」

「先生……」

「それにね、何より僕は、君と一緒にやってみたいと思ってるんだよ。想像するだけで、楽しくてしょうがない。さっきの『二重唱』、弾いていてどれほど胸が躍ったか!」

 そう言うと、神崎は咲奈恵の両手を取った。

「一緒に、やろう! きっと音楽の神様も、応援してくれるに違いない」

「先生……」 

 咲奈恵はあの「第九」の時に見た、キラキラ光る光景を思い出す。あれを、もう一度、見られるかもしれない……。この神崎の伴奏で、もう一度、歌が歌える……。

「……私」

「うん」

「……よろしく、お願いします」

「咲奈ちゃん!」

 神崎は思わず咲奈恵をハグする。ビックリしている咲奈恵の背中をポンポンとして、神崎は大きく1つ息を吐いた。

「よしっ!」

 と掛け声を掛けながら、神崎は咲奈恵の手を強く握り直す。そのまま引っ張って練習室に戻れば、意気揚々と木之内に告げた。

「咲奈ちゃん、歌ってくれるって!」

 それを聞いた木之内は、ゆっくりと咲奈恵の前までやってきて、スッと右手を出した。

「よろしく。本番が、楽しみだわ」

 咲奈恵は、その手をしっかり握り返した。

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