大阪
「ねぇ、先生のブログ見た?」
「見た見た! 仙台のでしょ。先生、なんか、キラッキラッしてない?」
「そうなんだよねぇ。カルメンもでしょ~」
「魔女は、いつも通りか……。優雅な微笑み……。化けの皮~」
3人が声を揃えて、ドハッと笑う。神崎が非常勤講師をしている高校の合唱部トップ3の3人組は、今日も部活の練習前に神崎の噂話に余念がない。神崎のブログには、木之内を真ん中にして、向かって右に咲奈恵、左に神崎と3人が並んで、楽屋の通路で写したらしい写真がUPされていた。コメント欄には
「待ちに待ったツアーが始まりました。仙台の皆様にも、楽しんで頂けたようです。相変わらず仙台の皆様は、暖かく応援して下さいます。感謝! これから、2か月頑張ります」
とある。
「もう名古屋、終わってるはずだよねぇ」
「うん、こないだの土曜日だったもんねぇ。UP遅いの、珍しい……」
「そうだよね。演奏会のあった次の日には、必ず更新されるのに……。もう水曜日だよ」
「なんか舞台であったのかなぁ……。先生、トチッちゃったとか?」
「我らの完璧王子に、それはない!」
「今日の夜、バリトンのリサイタルがあったよね」
「うん、文化会館。大丈夫かなぁ」
「ダイジョブっしょ! 3人でパワーを送っておこう」
「ふっー!」「ウンー!」「ンー!」
3人で文化会館の方角に向かって、悟空よろしく、何だか分からないパワーを送っておいた。
「神崎君、具合でも悪いの?」
「いや、すみません。大丈夫です」
今日何度目かのミスに、バリトンの島村は神崎を気遣う。ゲネプロの真っ最中だ。
「もう一度だけ、お願いします」
東京文化会館の小ホール。座席数は600席余り。客席は舞台を3方向より囲む形になっており、舞台正面にある階段のような白い反響版が印象的なホールである。50年以上前に建てられた歴史ある会館のため、どうしても設備が古く不便な面も多いのだが、2014年に改築され、随分綺麗になった。何せ上野公園の一角にあるので、交通の便は誰もが文句を付けられないところだろう。リサイタルや室内楽などを行うには最適の席数で、会場を押さえるのが難しい、人気のホールの1つである。
その後、神崎のミスが出ることもなく無事ゲネプロを終え、島村の楽屋で軽い食事を取る。オペラの様に体力を使う場合は別だが、本番前に食事を取らない歌手は多い。ただし、今日の様に夜の公演の場合、21時頃までは食事を取れないことになってしまうため、島村は軽食を取ることにしている。神崎も一緒にサンドイッチを口にする。いつも島村の妻の多恵が準備をしてくれて、ご相伴に預かっている。ありがたい。
「今、木之内さんのツアーの真っ最中でしょう。どう? 彼女は、相変わらず?」
島村は神崎より8歳年上の、ちょうど脂の乗り切った二期会所属のバリトンである。3年ほど前に木之内の紹介で出会い、彼の関係するコンサートに何度か呼んでもらえるようになった。今日は4年振りのリサイタルで、チケットの販売も好調とのことだ。つい先日まで1か月程ドイツに行っていたため、声がきちんと調整されている。神崎も伴奏していて心地がよかった。
島村は妻の他に子供も2人いるので、オペラ界で活躍しているとはいえ、演奏活動だけで生活しているわけではない。神崎同様、音大での特別准教授を軸に、個人の生徒を何人か教えている。今回は大学の夏休みを利用してドイツに行ってきたとのことだった。歌の場合、日本語しか話さない国内では、やはりいい先生を見つけるのは難しいらしく、発声が狂っていってしまうという。最前線に居続けるための努力を惜しまない島村を、神崎は心から尊敬している。
「ええ、相変わらずです。自由で……」
「じゃあ、まだあのバトルしてたりするの? 本番じゃ神崎君が彼女にほとんど合わせてるから分からないけど、あの練習を1回でも聞いた人は、驚くよ。よく続くなぁ……って」
1度、この島村と木之内と神崎で共演したことがあった。その時の音合わせのことを言っているのだろう。あのバトルは、いつものことなのだ。
