ハバネラ
1月中旬、冷たい風が朝からずっと吹いている。咲奈恵は、音大付属高校の校門の前に立っていた。
「ここだよね……」
到着したことをLINEしようとスマホを手に取る。3分も待たずに、校舎の方から神崎が小走りでやって来た。コートも引っ掛けないで来たので、とても寒そうである。
「やぁ、よく来てくれたね」
「あけましておめでとうございます。先生、早く校舎に入りましょ。とっても寒そうです!」
「あぁ、おめでとう。思ったより早かったから、ちょっと急いだ。コート忘れて……」
「早く、早く」
咲奈恵は神崎を急かして、校舎に逃げ込んだ。風が避けられて、ホッとする。2週間ぶりに見た神崎は、演奏会の時のスーツとは違い、Vネックセーターにネクタイ、スラックスという、教師らしい服装で、相変わらず優しい造形の顔にホッとする。更に今は、少し大きい鼻が赤くなって、ちょっと可愛い。改めて咲奈恵は挨拶をした。
「昨年は色々とお世話になりました」
「こちらこそ。名古屋めし、美味しかった。ありがとう」
「年末年始は、お忙しかったですか?」
「年越し演奏会とかあってね、忙しかったよ。ここ1週間、やっと正月らしくのんびりできた」
そのまま音楽室に向かうようだ。廊下はやはり、底冷えの寒さである。白い息を吐きながら、ゆっくりと2人は3階に向かった。
「ちょっと、今のあれ、誰?」
「先生、コートも忘れて飛び出してったよ」
「何!? あの人に会った時の、あの嬉しそうな顔は!」
神崎と咲奈恵の校門での様子を、音楽室の廊下の窓から見ていたのは、合唱部2年生のトップ3である。
神崎はこの高校で、音楽講師をしている。授業の他にも、合唱団の副顧問もしていて、今日は年が明けて初めての部活の練習日だった。
彼女達は部活の頂点に君臨しているだけでなく、神崎の熱烈なファンでもある。神崎目的で合唱団に入ったようなものだ。付属中学の時より、ファンクラブならぬ、ファンブログを立ち上げ、神崎の情報を常に発信している。
彼女達の手に掛かれば、世界的ソプラノ木之内祥子は「魔女」と扱われ、「あの魔女の魔の手から、私達が守ってみせる〜」を合言葉に、神崎に何かと救いの手を差し伸べている。(……つもりである)
今まで数知れず神崎が伴奏した女性の中で、1番の厄介者である木之内からは、何とか牽制を成功させ、今のところ無事神崎を守れてきたのだが、新たな敵の出現で、彼女達の戦闘態勢は一気に警戒レベルのランクを上げた。
「万全の体制で行くよ」
「分かった」
「ふんっ!」
「じゃ、大学の声楽科を受けるのは、メゾさんなんですね」
「そう。もちろん個人レッスンも受けてるんだけど、先生がコロのソプラノでね。本当のメゾの声を多分聴いたことがない。咲奈ちゃんの声を1度聴かせたくてね」
「中間音の響きってことですか?」
「そうだね。あと、低音の方も」
「個人レッスンの先生と、ゴチャゴチャになりませんかね?」
「まだまだ固めずに、色んなレッスン受けた方がいい。自分に合うレッスンなんて、きっと判断できないだろうから」
「そうですねぇ。私も高2の時なんて、何にも掴んでなかったからなぁ。早い人は、とっくにできてる年齢ですけどね」
「それは、海外での話だ。日本で、その年齢でそれが分かってるのは、本当に少数だよ。大学出たって掴めてない歌手は、一杯いる」
「……分かりました。じゃ、少し声聞かせてもらって、てことで」
「うん。よろしく」
神崎から依頼されたのは、来年音大の声楽科を受験する生徒の、発声指導だった。
音楽室に到着すれば、女学生ばかり30名程に迎えられる。神崎が紹介してくれて、咲奈恵はにこやかに挨拶をしたのだが、何やら強い視線を一部から浴びせられた。それは身の危険を感じさせる程の視線だったが、特に何かをした覚えのない咲奈恵には、対処のしようがない。取り敢えず目的の受験生、石原を、別室で指導することになった。
「うん。綺麗なB(シ♭)だね。この音、歌いやすいでしょ」
「はい」
