第九-本番-
「味噌カツ」とは名前の通り、とんかつの上に味噌が乗っているものだった。この間の「味噌煮込みうどん」とは、また違った味噌の味がする。さっき、小さなすり鉢でゴマをすって、そこに味噌を入れたから、その香りも立っている。
でも神崎は、さすがに正直なところ、トンカツには普通のウスターソースの方が、さっぱりしていて好きだと思った。
「咲奈恵ちゃん、今日の演奏後はどうするの?」
「東京に帰ります。明日から仕事ですから」
「そういえば、仕事って何してるの?」
「営業事務です。セキュリティシステムの製造販売をしている会社です」
「……いつから?」
「えーと、今年で足掛け4年目かな」
「その前は?」
「派遣であちこち行きました。最後の会社で、正社員にしてもらえて」
「歌は、ずっと続けてた?」
「……仕事がなかなか忙しくて、OLは結構大変なんですよ〜」
「……」
神崎は、咲奈恵がもうソロ活動はしていないと言った言葉が、実はずっと引っ掛かっていた。確かに音大を出たからといって、皆が皆、音楽関係の仕事に就くわけではない。しかし、咲奈恵の声はちゃんとソロとして通用するものだ。それを、どうしてやめてしまったのか……。神崎に、これ以上の追及をさせないかの様に、咲奈恵は話題を変えた。
「それより、先生のちょっと先の演奏会、木之内祥子さんの伴奏があるんですね。チケット、まだ余ってます? 是非、聞きに行きたいです」
「ちょっと、待って。オペラシティだよね。1枚でいい? 聞いてみるよ」
とその場でスマホを操作する。
「ピアノだけでお客さん呼べちゃうんですもんねぇ。やっぱり、木之内さんって人気あるんだなぁ」
「生の演奏、聴いたことある?」
「ええ、もちろん。中学生の時に初めて聞いて、衝撃だった」
「そうか。何年くらい前? そういえば、咲奈恵ちゃんって、いくつ?」
「あら、女性に年齢聞いちゃいましたね。ヒ・ミ・ツです」
と笑いながら、人差し指を「ヒミツ」に合わせて、トン・トン・トンと空中でタップする。
「ん〜、そのタイプか……。じゃ、35歳ってことにするよ」
「わっ、嫌です。28です」
「ははっ。すぐバレるんだから、無駄な抵抗はしないこと」
「う〜、乙女心をズタズタに……」
「ということは、15年くらい前だね。まだ彼女がイタリアでしか歌ってなかった頃だから、ちょっと今の声とも違うかな」
「あの時も、先生の伴奏でしたか? よく覚えてなくて……。すみません」
「いや、僕はまだドイツにいたからね」
「えっと、そういえばプロフィールにありましたね。あちらの大学出てらっしゃるんですよね」
「ん……」
「すごいなぁ……」
「咲奈恵ちゃん、留学は?」
「とんでもない。音大出るだけで必死でしたから。我が家は、サラリーマンの共働き家庭なので。我がまま聞いてくれた両親には、感謝してます」
「そうか」
「……ドイツは、大変でしたか?」
「……」
神崎は小さく目を瞠った。
今まで帰国してから何度となく聞かれた言葉は、「ドイツは、いかがでしたか?」という質問だ。「大変だったか」と問われたのは初めてだ……。
神崎は答えを探す。今までは、「大変でした」とか「勉強になりました」とか答えていたが、最初にこう聞かれてしまっては、もう大変だったのは当たり前で、その先のことを答えることになるから。
……そうか。ピアノ科を出た僕が、今はコレペティとして活動しているわけだから、彼女には分かっているのだろう。僕がピアニストとしては、既に挫折したということを……。
今でこそ神崎はコレペティをしているが、もともとはピアニストとしてドイツに留学した。日本での音大は首席で卒業し、ドイツ語検定も当時の2級まで取得し、学びたい先生にコンタクトを取って、彼のいる大学に無事入学が決まった。
ところがドイツに渡った後、「世界には素晴らしいピアニストが、ごまんといる」という事実を、神崎は見過ごしていたことに気づく。留学先では、教えてもらいたい先生には、世界中から希望者が殺到しており、結局、先生の方で「教えたい」と選んだ人しか、学ぶことができなかった。
それは、今考えれば、自分の音楽性程度では無理だったのだと分かっているが、当時は自分の全てを否定された様で、次に学びたい先生を探すこともできない程、自分を見失っていった。