「今回、メゾとのデュエットが2曲あって、彼女のお陰で少し祥子の歌い方にセーブが掛かって、助かってるんです」
「へぇ、良かったじゃない。峰原さん?」
「ええ、その予定だったんですが、彼女網膜剥離になってしまって、フランスから帰ってこられなくて、キャンセルになったんです」
「ぅわっ、それは大変だな。じゃ、代役は二期会の人?」
「いいえ。多分ご存じないと思います。ほとんど演奏活動をしてこなかった様なので……」
神崎の視線がゆっくりと下に向く。そのまま、考え事をする様に、食事をする手も止まってしまった。
島村と多恵は、小さく目を合わせる。あまり感情を大きく変化させない神崎には珍しい行動である。何となくそうした方がいいと感じ、島村ではなく多恵が質問を投げかけた。
「そんな人を、どうやって神崎さんはお知りになったんですか?」
違う空間にいたところから、不意に戻って来たみたいに、神崎は目の前にいる2人の顔を見比べた。
「……あぁ、僕が偶然見つけて……」
やはりそれっきり、次の言葉が出てこなかった。ゲネでのミスといい、こんな状態でリサイタルは大丈夫なのかと、島村が不安になるのも当然である。そんな夫の微妙な感情をつぶさに嗅ぎ取った多恵が、質問を続けた。
「あの木之内さんに、意見したんですか?」
「えぇ……。僕も一緒に叱られました……」
「そりゃ……」
さすがに島村も驚く。絶賛売出中の人気コレペティ、神崎を叱るとは、なかなかできることではない。多恵は、辛抱強く話を聞き出す。本番までには、なんとかいつもの状態に戻ってもらいたい。
「何ておっしゃったんですか?」
「咲奈は、僕等2人に、もう少し歩み寄って欲しいと……」
「ははっ、なるほどね」
島村は笑ってしまう。あれを聞けば、誰もが頭に浮かぶ言葉なのだが、2人のプライドを考えれば、直接口にするのは憚られる言葉である。
「……で、その咲奈さんと、何かあったんですね?」
ぼぅっとした視線で、問われたことだけに答えていた神崎の視線が、初めて多恵の目をしっかりと捉えた。
「……どうして、彼女の名前を知ってるんですか?」
「……」
これは重症だ。多恵、なんとかしてくれ。夫の無言の要請に、多恵は小さく目線で頷いた。
「今、神崎さんが名前を呼ばれたんですよ。咲奈と」
「あっ……」
急に意識が戻ったかのように、姿勢を正しながら神崎はあたふたと取り繕う。
「すみませんっ。大丈夫です。ちゃんと整理は付いています。演奏会には影響しませんので、ご安心ください。失礼しました」
「……。整理を付けなくちゃいけないようなことが、その咲奈さんとの間にあったんですね?」
神崎の目が泳いだ。気持ちを落ち着かせるかの様に、眉が何度か歪む。一度目を閉じたかと思ったら、藁をも掴む面持ちで、神崎が口を開いた。
「お2人は、どうやって出会われたんですか!?」
少し驚いた2人は、やはり顔を見合わせて、それでも呆れるでもなく真摯に対応してくれた。神崎は後から考えても、本番前に何てことを聞いたのだろうと、思わず詫びたくなる出来事である。だがこの時の神崎には、どうすることもできなかったのだ。どうやっても、気持ちに整理などは付けられずにいた。
多恵は一度席を立つと、自前のポットからコーヒーを入れてくれた。自分にも注ぎ、島村には常温のミネラルウォーターを渡す。カフェインは、喉に良くない。神崎の食べ掛けのサンドイッチを完食する様に勧め、席に着きながら静かに話し始めた。
「私達は演奏会で。主人の伴奏をしていたのが私の先輩だったんですが、先輩がどうしてもスケジュールが合わない時があって、私が代役をすることになったんですよ」
多恵はピアニストである。子供が生まれるまでは、ずっと島村の伴奏は、多恵が担っていた。しかし子育ての間はどうしても練習が疎かになると、今はその座を神崎に託している。いずれ子供が大きくなれば、また夫婦で演奏活動をすることを楽しみにしているらしい。
「そうそう。あの時、ダブルブッキングだったんだよな。いい加減な奴だ、あいつは!」
「ふふっ。お陰で出会えたんだから、いいじゃない」
[まぁ、確かに……]
