名古屋
次の演奏会場は、「愛知県芸術劇場」コンサートホールである。咲奈恵と出会った「第九」の時は「市民会館」だったので、このホールで咲奈恵と同じステージに立つのは初めてだった。もちろん神崎自身は、木之内のツアーの際や他の演奏者などと、何度も出演しているホールではある。
「咲奈ちゃんは今日のホール、初めて?」
「ハイドンの合唱で1度、エキストラで乗りました。聴きに行ったことは、何度もありますけど」
「今日は、姪御さんは?」
「姪っ子だけじゃなく、一家総出です。祖父母まで来てくれるみたいで……」
「そりゃ、頑張んなきゃな」
「両親が終演後に、ご挨拶させてくれって言ってました。よろしいでしょうか」
「もちろん。こりゃ、僕も下手な演奏はできないな」
「またまた~、先生に下手な演奏はあり得ませんよね~。お忙しいとは思いますが、よろしくお願いします」
新幹線でそんな話をしながら名古屋に到着したのは、9時頃。降りた途端、皆が口を揃えた。
「ぅわぁ、暑いわねぇ」
「ほんとだな。まだ、朝だっていうのに」
「ほんとですねぇ」
木之内と咲奈恵は、喉の保護のためマスクをしているので、余計に愚痴が出る。
「お客さん、ちゃんと来てくれるかな」
集客の心配をするのは、今川だ。事務所のスタッフ達はスーツでCD販売を行うので、ジャケットを一斉に脱いだ。
このホールはヴィンヤード式といって、舞台を囲むように客席があるホールである。ステージの背後には、ドイツ製のパイプオルガンがあり、席数は1800。舞台の背後になる部分、パイプオルガンの前と横の座席を含めての数なのだが、今回はその部分の400席近くを、解放しないと決めていた。
これは木之内の提案によるもので、事務所サイドとしては当然、全席販売対象としたかったのだが、オケやオペラと違い、歌の場合、ほとんど1方向に音が発生するため、どうしても演奏者の背後になる席では、十分満足な音にはならない。もちろん、音響がすばらしくいいホールなので、聞こえないわけではないが、木之内は後ろは入れないと決めていた。
その他の席は、ほぼ完売している。今回は咲奈恵の地元という事で、咲奈恵も50枚程チケットを捌いた。というよりも、あっという間に売れた。最初100枚を一旦預かったのだが、すぐに事務所から返還を求められた。一般販売が、足りなくなりそうだとのことだった。咲奈恵は必死で手売りをしていた5年前を思い出し、木之内のコンサートに出演するという現実を見せつけられ、やはりため息が漏れた。本当になんて幸運な体験なのだろう……。
「木之内さん、花の二重唱の最後、どうします?」
「確か、2階席に上がれたわよね、ここ」
「見てみましょうか」
2階席というのは、今回開放されない部分のことで、実はパイプオルガンの横に、舞台裏から直接登っていける小さい入り口があるのだ。2人でその様子を見に行ったのだが……。
「ダメね。歌舞伎の早変わりじゃあるまいし、曲の間にこの距離は移動できないわね」
「本当ですね。螺旋階段だし、ドレスでは無理ですね」
と、早々に諦めることになった。仙台同様、下手側に移動して歌おうと決める。
「そういえば咲奈ちゃん、『舟歌』で気になるところがあるの。ちょっといい」
「あっ、はい」
神崎も加わり、その部分の音合わせから始まった。
2回目の公演ということもあり、初演とは随分緊張感が違う。しかしこの緊張感のなさが、本番でとんでもないアクシデントを呼ぶことがある。咲奈恵も昔、学生の頃、2回公演のオペラに出演した際、何をどう間違ったのか、ソロのアリアで、1番の歌詞と2番の歌詞を途中からテレコにして歌ったことがある。歌いながら気が付いて、頭が真っ白になった。あの時のあの恐怖は、10年近くたった今でも、1年に1回くらい夢に出てくるくらいである。
ちなみに今では、音大のメンバーと会うと、必ずいじられる昔話の1つになっている。
「しっかりしないと!」
言い聞かせるために、楽屋で何度も譜面に目を通していた時である。
「咲奈ちゃん、今日公演後に何か食べて帰らない? 名古屋めし、また行きたい」
そう呑気にやってきたのは、神崎だ。
「木之内さんは、どうされるんですか?」