「メゾの響きの声だから、やっぱりメゾで受験した方がいいと思う。どうしてもっていうなら、ソプラノでもいけるけど、もう少しきちんとできるようになってから、高音は練習した方がいい。今のまま高い方練習しちゃうと、喉、壊すよ」
「やっばり、そうですよね。苦しくって……」
「うん。じゃあね、一度、奥歯噛みしめたまま、歌ってみて」
「えっ、奥歯?」
「そう。やってみて」
オンブラ・マイフを咲奈恵は歌わせる。彼女はまだ、口で音を作っている。この状態では、いくら曲を作っても、意味がない。といっても、それができるまで待っていては、到底受験には間に合わない。というより、一生掛かって手に入れるものだと、思った方がいいかもしれないものだ。
でも、敢えてそれを、咲奈恵は教えようと思う。曲はきっと、個人レッスンの先生が完成させてくれるだろうから、咲奈恵はそれを見つけるきっかけとなる練習だけを、してあげようと思った。
「あっ、それそれ。違いが、分かる?」
「えっと……、こうですか?」
「そう! すごいじゃない。そこをずっと練習して欲しい。奥歯を離してもできるように、徐々に慣らすの。もう1回やってみて」
何度も何度も、同じ音を歌う。きっと今までと全く違う感覚だから、明日になったらできるかどうか分からない。どうか忘れないで。そこに息を当てるんだよ。
「喉を開いてないでしょ」
「えっ、あっ、本当だ」
「それが、本当。喉の奥を大きく開くのは、間違いです。騙されたと思って、試してみてね」
時々音が当たる。今日はそれで十分だろう。咲奈恵は練習を終わりにする。
「発声はね、結局自分で見つけるしかないの。お風呂で色々試してみて。頑張ってね」
「ありがとうございました」
「……なるほどな。ああやって、喉声を剥がしていくのか。凄いな」
いつから聴いていたのか、神崎が咲奈恵の後ろから声を掛けた。
「あら、先生聴いてたんですか。企業秘密、聴かれちゃった」
「あんなに簡単に教えるってことは、簡単にできないからってことでしょ」
「分かっちゃいましたぁ? なーんて、嘘ですよ。自分が苦労したから、誰にでも教えてあげたいんです。分かるには、何かのきっかけがいるんです。その手助けができれば、やっぱりそれは、嬉しいから。それに彼女、少しできた。すごい、すごい」
「ありがとう。きっといい勉強になったと思うよ。音楽室に来てくれる? 皆にも色々教えてあげて」
神崎は先程の指導を見ていて、咲奈恵は人を教えるための、人間的魅力を兼ね備えていると確信した。相手には何が必要で、今できることは何なのか。それを見極める能力を十分に持っている。
音楽室に戻れば、石原が曲を歌って欲しいと咲奈恵に頼んだ。
「カルメンを歌えるようになりたいんです。聴かせて頂けませんか?」
そんな要望に、トップ3は鼻であしらう。
「カルメンって難しいのよねぇ」
「そうそう、とっても」
「そう簡単に、歌えないんだからー」
「……」
咲奈恵は直接「挑戦状」を突き付ける3人に、ドギマギしてしまう。神崎は笑いながらそんな彼女たちを諫めた。
「失礼だぞ。彼女はとてもいい声をしている。聴けば君たちも納得するよ」
「えー」「えー」「えー」
3人揃って文句を言う顔を見て、咲奈恵は「ははーん」と気が付いた。神崎にはとても甘えた顔をしたからだ。そういうことね。これは、強固なファンクラブだわ。ふふっ。
気が付けば、いつの間にやら楽譜を用意して、神崎がピアノに座っている。こちらは準備できましたという顔で、咲奈恵にそのまま呼びかけた。
「カルメン、歌ったことは?」
「……卒業演奏会で」
「では、お願いします」
「嫌ですよ。忘れてしまいました」
ぷぅと膨れて、咲奈恵はお断りする。3人の言う通り、カルメンはとても難しいのです。
「あの、是非聞いてみたいです。よろしくお願いします」
もう1度、石原がわざわざ席を立って頭を下げるので、咲奈恵は渋々ピアノの前に移動した。さすがに高校生のお願いは、無下にできない。もぉ、神崎先生のせいだ……。ブー。
「上手くありませんからね。後で怒らないで下さいよ」