宥められて、島村は再燃した昔の怒りを鎮めた。神崎は真剣に聞いている。
「彼女のピアノが、殊の外、良くてね……」
「ふふ。最初は、こんな小娘って顔してたわよねぇ」
「いや、だって、あの時君はまだ大学に入ったばかりで、伴奏なんて絶対無理だと……」
「う~ん、まぁそうねぇ。私も全く自信がなかった」
「ほらな~」
仲良く昔話をする2人を眺めつつ、神崎は先を聞きたくて催促してしまう。
「……それがどうして、結婚にまでなったんですか?」
「うん……。やっぱりね、音……だね」
島村は、最後のサンドイッチを頬張る。
「これから一生共にするなら、この音だなって……」
「奥さんも、同じ気持ちだったんですか?」
「ええっー!? 私は全然~」
笑いながら手をひらひらと振って否定する多恵に、神崎は少し驚く。そんなものなのか……。
「では、奥さんはどうして結婚しようと……」
「あ~、この人、しつこくて……」
「ひどいな……、一途な性格だと言ってくれ」
島村が苦笑いをする。
「私達、ひと回りも歳が違うから、何ていうか……。この人の言う通りにしてたら、知らない間にって、感じ?」
「おいおい、人聞きが悪いぞ」
「だって、ホントなんだもん。私が大学出た頃には、もうあなたは二期会で活躍してたから、別世界の人だと思ってたし……。結婚なんて、思っても見なかった」
「……別世界」
神崎は、聞き覚えのある言葉を言われ、あれはいつ咲奈恵に言われたのかと記憶を辿る。あぁ、僕の時は「雲の上」だった。
「で、その咲奈さんは、お幾つ?」
「……28です」
「わ~、1番楽しい頃ねぇ。懐かしいわぁ」
「……確かにな。君が一番モテてた頃だ……」
「えっ! モテてたって……、平気だったんですか? 自分の彼女が他の男にモテるのなんて、黙って見てたんですか!?」
「その頃はまだ、付き合ってなかったの、私達。ねっ」
多恵は島村に同意を求め、島崎は頷く代わりに微笑んだ。
「出会ったのは随分前なんだが、付き合い出したのは、多恵が29歳だったから」
「また……、どうして?」
「音楽活動の邪魔をしたくなかった……って、ところかな」
「ふふっ」
確かに音大を出てからの10年というのは、とても大切な時期だ。体力も好奇心も有り余っているし、何より技術を吸収するには最後のチャンスの期間と言っていい。その証拠に、ほとんどのコンクールは年齢制限が35歳なのだ。かの有名な「ショパン国際ピアノコンクール」などは、30歳がラストチャンスとされている。
「でも、あんまり男に囲まれてるから、やむを得ず奪取することにしました」
「そんなー。それこそ人聞きが悪いよ。私、遊び人みたいじゃない……。大体、誰とも付き合ってなかったんだから、奪取もなにもないです」
「ほら、その無防備さが危うかったの。君は誰にでもフレンドリーだったからな……」
「え~!」
小さく抵抗を示す多恵に、島村は空になったお弁当箱を渡す。それを片付けながら、多恵は神崎に好奇の目を戻した。
「フラれちゃったんですか? 咲奈さんに」
「お前はまた、はっきり聞きすぎだ」との表情を島村はしたが、そんなことにはお構いなしの多恵は、神崎の答えを真正面から待っている。きっと、ごまかしてもごまかされてくれないだろうなと、神崎は諦めた。こんな話を持ち出した、自分が悪い……。
「いえ、そういう訳では……。ただ、彼氏はいないと言っていたので、油断してたといいますか……」
「あら、他の人に攫われちゃったの?」
「いや、直接聞いたわけではないので……。ただ、その可能性が高いのかと……」
「やだ~。もう、キュンキュンしちゃう~」
「お前は、無責任に喜び過ぎだ。少しは神崎君の気持ちにもなってみろ」
と多恵は夫に窘められる。神崎は、名古屋で咲奈恵と別れて以来、何度も繰り返している溜息を、大きく1つ吐いた。もうこれ以上、この話は長引かせるべきではない。本番へのスイッチを、入れるべきだ。自分の楽屋に戻ろうと、席を立ちながら独り言のように、多恵の言った言葉が口を突いて出た。
「1番楽しい頃、ですか……」
島村はそんな神崎が少しでも楽になる様に、人生の先輩としてアドバイスすることにする。