「えっ、聞いてないけど……」
すっかり咲奈恵と2人で行くつもりだったので、全く眼中になかった。木之内はサイン会があるので、別々に帰ることも過去何度かあったのだ。神崎は男性なので、荷物も少ないし帰り支度も早い。特に日曜日の公演などは、次の日が高校の授業があることもあり、早く帰ることもしばしばあった。今回は日曜日のマチネなので、6時には演奏会は終了し、遅くとも7時には会場を出られるはずである。咲奈恵とデートするには、絶好のチャンスと狙っていた。
「じゃ、聞いてきますね」
と嬉しそうに、隣の楽屋に聞きに行ってしまった。
「えっ……」
そんなぁ……。当てが外れた神崎である。ちっとも咲奈恵が戻ってこないので、木之内の楽屋を覗くと、何やらワイワイと話が大きくなっていた。そこには、いつのまにやらマネージャーの今川や、スタッフ達も全員集まっていた。皆こういう話には、迅速に行動するらしい。
「じゃ、スタッフの皆さんも一緒に、台湾ラーメン食べますか?」
「いいねぇ。近いの?」
今川の目が輝いている。彼は無類のラーメン好きである。
名古屋めしといえば、ひと昔前は「味噌カツ」「手羽先」「ひつまぶし」「味噌煮込み」といったところがメインだったが、この「台湾ラーメン」も今ではかなり上位に喰い込んでいる。いわゆる、ご当地ラーメンである。唐辛子の利いた肉ミンチが上に乗った、辛みラーメンの代表格で、名古屋の台湾料理店が元祖といわれ、東京にも何店舗か進出を果たしている。
「はい。タクシーで5分くらい」
「よし。予約入れよう!」
「了解です!」
咲奈恵はぐっと親指を立てて、気合を入れている。君は、小倉旬か……。
「……」
2人どころか、全員で行くことになってしまって、神崎は……、すっかり諦めた。また、次にするか……。
「あんまり辛いの、僕苦手……」
それでも少し抵抗してみるが、
「大丈夫ですよ。アメリカンっていうのもありますから」
「ラーメンで?」
「そうで~す」
「俺は、激辛挑戦する」
スタッフの1人が片手を上げる。
「じゃ、イタリアンですね。アフリカンもありますけど、あれは死にます」
と、また親指を立てる。どんな根拠のネーミングなのか、聞けば一通りうんちくが聞けそうな様子だが、取り敢えずは止めておいた。咲奈恵が楽しそうなので、まぁいいかと溜息を吐く。
「先生、青菜炒め、美味しいですよ~」
とその笑顔に癒されて、やっと気持ちを切り替えた。美味しくいただくためにも、まずは演奏会の成功である。
「えっ……」
第2ステージの重唱「ホフマンの物語」より「舟歌」の最中だった。この歌はメゾから始まる。途中でソプラノが入ってきて、後は追いかけるような形で、何度か入れ替わり、ユニゾンで同じ音を歌ってから、また分かれる。難しい曲ではない。
ところが、ソプラノが入る場所で、1音、木之内が入るのが遅れた。これが……、伝染する。
咲奈恵は自分が間違えたのかと思って、音が止まりそうになったのだ。こういう時、楽譜があれば直ぐに確認して、何事もなかったかのように咲奈恵1人で歌い進めて、それに木之内が揃えれば済む話である。よくあることだ。
ところが、楽譜はない。とっさのことに、咲奈恵の声も小さくなってしまったのだ。神崎がすかさずリズムを分かりやすく大きく弾いてくれたため、木之内が何食わぬ顔でそのまま歌い続け、咲奈恵も何とか続けることができた。1小節もない時間のことである。
ぞっとした。これが、本番の怖さである。袖に引っ込んだ途端、木之内に叱られた。
「咲奈ちゃん、そのまま歌ってくれればよかったのに!」
「……すみません」
「大丈夫だ。少し、もたついただけだ」
神崎はそう言ったが、木之内は不機嫌のまま楽屋に向かって行ってしまった。次は、咲奈恵のドイツリートのソロである。こういうのは、嫌だ。ずっと引きずってしまう。何とか気持ちを切り替えようともがきながら、観客の拍手が止むのを待つ。隣に立った神崎が、舞台の方を向いたまま話し掛けてきた。
「あれは、祥子が悪い。君のせいじゃない」
「……でも、私がもっと自信をもって歌い続ければ、あそこまでにはならなかった」
「……そうだね」
