ドイツから来たソプラノ
「freut mich, Takao Kanzaki.」(初めまして。神崎貴雄です)
「Erna Schulz」(エルナ・シュルツです)
シュルツが来日したのは、ドイツでも音楽シーズン真っ只中の、年が明けて2月中旬だった。日本は1番寒い季節で、ご本人の年齢もあり、体調は大丈夫かと気を揉んだのだが、案外本人はケロッとしており「ドイツより暖かいわね」と、皆をホッとさせた。
今年66歳になるシュルツは、まだまだその美しさに大きな衰えを感じさせない。ただ、さすがにオペラのタイトルロールを歌い切るだけの体力はなく、また、それを求められることもなくなったとのことで、こうやってコンサートを中心に演奏活動を続けているとのことだ。
実際、ドイツでコンサートを直接見た木之内は、やはり往年の頃の、テノールと遣り合うような強く輝かしい声は、もう無くなったと話していた。その代わり、今回の様に歌曲集を中心にしたコンサートでは、ドイツリートのお手本のような、見事に美しい声で歌っていたと語っていた。
挨拶もそこそこに、音合わせが始まった。
「まずは、シューベルトを」
「Gretchenam Spinnrade(糸を紡ぐグレートヒェン)」
シューベルト作曲の、ドイツ歌曲である。その詩はゲーテによる戯曲「ファウスト」の中の一節で、シューベルトの他に色々な作曲家が曲を付けている。
主人公ファウストと出会った町娘グレートヒェンは恋に落ち、2人は結ばれた。けれど彼は彼女の前から姿を消し、会えなくなってしまった。グレートヒェンはファウストを想い、壊れ始めている心で、「彼をこの手に抱き締めたい」と、糸車のリズムに乗せて歌う。
「もう私に安らぎは訪れない」
「彼の口元、目、私を握る手、そしてキス!」
神崎は目の前で歌っている女性が、とても66歳とは思えなかった。所々に、彼女独特の言葉のアクセントが入る。それを聴いて、神崎は何度も心臓が跳ねる。
そうか、この言葉でどうしてほんの一瞬「間」を空けるのか、この助詞を、他の言葉より強調するのか、ネイティブならではの細かい心の表現に、今までの思い込みが、引き剥がされる気さえしてくる。
「もう一度、最初からお願いできませんか」
「ええ、いいわ」
今度は、彼女の言わんとする言葉の表現を、確実に捉えて音を紡ぐ。それに応えるように、シュルツの歌が、また先程の表現からどんどん水を得た魚のように、自由になっていく。神崎はその変化に対応しようと、神経を張り詰める。
昇り詰めるように激情を迸られて続けられるその最後に、神崎は1つの「静寂」を見つける。それに気づいた時、思わず手が止まってしまった……。
「……」
シュルツは、伴奏を止めてしまった神崎の目を見つめて、ゆっくりと微笑んだ。
「どうしましたか?」
「この歌は、グレートヒェンの、この時の気持ちを描いたのだとばかり……」
「違いますか?」
「もしかして、先まで語ってしまうのですか……?」
「……すばらしい」
呆然とした気持ちで、弾き出すことができない神崎は、目を小さく泳がせる。
「一体、どう弾けばいいのか……」
「大丈夫です。そのことに気付いてくれたあなたは、十分に私の歌を支えてくれています。いずれ、すぐに見つけることができるでしょう」
神崎はシュルツの正式な伴奏者となった。もちろん、3ヶ所の公演全てに出演する。これから1ヶ月日本にいることになる。
「先生、シュルツどうだった?」
練習初日、咲奈は我慢しきれずに、夜電話を掛けた。出るまでに少し時間が掛かったので、切ろうかと思ったところで神崎が出た。
「もしもし……」
途端に、咲奈恵は電話したことを後悔した。声に億劫さが出ている。
「ごめんなさい。練習中でしたか……?」
「いや、いいよ。……今、何時?」
「えっと、もうすぐ10時半です」
「あぁ、もう、そんな……」
「いつから練習してたんですか?」
「4時頃帰ってきたから、それから……」
「えっ、ずっとですか? 6時間以上も……」