「君の様に人気のある男性に、僕みたいな非モテ男が言うのも何だが、1つだけいいかな」
「……。何でしょう」
「本当に君が誰にも渡したくないと思っているのなら、君が最後の男になればいいんじゃないかな」
「最後の、男……?」
「そう。僕はそうやって、多恵をあきらめなかった」
「あらっ」
楽しそうに島村の顔を見上げた多恵も、「うんうん」と頷いている。神崎は繰り返す。
「最後の……」
ほんの一筋の光が差したかと思うと、あっという間に神崎の体を包み込む。あぁ、本当にそうだ……。
「島村さん、ありがとうございました。もう、大丈夫です。多恵さん、ごちそう様でした。本番、楽しみにしてます」
やっといつもの様子に戻った神崎を、島村夫婦はホッとしながら見送った。
「咲奈ちゃん、たこ焼き食べる?」
「わっ、おいしそう。どうしたんですか、これ」
ザ・シンフォニーホールの楽屋である。ゲネを終えた3人は休憩時間になっていた。
「今川さんに買ってきてもらった。僕からの差し入れ」
「木之内さんは?」
「今、ヘアメイク中。それに、祥子は食べない」
「え~、何でですか~。いっただっきまーす」
と言いながら、大きなたこ焼きを頬張ろうとする。
「ちょっ、ちょっと、待った!」
慌てて神崎は止める。咲奈恵の両手を押さえて、たこ焼きを一旦机に戻させた。
「何でですかぁ。食べたい……。うぅ…」
「すごく、熱いの。ヤケドするから……。全く、たこ焼きの食べ方も知らないのか、咲奈ちゃんは」
「むっ……。じゃ、どうすれば?」
ムスッと拗ねて、箸を持った神崎の手元を眺めている。
「綺麗じゃないけどね、最初に割っちゃうの。ヤケドしたら、歌えないでしょ」
全てのたこ焼きに、少し割れ目を入れている。確かに綺麗ではないが、確実にヤケドは避けられる。いや、大体、ヤケドする可能性のあるものを差し入れする方が悪い……。そんなツッコミを内心で入れながら、素直に神崎の作業が終わるのを待つ。
「はい、どうぞ」
箸に取ったたこ焼きを、神崎は咲奈恵の口元まで運んでくれた。「ほらっ」と言われ、咲奈恵はパクリと頬張る。うっ……、
「おいしい……」
ニコニコしながら、神崎も1つ頬張る。
「でしょ。大阪に来たら、必ずこれを食べるんだ。ここのは特別、美味しいの」
「こんな美味しいのに、どうして木之内さんは召し上がらないんですか?」
「初めて食べた時に、ヤケドしたから」
「ひゃ~、それはお気の毒……」
「怒られたよー、コテンパン。何ですぐにパクッて、いくかな?」
「えぇ! たこ焼きってそうやって食べません?」
「確かに、東京のは小さいからね。でも、これ、こんなに大きいんだから、見れば分かりそうなもんなのにな……」
「先生って、大阪の人?」
「いやいや、生まれも育ちも東京です」
「ですよねぇ……」
いかにも、「江戸」の人って感じがする。きっと先祖は、江戸城勤めの武士だったたに違いない。小さい時から標準語をしゃべる、賢そうな少年。「僕の夢は、将来ピアニストになることです」とか、言ってたっぽいなぁ~。
「では何故にそんなに、たこ焼きの食べ方が上手いのでしょうか?」
「……最初に食べた時、ヤケドしたから、僕も」
一瞬固まった咲奈恵は、その後ケラケラと遠慮なく笑う。そんな咲奈恵の口元に、もう1個たこ焼きを運ぶ神崎。その顔は、笑顔に包まれていた。
「よかった……」
咲奈恵の楽屋から、神崎と咲奈恵の楽しそうな笑い声が洩れてくるのを確認しつつ、マネージャーの今川は、ホッと胸を撫で下ろした。
名古屋公演の帰り、神崎の落ち込み様は尋常ではなかった。何があったのか分からず、木之内のヘアメイクさんにこっそり聞いてみた。それで事情は呑み込めたが、どう慰めるべきか見当が付かない。元々、咲奈恵は神崎が連れてきた。当然、そこには何某かの思惑があるとは感じていたが、とんだ伏兵の登場で、なすすべがなかった。