違うとは否定しない。それが、ソリストとしての厳しさである。
「でも、僕で食い止めた。大丈夫。3人いるんだ。誰かが止めればいい」
「……」
「引っ張られちゃ、ダメだ。君はあれほど練習した。自信を持って。練習したものを出せれば、それで十分だ。大丈夫。何があっても、僕が食い止める」
咲奈恵は滅入っていた気持ちが引き締まる。前だけを、見て……。
「僕らのシュトラウスの邪魔は、誰にもさせない」
咲奈恵は思わず神崎を見る。神崎も咲奈恵を見た。強い、目だ。咲奈恵は、鳥肌が、……立った。
「よろしくお願いします」
「よし! 行こう」
ホワイエに、2人は並んで立った。木之内はサイン会があるので、既にそちらにスタンバイをしている。神崎と咲奈恵は、この公演からお客様をお見送りすることになった。仙台での神崎の人気と、今回は咲奈恵がチケットを捌いたこともあり、咲奈恵のお客様も多いと考えられてのことである。舞台衣装のまま、久々に会った地元の人々との挨拶や写真撮影に追われながら、半分くらいお客様が帰られた頃のことである。
「咲奈恵!」
20代後半くらいの男性が1人、咲奈恵に近づいて来て、そのまま躊躇なくハグをした。
「守……」
そう答えながら、咲奈恵も嫌がらずにそれを受けている。神崎は思わずそちらに目を凝らした。
「お前、やったなぁ」
「来てくれたんだぁ」
「当ったり前だ!」
咲奈恵が見せた笑顔に、神崎は苛立ちを覚える。一体、誰だ。気安く呼び捨てにして! しかも、あんな警戒心のない笑顔……、僕だって見たことがない。
「咲奈ちゃーん」
彼の後ろから、「第九」の時に見た記憶のある咲奈恵の家族もやって来て、咲奈恵を一緒に囲んだ。家族まで彼を知っている様子に、神崎の気持ちは更にざわつく。
神崎の前にもお客様がどんどんやってくるため、ずっとそちらを気にしている訳にもいかない。しばらく後に気が付いた時には、すっかり家族はいなくなっていた。
「さぁ、皆さん。台湾ラーメン、行きましょう!」
会場の撤収作業もいつもの半分で終了し、スタッフの意気込みも半端ではない。皆でタクシーに乗り込んだ。神崎はスタッフと同じタクシーで咲奈恵と離ればなれになってしまい、話もできないまま食事になだれ込んだ。
店内は満員で、予約をしておいてよかったと、誰もがホッとした。個室が1つ用意されていて、オーダーの際は咲奈恵のおすすめ解説が、皆を沸かせた。木之内は喉を気遣ってアメリカンを頼んだのだが、レギュラーやイタリアンを頼んだ人のを1口2口貰い、「そっちが良かった!」の一言で、スタイリストさんが意に沿わないラーメンを食べることになった。お気の毒……。咲奈恵と神崎は、交換せずに済んで内心ホッとした。
「何、咲奈ちゃん、まさかのイタリアンなの?」
神崎がやっと直接話せるようになったのは、皆の注文がテーブルに出揃った頃。
「てへ。実は辛いのは、あんまり……で」
小さい声でこっそり答える咲奈恵は、どうやら楽しんでいる皆のテンションを下げない様に気遣っているらしい。
「はは。そうなんだ」
同じ味覚と分かり、そんな事だけで神崎は嬉しくなる。お勧めの青菜炒めをシェアしながら、聞きたかったことを口にした。
「さっき、ご家族がいらっしゃってたね」
「あ、そうです。先生にご挨拶しようと思ったんですけど、お客さん一杯だったから諦めました」
「それは、残念。……あの彼も、ご家族?」
「あの彼? 兄、じゃないですよね……? あぁ、守?」
そう、君まで呼び捨てにする、「守」だ。
「大学の同期です。同じ名古屋出身で、高校から一緒だったんですよ。守にはいつも伴奏してもらっていたんです」
「彼、ピアニスト……なんだ」
「ええ。先生のこと憧れだっていつも言ってたから、今日一番褒められた所です。歌の出来より、共演したことばっかり。失礼だ」
「そう……」
今でも家族公認で付き合いがあるという事は、10年以上の仲だ。僕の知らない咲奈恵を、嫌というほど知っているに違いない。今も会っているのだろか……。
「彼は、今は名古屋なの?」
「ええ。音大出た後一緒にソロ活動してたんですけど、名古屋で就職が決まって」
「音楽関係?」