いつもいつも、誰かとの比較に明け暮れ、その相手に勝つことだけを目標とし、小さなコンサートでは拍手の大きさやブラボーの数でしか自分を評価できなくなった。
ある時、特に学びたいと思っていたわけでもない教授に、
「本来の君は、どこに行ってしまったんだ」
と言われ、その醜い事実に打ちのめされた。その夜、ミュンヘンの街を一晩彷徨った。
危うく、強盗に会いそうになり、その時助けてもらったバルの店主と親しくなった。実はその店主も、若い頃はピアニストを目指していたというのだ。
自分と向き合うことができるようになった神崎は、ピアニストになることをあきらめ、コレペティに転向した。唯一ピアノを弾いていて楽しかった、ドイツリートの伴奏の授業を、心の拠り所にした。そして1番の理解者であったバルの店主からの、
「君の観察力は素晴らしい。きっと、ソリストたちのいいアシストができるだろう」
という言葉が、最終的な転機に繋がった。
4年後日本に戻って、本格的にコレペティとしての活動を開始した。やってみて分かる。
本当に自分に向いていたのは、自分1人で表現することよりも、誰かと共に、もしくは、誰かのサポートに徹していくことの方だった、ということ。しかもそれは、向いているだけではなく、結局、最も自由に自己表現を成し得ていける手段なのだということも。
演奏者の中には、表現したいことが体中に溢れていて、自分でも持て余している程なのに、その方法が見つからない人々が大勢いる。そんな彼らを、きちんとした理論と技術によって導くことの楽しさ。それこそが、自分ににしかできない、すべきことなのだと、今では心の底から思っている。
君ならば、一体どんな風に聞くのだろう。もし僕が、ドイツで感じたこと、考えたこと、決断したことを話したら……。分かってくれるだろうか……。いや、分かってもらいたい。
そのためにはまず、あれを君に聞かないと……。
「咲奈恵ちゃんって、か……」
ピロンとスマホが鳴る。神崎は慌てて画面を確認した。
「チケット、取れたよ。ちょっと下手寄りだけど、よかった?」
「わぁ、ありがとうございます。先生がよく見れて、いいです。下手側」
神崎は思わず笑う。可愛いことを、言ってくれる。
「あっ、チケット代、受付に預けられますか? えーとっ、それより、今お渡ししたほうがいいですね」
慌ててバッグに手を掛ける咲奈恵を、神崎は柔らかく制した。
「チケット代は、いいよ。ご招待します」
「えっ、でも……、私が行きたいって言ったのに……」
「大丈夫。あぁ、じゃあ、その代わりに、終わったら楽屋に遊びに来てよ。よかったら、木之内さんに紹介するよ?」
「わぁ、いいんですか! 写真、撮らしてくれるかなぁ。ひゃ〜、ドキドキしてきたー」
「あれ。僕の時は確か1回、スルーしたよね。写真」
「やだぁ、先生、気のせいですってばー」
打てば響くように冗談が返ってきて、神崎は10歳も年が離れていることが、気にならなくなっていく。さっき年齢を知って、実は結構ショックを受けていた。彼女にとって僕は、やはり「先生」の域を出ないのだろうか……。モヤモヤしている神崎に、咲奈恵が少し改まって、言葉を続けた。
「それに……、先生と会うのは、今でもドキドキしてます……」
「……」
神崎の鼓動が、コクンと胸をはじく。……そうだ、さっき聞こうとしたこと……。
「さ……」「私にとっては、お2人共、雲の上の人です」
2人同時に言葉が出て、神崎が聞く前に、別の意味での答えが、先に返ってきてしまった……。
「雲の上……」
「はい」
……それでは、困る。やはり、聞こう。そう思った途端、咲奈恵が切羽詰まった顔をする。
「先生! そろそろ出ましょう。もう、こんな時間です。ゆっくりし過ぎちゃった」
時計を見れば、13時30分を回っている。確かに、もう出ないといけない。
「喉、大丈夫か? 少し長く話し過ぎた」
「大丈夫です! この程度でへこたれていては、『第九』は歌えませんよ」
「そうか、よかった」
パタパタと準備をして店を出る。会場に向かって歩き始めた咲奈恵に、もうさっきの質問はできなくなってしまった。
――咲奈恵ちゃんって、彼氏いるの?