水曜日の島村のリサイタルも、随分気を揉んだのだが、他のアーティストに帯同したため様子を見に行くことはできなかった。そして今日、東京駅に現れた神崎は、以前と変わらない様子で、咲奈恵の隣に座るという。これ以上変にこじれても困ると思っていたのだが、ここに来てやっと、今川も一息つくことができた。
「取り敢えず、このままツアーの最後まで持ってくれよ」
祈る思いの今川だった。
「お疲れ様でしたー」「お疲れ様」
今日も無事、コンサートは終了した。前回の様に大きなミスもなく、咲奈恵はやっと緊張から解放される。
それにしても、大阪のお客さんって、面白い。反応が実に熱狂的なのだ。飛び交う「ブラボー」コールなどは、もう「やけくそか」と思うほどの勢いで、クラシックホールで叫ぶ範疇を、優に超えている。舞台上の演奏者をのせる方法を、良く分かっているのだろう。そしてその表現の仕方は、東京の様に澄ましたものではない。咲奈恵は初めての体験を十分に楽しんで、舞台を降りた。
ホワイエでお客様を見送って、神崎と咲奈恵は、まだサイン会をしている木之内より先に楽屋に戻る。神崎への花束がいくつもあり、それを楽屋に運ぶ手伝いもする。地元名古屋とは違い、咲奈恵に花をくれるお客様はいないため、咲奈恵の手は空いている。
「咲奈ちゃん、これ1つあげる」
神崎がいくつもある花束の中から、1つ選んで咲奈恵に手渡す。白いカトレアの1輪を中心に、周りにカラーやバラをギュッと緑でまとめてある。茎の部分はほとんど無く、男性が持ってもおかしくない様に、手の平サイズに仕上げてあるブーケだ。とてもセンスがいい。
「えっ、いいですよ。ファンの方に申し訳ないです」
「大丈夫。おなじみさんだから。さっき、話もしたし」
「でも……」
「部屋に飾り切れない。枯らすよりいいでしょ。持って帰って」
「ん~、じゃ、遠慮なくいただきます。これ、すごく素敵です。こんなブーケみたいな花束、あんまり見たことないです。きっと送り主の方も、素敵なんでしょうねぇ」
「帝塚山に住んでる方だから」
「テヅカヤマ?」
「東京で言えば、田園調布かな」
「わぁ、やっぱり! 先生、すごいなぁ」
「ははっ、僕が住んでる訳じゃないよ」
2人で笑いながら神崎の楽屋に到着し、花束や贈り物を下ろした。咲奈恵も着替えに戻ろうとして、ふと立ち止まる。
「そう言えば、先生」
「ん?」
「何か、ありましたか?」
「何かって?」
「今日の『Morgen!』、今までと少し違ったから……」
神崎の鼓動が、1つ大きく波を打つ。あぁ、やっぱり君は……、
「あれだと、歌いづらい?」
咲奈恵は、神崎が不思議なことを言うと思った。今までと違った場所は、曲の最後、あの口づけの1音だったからだ。
「……いいえ? もう歌は終わっているところなので……」
やっぱり君は、あの音を聞き分けるのか……。
「あれで、行こうと思ってる。嫌かな?」
「いいえ。嫌とか、そういうのではないんです。ただ……」
「ただ?」
神崎は、咲奈恵の瞳をしっかりと見つめた。
「ちょっぴり、寂しいかなって。てへっ」
照れ隠しの様に笑う咲奈恵に、神崎は胸を突かれる。
「咲奈ちゃん……」
いつも最後の音は、まるでそっと口づけをされているかのような音だったのだが、今日は違っていた。どう表現したらいいのか……。そう、優しく抱きしめられたような音だった……。音の前のほんの一瞬の休符の違いと、指を下ろすタイミングの違いなのだと思う。でも、咲奈恵にはそう感じた。口づけを待っていたので、ちょっと寂しかったのだ。
「あっ、何でもないならいいんです。私の勝手な思い込みなので」
いや、思い込みではない。あの音にしたのは、君の気持ちを今すぐ手に入れられないのなら、それを僕は待とうと思ったからだ。口づけより、もっと強く大きな気持ちを音に乗せた。それを君は、どう受け止めたんだ。
「前の音の方がいいなら……」
「いいえ、あれも素敵でしたから、どうぞ先生の思う表現でなさってください。また楽しみが増えちゃいました~」
そう笑って楽屋を出て行った咲奈恵を、神崎は身動きできずに見送った。
「島村さんって、すごいな……。こんな苦しいの、ずっと抱えたままだったのか……」
フラフラと、神崎も着替えに取り掛かった。