「いいえ。一般の会社です。でも、合唱団の伴奏とか、音楽教室で生徒さんに教えたりもしてるんですよ。偉そーに」
守に対して、ちょいちょい文句を入れてくる咲奈恵が、かえって親密さを表しているようで、神崎は気が気ではない。
「まさか、彼がいなくなったから、ソロ活動やめたんじゃないよね……」
咲奈恵はそんな方向に話が行くとは微塵にも思ってなかった様子で、少し驚いて、でもすぐに目を伏せて小さく微笑んだ。
「違いますよ……」
以前もそれ以上の追及をさせなかったが、やはり今回もそれ以上話さないらしい。
「それより先生、今日は本当にありがとうございました。気持ちの入れ替え方、勉強になりました。やっぱり先生のピアノは、最強の砦ですね」
「今日のシュトラウス、よかったよ。咲奈ちゃんの歌、どんどん変わるから、僕も楽しいよ」
「えへっ、先生のお陰です」
照れ笑いしている咲奈恵だが、その実、神崎は本当に驚いたのだ。
後半のステージの3曲の中に「Zueignung(献呈)」という曲が入れてある。2分程度の短い曲なのだが、シュトラウスの歌曲の中でも、特に人気の高い曲である。
これも「Morgen!」と同様、愛の歌であるが、もっと分かりやすく相手に気持ちを伝えている。
――そう、あなたは知っている、尊い魂よ。あなたから遠く離れて僕が苦しんでいることを
飲んだくれの自分を救ってくれた「あなた」に、「僕の感謝を受けて」と愛を表現する。男性が女性に捧げていると解釈される歌詞だが、女声の方が録音音源としては多い曲である。最初から悦びに溢れていて、最後には感情の爆発の様に、「僕は変わり、清らかに清らかに、あなたの心に沈んだ」と歌う。
元々咲奈恵の歌は、人に寄り添うところから始まる。つまりはシュトラウスの場合、僕のピアノだ。再現音楽であるクラシックは、予定調和のうちに終わることが、ある意味正しい。しかし咲奈恵の場合、寄り添った音と言葉が出会うことで、表情がどんどん変わる。それに神崎がまた反応することで、核連鎖反応の様にエネルギーが留まることがない。
これは、神崎にとっては、ある意味脅威だった。何故なら、咲奈恵の歌は自分の鏡だからだ。自分が彼女の音に反応しなくなれば、彼女の歌もそれ以上反応することはないからである。
これは訓練で身に付けたというよりも、咲奈恵が持って生まれた個性と言っていいだろう。きっと彼女自身が、そういう女性なのだ。本当にそれは脅威であり、そして、悦びでもあった。咲奈恵が「先生のお陰」と言ったということは、彼女もそのことを十分自覚しているのだろう。だとしたら、「守」はどうだったのだ。彼とも同じような歌を歌っていたのか!?
「咲奈ちゃん、彼とはどんな歌を歌ってたの?」
「……」
咲奈恵はまっすぐ見つめられて、言葉に詰まった。
今から思えば、あの頃、守と演奏していた歌なんて、「歌」とい言えるものではなかった。楽譜通りのメロディを奏で、言葉を声にする。決められたルールにのっとり、その上をただ実直に歩き続けるだけの、退屈なものだった。もちろん、あの当時は、それでも十分楽しかったし、それしか方法が見つからなかった。神崎との様に、そこに新しい音楽は生まれなかった。
「先生との歌みたいに、特別なことは何もありませんでした」
と言ってしまえたら、どんなに心がすっきりするか分からない。けれど、すぐ隣に木之内がいるのに、そんな事は口が裂けても伝えられない。なのに、伝えたくて、知りたくて。言えば先生は何と言ってくれるのか……。答えは分かっているのに、聞きたくて……。そんな衝動を抑え込むのに必死だった。あんな歌、先生でなければ歌えない……。
「……普通の、歌です」
咲奈恵はやっとの思いでそう言うと、席を立った。ほぼ皆の食事も終わっている。今川に確認し、タクシーの手配をした。そして別室より、彼女の両親を伴って部屋に戻ってきた。
「木之内さん、先生、父と母です」
「いつも咲奈恵がお世話になりまして」
そういう父に従って、母も一緒に頭を下げた。
「あら、ご両親もこの店で食事してらしたの? 咲奈ちゃん、一緒にお食事すればよかったのに~」
と木之内が挨拶を返してくれて、両親は恐縮した。