「わぁ」
どうなることかと見守っていた、トップ3以外の皆が、歓声を上げた。
曲が始まった途端、咲奈恵の顔が変わった。神崎は、おやっと片眉を上げる。
最初は軽い声で始まった。徐々に身振り手振りの演技が付く。まずは、スカートの片側を持って、ゆっくりと上げた。次にそのままピアノに近づく。歩く姿は、いかにもけだるそうなジプシーの女である。反対の手にはタバコを持っている様子で、歌の途中で煙を吐いたりしている。本当に吸っているかのようだ。
そのまま神崎のそばまで行って、今度は神崎の体にまとわりついた。両手を背中から胸元まで這わせたり、指先で顔をゆっくりなぞったり、顔にタバコの煙を吹きかけたりする。それはまさしく、誘惑の仕草だった。そのまま曲は終わりに向かう。
最後は、神崎の背中から抱きつく形で腕を絡め、その姿勢のまま曲は終わった。
一瞬、静寂が部屋を支配した。生徒達はもちろん、神崎も動かない。その静寂を破ったのは、咲奈恵である。
「はい! 終わりで~す。悪い女でしょ~、カルメンって」
さっと神崎から離れてその場に立ち、朗らかに笑った。軽くそのままお辞儀をすれば、あっけに取られていた生徒達が、やっと拍手を送る。石原は「すごい」とひと言ったきり、茫然としている。
「これが、カルメン……」
ソプラノとの声の響きの違いを、初めて肌で感じて、圧巻の想いである。
「やり過ぎだ……」
神崎がボソッとひと言、呟いた。
「ほら、怒られた~。これ、いっつも怒られるの」
咲奈恵が小さくボヤけば、
「いっつもって……。まさか君、学生の時も、これやったの?」
「だって、カルメンの気持ちになってみろ、って言ったのは教授で……」
「教授って、どの教授!」
「坂本教授……」
「坂本教授!?」
神崎は小さく息が止まった。その後、ため息を吐きつつ、思わず片手で目を覆ってしまう。あの厳粛で清楚な歌を好む教授に……。参った……。
2人のやり取りを聞いていたトップ3は、作戦タイムに入っていた。
「なんか、ちょっと魔女とは違うタイプが来た」
「ほんと。これはこれで、先生ヤバイ」
「やっぱり、先生は、私達が守らねば!」
「うん」「うん」「うん」
一斉に頷きあって、ゴゴゴゴと音が聞こえてきそうな3人に、咲奈恵は少し後ずさった。
気を取り直した神崎が、生徒たちの前に立った。横に椅子を置いて、咲奈恵を座らせる。
「さて、今の演奏で気づいたことは?」
「えー、ダメ出し、嫌です~」
そんな咲奈恵の文句に、神崎は「黙らっしゃい!」と無言の視線を向ける。強い圧で睨まれ、咲奈恵は小さく肩をすぼめた。
「先生に、くっつき過ぎです!」
「色気で、先生を誘惑しないで下さい!」
「あの手は、卑怯です!」
「あのタバコも、卑怯です!」
「下品ですー!」
「……」「……」
非難轟轟の生徒たちの言葉に、神崎と咲奈恵は顔を見合わせた。
「君達のそれは、カルメンにとっては、誉め言葉だな。このアリアは、純朴なドン・ホセを誘惑する場面だし、カルメンはジプシーの女で、後に盗賊団の一味となる様な女性なので、上品ではないから」
「ドン・ホセは、誘惑されちゃうんですか?」
「……そう。それで彼は身を滅ぼす」
「えー!」
「どうなるの~?」
あちこちから質問が飛ぶ。どうやら演奏は、楽しかったらしい。
「カルメンに捨てられ、最後はカルメンを刺し殺すという、悲劇のオペラだ。ヴェリズモ・オペラの先駆けになった」
「えー、先生危なーい!」
それを聞いて、咲奈恵はくっくっと小さく笑う。「笑ってる場合じゃない!」とでも言いたげな咳払いを1つして、神崎は教師の顔に戻った。
「演技は置いといて、参考にして欲しいのは、発声だ」
咲奈恵は、あらっ、と顔には出さずに耳を傾ける。
「どんな姿勢をしても、声が当たっているポジションが変わらなかったのは、分かったか?」
視線を落として、咲奈恵はそっと微笑んだ。ちゃんと、聞いてくれてたか……。さすがです。
「あれは、正しい場所に息を送り続けるからこそできる技術だ。あと、その場所『マスケラ』だな。分かったか?」