ステージのほぼ中央。オーボエの音が響き、コンマスのチューニングが始まる。音が決まったところで、弦楽器から順に音を渡していく。舞台上に、全ての楽器のチューニングの音が響き、すぐに静まり返った。
コツコツと足音だけが響き、マエストロが登場する。会場から拍手が起こった。オケと合唱を立たせ、舞台上の皆が胸を張る。さぁ、演奏会が始まる。
ベートーヴェン作曲「交響曲第9番 ニ長調 作品125 -合唱付き-」は4楽章からなる。合唱は最後の4楽章目に初めて登場する。それを知らずに聞きに来たクラシック初心者は、きっと戸惑うことだろう。いつまでたっても、あの有名なメロディが出てこない……。
合唱団は雛壇の上に並べられた椅子に、曲の最初から座る。以前は、第2楽章が終わったところで合唱団とソリスト達が入場するという時代もあったのだが、さすがに長時間音楽を中断することになるため、現在はほとんどの演奏会で、最初から舞台上で待つ形式になった。
つまり、出番である第4楽章までの約1時間、舞台の上で待ち続けることになる。しかも、照明が当たっているので、熱い。左右前後、人が密集しているので、その熱もある。会場はもちろん暖房が効いているから、人によっては、背中に汗が流れる程だ。
基本的に、座っている間は、極力動いてはいけないとされている。汗を拭うにも、とても気を遣う。大体、ハンカチを持って舞台に上がれない。男性は礼服に蝶ネクタイなので、ポケットに忍ばせることもできるが、女性は白いブラウスに黒のロングスカートなので、仕舞う場所がないのだ。手に持ち続けることになる。ロングスカートにポケットを付けてくれたら、どんなに助かるか……。服飾メーカーに提案したいくらいだ。
そういえば、以前参加した第九合唱団で、白いブラウスを必ずスカートにインしろとまで指示されたことがあった。「オーバーブラウスにしてはいけない」というのだ。見た目が揃わないかららしい……。
一緒に参加していたベテランの女性が、若い時に購入した、もうウエストが入らないスカートを、途中まで無理やりファスナーを上げて履いていて、あとはブラウスで隠すから大丈夫と言っていたのだが、この指示でえらく立腹していたのを思い出す。あのロングスカートは思ったより値段が張る。百貨店のフォーマルフロアで扱っているといえば、想像できるだろうか。
形も色々あり、2枚剥ぎのシンプルなものから、12枚剥ぎのフレアーたっぷりのものまで様々である。身長によっては裾上げが必要で、オーバーロックで仕上げてあるフレアータイプのものなどは、それだけで、普通のシンプルなタイトスカートが購入できる程の加工賃になる。10万円越えのものを買う人もいる。さすがにそれは、ごく一部だが……。
などと楽屋で話が盛り上がっていたら、高校生の参加者が、「私、通販で3千円で買いました〜」と自慢したものだから、「それ、大丈夫? 1回踏んづけちゃったら、破れちゃうんじゃない?」と、おば様達に心配されていた。ロングスカートは、踏んづけることもしょっちゅうあるので……。
結局、オーバーブラウス禁止令は、取り止めになったと記憶している。