「シュルツの歌が耳から離れない……。どう弾いたら……」
まるで独り言のように、電話口で話している。咲奈恵は驚いた。神崎がこんなに迷っている姿は、出会ってから初めて見る。それにしても、6時間ぶっ通しは、あまりにもよくない。なんとか、休ませないと……。
「先生、まずはお風呂に入ってください。それから、15分だけでいいから、寝て」
「……うん」
本当に疲れていれば、15分で起きられるはずはない。そのまま、寝てくれるだろう。もし、それもできないほど、頭が覚醒してしまっているなら、もう何をしても寝ることはできない……。
「お風呂ですよ。入ってください。いいですね!」
「……分かった」
次の日、昼間に何度もLINEをした。ところが、返信どころか既読にすらならない。今川に確認すれば、今日は高校の特別授業があるとのことで、学校なら安心だと夜まで待った。
しかし、やはり返信は来ず、心配で会社帰りに家に寄ってみたのだが、まだ帰宅していないらしく、マンションに明かりは点いていなかった。咲奈恵は仕方なくそのまま家に帰った。
次に神崎と連絡が取れたのが、翌日だ。神崎から昼頃電話が掛かってきた。就業中に掛かってくることは珍しいため、何かあったのかと慌てて電話に出た。皆、出払った後で、社員が少ない時間で助かった。
「もしもし、先生? どうかしたの!?」
「咲奈! やっと分かったんだ! やっと繋がった! すごいよ、エルナは!」
それが第1声だった。咲奈恵は「えっ」という相槌すら打てない。
「まるでパズルだ。グレートヒェン、エルナの歌に寄り添うだけじゃダメなんだ。僕は運命の流れを、物語の最後までを提示しないと……。色々試して、やっと、繋がった。彼女は、すごいよ!」
「……」
スマホから、神崎の今まで聞いたこともない様な、興奮した声が聞こえていた。いつのまにか、シュルツをエルナと呼んでいる……。
「……良かったね、先生。次、シュルツとの練習は、いつ?」
「次の水曜日」
「グレートヒェン以外の曲は、大丈夫?」
「これからだよ。でも、糸口が見つかったんだ。次も、必ず見つける!」
「……うん。先生なら、きっと上手くいく……」
「あぁ、そうだね。きっと、上手くいく! 僕なら」
神崎の顔が、上気した頬が、実際に見えてもいないのに、咲奈恵には手に取るように分かった。先生、それではまるで……。
「あぁ、早く、会いたい……」
神崎の高鳴る鼓動まで聞こえてくるようだ。咲奈恵は、次に来る言葉が、何もしなくても分かった。
「エルナに!」
神崎は、エルナ・シュルツに、恋をした。
それからは、日に日に連絡が途絶えていった。思い切って、咲奈恵から連絡をしても、神崎の口から出るのはシュルツの事ばかり。練習以外の日でも、昼食に夕食に、スケジュールが空いている日は、神崎は必ずシュルツに会いに行っていた。どうしてそんなことが分かるのかと言えば、神崎のブログに逐一報告されるからだ。
ワイングラス片手に、2人がにこやかに写っている写真に、神崎の演奏会の楽屋に、シュルツが訪問している写真、シュルツを褒め称える文言に、最後は彼女に会えたことへの、神への感謝の言葉まで綴られている。
やめればいいものを、咲奈恵はまるで自らを痛めつけるかのように、それらの全てに目を通していた。きっと誰に止められても、それは止められなかっただろうと思う。今更後悔しても遅い。彼女との演奏を望んで、最後に背中を押したのは、紛れもなく自分なのだ。
芸術家の才能に魅了されてしまった人を、誰も止めることはできない。
シュルツのリサイタルの初日、それは東京公演から始まった。咲奈恵は最後まで迷って、それでも自分に鞭打って、演奏会場に足を運んだ。
渋谷駅で降り、オーチャードホールに向かう。少し歩いただけで、きっと演奏会に行くのだろうと思われる、ドレスアップした人達が目に留まるようになる。
会場は、2000余りある席が満席だった。このホールならば、誰もがオケをバックに歌うものだと考えるだろう。しかし、舞台にはスタインウェイのフルコンサートグランドピアノが1台、置かれているだけである。