「いえいえ、皆さんのお邪魔になりますから……。この度は、立派な先生方とご一緒させて頂けて、娘も喜んでおります。未熟者ですが、どうかよろしくお願いします」
と、もう一度頭を下げた。
「お父さん、お母さん、一緒に写真撮りましょ」
と、最後まで木之内が気を利かせてくれて、ならばと別室にいた残りの家族も全員登場する。さすがにそれには神崎も驚いたが、どうやら演奏会場では2人に挨拶は無理だと考えた咲奈恵が、こちらで合流する様に取り計らったらしい。
「逆に、随分お手間をお掛けしてしまいましたね」
と、神崎は快く写真に納まってくれた。ワイワイと皆一緒に店を出て、タクシーを待つ間にあちこちで会話が続く。神崎に話し掛けたのは、咲奈恵の母だった。
「咲奈恵が、今回こんな大きな演奏会に出られたのは、全部先生のお陰だと言っておりました。本当に、ありがとうございます」
「いえ、僕だけの力ではありませんよ。咲奈恵さんの素質と努力がなければ、実現しなかったと思います。今回は急遽のお願いでしたが、よく承諾してくれて、僕達もとても助かったんです。ありがとうございます」
「そうですか。少しは役に立ってますか……。ありがたいことです」
と、何度目かのお礼を言われ、神崎は微笑ましい気持ちで両親を眺めた。咲奈ちゃんは、顔がお父さん似で、性格はお母さん似なんだな。そして、祖父母の様子を見れば、しっかりと愛情を受けて育ったに違いないと確信したりしていた。
「タクシー来ましたー!」
スタッフの声に、一斉に皆が慌ただしくなる。東京組は、咲奈恵の家族に見送られる形で、店を後にした。名古屋駅に着いて、新幹線に乗る時になって、今日は咲奈恵は東京に戻らないという衝撃的な事実を、神崎は初めて知らされる。
「えっ、咲奈ちゃん帰らないの?」
「はい。今日は、こちらに泊まるつもりでしたので」
「……早く、教えてくれれば良かったのに……」
「何か、打ち合わせとかありましたか?」
「……いや、そういうことじゃなくて……」
「帰りはお2人で、ゆっくりして下さい。気兼ねなく、どうぞ」
ニッコリ笑って微笑まれたが、今まで僕は誰かに気兼ねをしていたのか……? まだ納得いかない神崎の前に、追い打ちの様にあの「守」が姿を現した。
「咲奈恵、頼んでくれた?」
ハァハァと息を切らしながらやって来た彼は、咲奈恵に確認しながらキラキラした目で神崎を見る。
「守、遅いよ。ギリギリじゃない」
「おばあちゃん達、名鉄の改札で降ろしたから、遅くなった」
どうやら、咲奈恵の家族を車で駅まで運んだらしい。じゃ、さっきの台湾料理店に彼もいたのか……。
「先生、さっき話してた守です。先生と握手して欲しいって。できれば、写真もお願いしたいと、贅沢言っておりまして……」
「はぁ、何だよ、その紹介は」
守は咲奈恵を横に押しやって、改めて神崎の前に立った。
「初めまして。岸谷守です。俺もピアノを少しやってて、昔から神崎さんに憧れてました。会えて最高にラッキーです。握手していただけませんか?」
神崎は出された手をグッと握った。もう少しで、握手を超えた握力になりそうだったが、何とかそこは理性で抑えた。写真も一緒に納まる。彼1人なら当然断っているが、咲奈恵に狭量な人間だとは思われたくないので、鷹揚に応えた。
後は事務所のスタッフに、押し込まれるように新幹線に乗せられ、窓の外から2人に見送られる。顔が、否が応でも不機嫌になる神崎を尻目に、咲奈恵も守も、満面の笑みで手を振っている。何故君は、そんな嬉しそうに見送るんだ……!
「お2人、お似合いねぇ。今日は彼の家にでも、泊まるのかしら」
木之内が、前の席で神崎にまで届く声で、軽く言い放つ。神崎はぎょっとした。
「何、祥子! 2人は付き合ってるの!?」
「さぁ? でも、お似合いでしょ。仲、良さそうだし。嬉しそうだし」
それを聞いて、思わず新幹線を降りようと席を立ったその時、無情にも発車のベルが鳴り響いた。今川に無理やり席に座らされ、車窓の2人はあっという間に夜の名古屋の景色に変わってしまった。
ちょっと、待て! 僕は東京には帰らない! 帰るわけにはいかない! そう叫びたいのを必死に堪えて、頭を抱えながら帰京の途に就いた。