咲奈恵は、他の合唱団のメンバーと同じく、オケを眺めながら待っていた。仲本マエストロの「第九」は、実に日本人好みの仕上がりになっている。オーソドックスなのだ。ベートーヴェンといえば「これ」、というような曲作りである。
今は地方でも、外国人指揮者が常任しているオーケストラが沢山存在する。彼らに「第九」を振らせると、決してこうはならないから面白い。刺激的でパッションを感じる演奏を聴いたこともある。
ただし、そういった指揮者は、第4楽章をとんでもない速さで振ったりする。そうなると、もう合唱団はガッカリするのだ。あっという間に、終わってしまうから……。
半年も、1年も掛けて練習してきたのに、練習の1.5倍くらいの速さで振られては、歌う時間は2/3の時間になってしまう。きっと、消化不良で、納得できない演奏会になるだろう。
その点、仲本はたっぷりと歌わせてくれる。「友よ。喜びの声を1つにしよう」と歌うシラーの歌詞を、日本人の一番好きな4拍子に乗せて、湧き上がるように歌わせてくれる。聴いていても、きっと体に馴染みやすいだろう。これなら、10歳の姪っ子にも苦痛ではないだろうと考えていた。
曲が第3楽章に差し掛かる。先程までの、早くてリズミカルな第2楽章と違い、ゆったりと美しいメロディが会場を包み込む。うっかりすると、寝てしまう楽章だ。たまに合唱団をよーく観察すると、居眠りしている人がいる。それがもっとも多いのが、この第3楽章である。咲奈恵も、さすがに眠りはしないが、少しぼぅっと他のことを考えていた。
本番前、開場したホワイエで、姪っ子達と待ち合わせをして、少し話をした。姪っ子は可愛いフォーマルな洋服を着せてもらって、喜んでいた。こんなことでもなければ、買うことはなかったと兄嫁が苦笑していたので、結構な値段になったのだろう。今回は両親も連れ立っていて、我が家だけで5人の集客である。
やはり、「第九」は採算が取りやすい。今回の演奏会は、オーケストラの主催によるものなので、合唱メンバーにチケットノルマはない。しかし、それでもこうやって家族が揃うのだから、合唱団延べ300人の集客力は、計り知れないものになる。更に最近ではクリスマスと絡めて、デートプランの1つになっていたりするので、出演者の手売りに頼らずとも、しっかり利益が出せるだろう。年末に第九演奏会が開かれるようになった理由が、楽団員たちの年越しボーナスのためだというのも、納得する話である。
「陽ちゃんのために歌うからね。しっかり聴いててよ」
「うん、分かった」
「寝ちゃ、ダメよ」
「うん」
咲奈恵は姪の陽子に、笑いながらハッパを掛ける。陽子は少し緊張した顔をした。隣にいる兄に、一応頼んでおこうか。
「兄さん、4楽章になったら、起こしてあげてね」
「いや、俺が寝るかも……」
「頼りないなぁ」
すると陽子が、咲奈恵に真剣な顔で呼びかけた。
「咲奈ちゃん、大丈夫だよ。寝ないで、ちゃんと聴けるよ。何回かCDで聴いて、勉強してきた」
「わぁ、偉い! 兄さんの子とは思えない〜」
そんな話をして別れた。最後に姪っ子が咲奈恵に向かって手を振りながら、応援をくれる。
「咲奈ちゃーん、頑張ってねー」