本来ならば、もっと音響のいいサントリーホールくらいを用意したかったはずだが、なにせ急に実現したコンサートだったため、それは無理だったと推察する。この会場を押さえられただけでも、奇跡に近い。宣伝期間も短く、ポスター等もほとんど貼り出されていなかったにも関わらず、これだけ集客できるとは、さすがにシュルツと言わざるを得ない。神崎の重責は、言わずもがなである。
2人で舞台に登場した姿を見て、咲奈恵はもう息が詰まる思いだった。まさかこんな気持ちで、神崎を客席側から眺める日が来るなどとは、思ってもみなかった。シュルツは優雅にドレスの裾を捌き、ピアノの前に立つ。神崎と目を合わせて、曲は始まった。
「ファウスト」の物語は、かなり大雑把ではあるが、こうだ。
天上の世界において、誘惑の悪魔「メフィストフェレス」は、神に1つの掛けを持ち掛ける。
「人間は、あなたが与えた理性を、ろくなことに使ってやしない」
「人間にも、常に学ぼうと努力している者はいる。ファウストがそうだ。彼は今はまだ混沌の中にいるが、いずれは正しき道に導かれるだろう」
「では、その者を悪の道に引きずり込めるかどうか、掛けませんか」
「いいだろう。人間は、努力を続ける限り、迷うものである。本当に彼から魂を離し、捕まえることができたのなら、お前の道に引き入れるがよい。たがもしそれが敵わなかった時、お前は深く恥じ入るがよい。善い人間は、どんな悪しき衝動に突き動かされても、常に正しき道を見つけ出すのだと」
と掛けは成立する。悪魔メフィストはかくして、ファウストを誘惑すべく現世に現れるのである。
学問を究めた老博士のファウストは、様々な学問を習得したにもかかわらず、結局学問では何も分からないと嘆き、自殺しようとしていた。しかし復活祭の鐘の音を聞き、感動を覚え思いとどまる。
そこに悪魔メフィストが現れ、ある契約を持ち掛け誘惑する。
「あなたに、人生でのあらゆる快楽や悲哀を、知識としてではなく、体験させてやろう。そのために、自分はあなたに仕える。その代わり、死後はあなたの魂が私に服従するのだ」
死後の世界に関心がなかったファウストは二つ返事で承諾し、かくして「悪魔の契約」が結ばれるのである。
まず初めに、悪魔メフィストはファウストを20代の青年に若返えらせる。そして、あらゆる享楽を体験させるのである。最初に求めたのが、恋愛の情熱だ。悪魔メフィストは、最も美しい女性の幻影をファウストに見せる。その女性を追い求め街に出たファウストと出会ったのが、素朴で敬虔なクリスチャンの町娘グレートヒェンである。
ファウストは悪魔メフィストに手助けされ、ついにグレートヒェンを手に入れ、夜を共にする。しかし、グレートヒェンはその逢瀬のために、母を眠らせようと、間違って毒殺してしまい、更に反対する兄を、ファウストとの決闘により失ってしまう。その失意から、グレートヒェンは精神を病んでいってしまう。しかも彼女は身籠っていた。
ファウストはそのことを知らないまま、悪魔メフィストに誘われて魔女の祭典に出掛ける。しかしその間に赤ん坊が産まれ、1人ではどうすることもできなかったグレートヒェンは、子供を沼に沈めて殺してしまう。そのことで、キリスト教では罪とされた婚前交渉と、子殺しの罪で処刑されてしまうのである。
この曲は、いなくなってしまったファウストを想い、嘆き悲しむグレートヒェンの心情を歌にしてある。この曲に悦びの情景はない。ニ短調で、暗く怪しく、そして不安な心を根底に、ファウストのことを思い出している。
糸を紡ぐ糸車を回しながら呟かれるその言葉を、そのまま歌にしているので、恋する女性の、胸の高鳴りも不安も巧みに表現されており、歌手によって表情は全く違った歌になる曲だ。
伴奏も、糸車を表す反復リズムがずっと繰り返される。曲の最初から最後まで、16分音符が、ほとんど休むことなく続き、時に早く、時に遅くなり、グレートヒェンの気持ちや、悪魔の思惑を暗示するものとして表現されている。