「はい。この辺り」
石原が、両目の周りを手で表現する。
「そう。ずっとそこから声が聞こえてただろ。耳がビリビリしなかったか?」
「した、した」
「あれも、大きな声を出したからって訳じゃない。ちゃんと空気を振動させてるから、伝わる『響き』だ。鼻腔に響いてるから、マイクを通したようなエコーも加わる」
「もう1回聞きたーい」
「え~と」
咲奈恵は座ったままで、声を出す。
「喉だけで歌うと、こう」
「マスケラだけに当てると、こう」
「あと、後ろも開いて、バランスを調整すると、こう」
1つずつ、全部違う声になった。生徒達は、直接耳で聴いて、その違いに驚く。
「最後のは『プント』の響きだ。違いは、分かるな。……ありがとう」
神崎は咲奈恵へのお礼を付け加える。咲奈恵は微笑んで、それに小さく応えた。
「いい勉強になったと思う。改めて真野さんに拍手を」
咲奈恵は、皆の拍手に応えるべく、椅子から立ち上がってゆっくりお辞儀をした。
神崎と咲奈恵は、校舎の階段を下りて行く。咲奈恵を見送ってくれるとのことだ。
「先生の伴奏の素晴らしさ、歌ってみて改めてよく分かりました」
「君の歌は、弾きやすかった」
「途中、何度かブレスも助けていただいて」
「……」
「演技にテンポも合わせていただいて」
「……」
「テキスト(=歌詞)が思い出せなかったから、先生の所に見に行った時、ちゃんと楽譜を押さえて『ここだ』って、こっそり教えて下さったでしょ。よく、私がテキスト忘れたって分かりましたね」
「少し、不安そうな声で歌ったからね」
「……音、止めてもよかったのに」
「どう歌うのか、早く先を聴いてみたくてね。ははっ、まさか、誘惑されるとは思わなかった」
「大変、失礼致しました」
「いや、いいよ」
「先生の伴奏で歌えるなんて、一生の記念になりました」
「逆に僕は、どうして咲奈ちゃんがソロ活動やめちゃったのか、さっぱり分からなくなった」
「……」
「あんなに演技だって楽しんで、曲だって充分仕上がってる」
「……」
「どうして、やめた?」
「……色々」
「うん」
「考えるところがありまして」
と、これ以上の追及をさせない笑顔で言葉を切った。
「じゃ、先生、ここで結構です」
答えない気か。咲奈恵は校舎の出口で、神崎に正面から向き合った。
「校門のところまで、送るよ」
「いいえ、これ以上先生の傍にいたら、きっと私……、呪い殺される……」
「……何言ってるの?」
「ほら、今も悪寒が……」
と言って、笑いながら3階の音楽室の方に向かって大きく手を振った。
「ん?」
神崎もその視線に沿って振り返れば、トップ3の3人が窓から2人を見張って……、いや、見送っている。咲奈恵に応えて、小さく手を振った。
「ははっ、気にしないで。彼女達にとっては、遊びみたいなもんだ」
「先生、分かってないなぁ、乙女心」
「そうかな?」
「彼女達も、前途多難ですね……。先生も、頑張って下さい」
「……」
僕は何を頑張るんだ……。
「では先生、また名古屋に行かれるときは、お店LINEで紹介しますからご連絡くださいね。まだまだ、美味しいお店、いっぱいありますから」
「行くなら、君と行くよ」
「……」
神崎の言葉には応えず、ニッコリ笑って頭を下げ、振り向くことなく校門を出ていった。その後ろ姿が見えなくなるまで神崎はその場に佇んでいた。その姿は何かを考えているようで、胸の前で腕を組んだまま、じっと動かなかった。
見送っていた3人は、教室に戻りながら難しい顔をしている。
「魔女なら、車で送らせてるよねぇ」
「うん。今もフツーに帰ってったし、カルメンの時以外は、特に色目も使ってなかったから、まぁ大丈夫かな」
「……でもさぁ」
「うん、そうだよね……」
「何?」
「先生、曲の最中、すごく楽しそうだったんだよね」
「うそ……」
「そうそう。魔女の時は、本番でもあんな顔見たことない」
「えぇ、それ、ヤバいじゃん」
「うん、ちょっと、要観察だわ……」
「そうだね」
「了解」