家族を見送った咲奈恵は、楽屋に戻ろうとスタッフ専用扉に向かう。気が付けば、扉の前に神崎がいた。
「姪御さん?」
「ええ、今日は家族総出です」
「そう、いいね」
「先生は、どなたかと待ち合わせでしたか?」
「ん、ちょっとね……」
もう神崎も面会は済んだようで、咲奈恵と一緒に楽屋に向かって歩き出した。
「姪御さんに、咲奈ちゃんって呼ばれてるの?」
「叔母さんとは、呼ばせてません〜」
「ははっ、なるほど。抵抗するねぇ」
「もちろんです。そこは死守です!」
「今日ね、演奏会の後話せないかもしれないから、実は君を探してた」
「あっ、そうでしたか。すみません。何でしたか?」
「東京に帰ったら、頼みたいことがあって。会社、いつも何時に終わる?」
「残業がなければ、17時半です。あると、遅いときは21時過ぎてしまって」
「……忙しいんだな。じゃ、週末は? デートとかで、忙しい?」
「はぁ〜、デートする相手がいれば、いいんですけどねぇ……」
「いないの?」
「むっ、いまっ……すよ。彼氏の1人や、2人や、3人や、4人……」
「ははっ、そうか、いないわけね」
よかった……。
むぅ、と唇を尖がらせてむくれている咲奈恵の顔を見て、思わず笑みがこぼれた。では、誰にも遠慮はしない……。
「咲奈……か。いいね。僕もそう呼ぶよ」
「えっと、構いませんが……。それより、頼みたいことって、何ですか?」
「ん〜、東京に戻ったら、また連絡する」
「先生にはご馳走になりっぱなしだから、何でもお応えしたいけど、私にできることにしてくださいね。難しいことは、ダメですよ」
「君だから、頼むんだよ」
「そうですか……。分かりました。じゃ、来年ってことで」
「うん、そうだね、来年。じゃ、本番、頑張って」
「はい!」
「頼みたいことって、何だろう……」
咲奈恵はコンマスの弓の動きを見ながら、もうすぐだなと意識を舞台に戻した。
――咲奈……か。いいね。
一瞬、呼び捨てにされたのかと思って、ドキッとした。そんな風に呼ばれたことは、随分昔の思い出である。先生は、生徒さん達を名前で呼んでるんだろうか……。先生に呼ばれると、何だか……。
ティンパニーが鳴り響いた。合唱団150人が一斉に立つ。恐ろしいことにこれは、誰かの指示を待つことなく、自主的に立たなければならない。指揮者からの合図も、本番では一切ない。もちろん、スッと立つのが原則で、膝が痛いだの、腰が痛いだのとは言ってられない。
「おお、友よ!」とバリトンのソリストが呼び掛け、男声がそれに応える。咲奈恵はオケがf(フォルテ)で音を掻き鳴らしているわずかな時間に、少し喉をならす。1時間も発声をせずにいきなり歌い出さなければならないのだから、何らかの自衛手段は必要なのだ。声帯を合わせ、小さく息を送り込み、隣にも分からない程の小さな声を出す。そして歌い出した。
一番有名なフレーズを終えたところで、不思議なことが起こる。舞台に、キラキラと光るものが降っていた。
「何、これ……」
他の人にも見えているのかと思い、目だけで小さく周りを確認する。特に皆、変わった様子はなく、観客の表情にも、目立った変化はない。何……?
本当にキラキラと、小さな光が、上から降っている。ホコリの反射かと目を凝らすが、そうではない。照明の当たっているオケの上が一番分かりやすい。全体にというより、所々に小さな塊があちこちでキラキラと光りながら下りてくる……。それは、まるで映画の特殊効果の様で、もちろん初めての体験だった。
ただこれは、歌っている時は分からなくなる。まぁそれは当然で、そんなことに気を取られていては、歌は歌えない。結局咲奈恵も、歌い始めの1回と、途中ソリストと男声合唱だけの間の、2回しか見ることはできなかった。そしてこの後、2度と経験していない現象である。
「お疲れ様ー! カンパーイ!」
合唱団が主催の演奏会では、ちゃんと会場を設定して、大々的な打ち上げが催されるのだが、今回はオケが主催の演奏会のため、残念ながら打ち上げはない。その代わりに、リハーサル室に合唱団だけ一旦集まり、缶ビールで乾杯をするという粋な計らいが用意されていた。その場で飲み切れるよう、ビールも小さなミニ缶である。咲奈恵も宮瀬と一緒に小さな乾杯を楽しんだ。
マエストロ、合唱指揮者の須高、神崎、そしてあの兼子が挨拶をする。兼子はマエストロのいない練習で、最後まで合唱団の伴奏をしてくれた。地元で活動している彼女には、合唱団の中にも知り合いが多くいる。皆、彼女に同情こそすれ、文句のある人間はいなかった。
「実にエネルギッシュでいい演奏でした」
「仲本先生の棒に、良く付いて行ってくれたと思います」
「少ない練習にもかかわらず、とてもよく統制された合唱で、すばらしかった」
「皆さんの演奏を聴いて、泣きそうになりました」
それぞれの挨拶のたびに、合唱団がわっと盛り上がる。拍手に包まれて挨拶が済み、短い時間ではあるが、打ち上げの様相になった。
「マエストロ、そろそろお写真の時間です」
そうスタッフの1人が声を掛ければ、全員で集合写真を撮る。もちろん1枚では入りきらないので、動画を撮ったりもした。これは後で参加者だけに配信される。皆笑顔で、演奏会後の開放感に溢れていた。続いてその後は、恒例のサイン会が始まる。
「仲本先生、サインお願いします」
「写真、神崎先生、お願いしまーす」
「須高先生、一緒に写真撮ってくださーい。兼子さんも入ってー」
――演奏会の後、話せないかもしれないから……
そいう事か……。咲奈恵はおば様パワーに気圧されて、もう神崎の側には近づけなかった。
「僕のサインは、要らなかった?」
間もなく横浜に到着する辺りで、神崎からLINEが届いた。
「修行が足りず……。今、どちらですか?」
「やっと新幹線に乗って、三河安城を過ぎたところ」
「お疲れ様でした。マエストロは?」
「前の席で、あっという間に、爆睡中」
笑いのスタンプを送る。もし時間があるなら、神崎に聞いてもらいたかった話を、送ってみる。
「今日ステージで、不思議なものを見たんですよ」
「?」
「キラキラ粒子が、ステージに降ってたんです。雪みたいに、あちこち」
ふむふむと、考えているウサギのスタンプが返ってくる。そうだよねぇ……。いきなりこんな話されても、困るよねぇ……。
「信じないですよねぇ……」
「僕も、1回だけ見たことある」
「ほんとですかっ!」
「うん。あれ、音楽の神様らしいよ」
そうなんだ……。ふるふると、感動しているパンダのスタンプを送った。
「歌、続けないとダメだよ」
咲奈恵の手が止まった。
「やっぱりか……」
神崎は、既読が付いているいのに、返信がなかなか来ないのを見て、独りごちた。
「何が、やっぱり、なんですか?」
横に座っている沢口が、耳聡く聞いてきた。お前は何で僕の横にいる! マエストロの横だろが!
「君の席、前だよね」
「仲本さんの隣、窮屈で……。ひじ掛けも使えないし……」
それが、カバン持ちのセリフか、まったく……。返事が自然にそっけなくなる。
「ああ、そう」
「神崎さんが横に座った方が、マエストロ喜ぶので、替わりませんか?」
「替わりません!」
溜息と共に断れば、タイミングよくLINEが返ってきた。
「もうすぐ到着します。良いお年をお迎えください」
スマホの中で、ふわふわヒヨコが、ゆっくり頭を下げた。
「良いお年を」
と返信し、電源ボタンを押した。神崎はそのまま、真っ暗な車窓を眺める。君は一体、何に挫折した……。神崎はそこに映った自分の顔よりも、ずっと奥にある暗闇を見つめ続けた。