まるでティーンの女性が歌っているかと思う様な声だった。それは、未熟で稚拙という意味ではない。若々しい情熱と、危うさと、狂気に満ちた声だ。とても66歳の女性の歌とは思えない。最初、神埼のピアノもそんな彼女と共に、若々しい苦しみに満ちた伴奏で始まった。
しかし、次第にそれが変化していく。それは、既に正気を失いかけているグレートヒェンの心の不均衡さであったり、悪魔メフィストの妖しい魔力の世界の掲示であったりする。
また、「あのキス!」とファウストとのことを思い出す場面では、興奮のあまり、グレートヒェンは糸車から一旦手を離してしまうのだが、止まった糸車がもう一度動き出す、そのたった1回転すらも苦しそうな、リズムの停滞だったりした。
そして、最後にグレートフェンが「あなたとのキスと共に、私も消えてしまいたい!」と何度も繰り返し高揚の頂点を迎え、最後は静かに糸車が止まるように、ピアノも消えていくのである。
ここで、神崎のピアノが暖かい音色に変わった。普通は、この後のグレートヒェンの運命を明示するかのように、暗く不安な音で終わりを迎えるのだが、なぜだか、今までの不安な気持ちはなくなり、暖かい愛に溢れた音に変わっていった。まるで、全てのものが救われるかのような終わり方……。
――僕は運命の流れを、物語の最後までを提示しないと……
神崎の言葉が蘇った。
「ファウストを救済するところまで、ピアノが表現してしまっている」
そのことに気づいた咲奈恵は、全身がブワッと泡立った。ゲーテが一生を掛けて創り出した、この壮大な物語の最後まで、この1曲で表してしまっている!
この物語の最後はこうだ。
ファウストが悪魔メフィストに惑わされる形で、契約の言葉「瞬間よ止まれ、汝はいかにも美しい」と口走ってしまう。そして、彼は絶命した。
悪魔メフィストは、契約通りその魂を奪おうとするが、天上から現れた天使たちの姿に惑わされ、奪い損ねてしまう。そしてファウストの魂は天使たちにより体から離され、天上に昇天していくのである。
神は「努力を続ける者は、救いを得ることができる」と、ファウストを救済した。そして既に救いを受けてファウストを見守っていたグレートヒェンの愛が注がれることにより、彼の魂は歓喜のうちに天上に迎え入れられるのである。
咲奈恵は、まるで自分の体が宙に浮いたかのような不均衡さを経験する。あまりに奥深い解釈に目が眩む思いだ。
「先生……、ここまで……、すごい……」
シュルツは人生のすべてを費やして、この表現に行き着いている。しかし神崎は、出会ってたった半月にも満たない。なのに、シュルツの世界観に重なっているのだ。重なって、きっと更に新しい表現に足を踏み出している。
それは、彼女が時々垣間見せる、小さな驚きと喜びを見てとれば、自ずと分かろうというものだ。これ程の結びつきがあるだろうか!
この気付きは、歓喜と凶器を同胞することになる。その音楽に興奮を覚え、2人に打ちのめされ、喜び、苦しむ。怒涛の様な1時間30分だった。
そして最後のアンコールは、あの「Morgen!」。2人のそれは、まるで現在のシュルツの年齢をそのまま表現したかのような、静かな愛に終始した。
長年添い続けた夫婦の様な愛だ。最後の音は、ただ静かに、2人は同じ方向を見つめている景色に思えた。すべてが削ぎ落とされた、熟成した「Morgen!」だった。
終演後、咲奈恵は神崎の楽屋に向かっていた。行ってどうするつもりなのか、自分でも分からない。でも、でも……、神崎に会いたかった。
――大丈夫、心配しないで。僕は、君のものだ
もしかしたら私を見て、神崎はあの言葉を思い出してくれるかもしれない……。この期に及んでもまだ、淡い期待を持っていたのだろう……。
多くのスタッフや、2人を祝福しに訪れた人々で、楽屋の廊下はごった返していた。そこはまるで、喜びに満ち溢れた光の世界……。中心に、シュルツと神崎がいた。皆に囲まれ、花束を手に、その横顔は光り輝いていた。その輪を遠巻きにしながら、咲奈恵は待った……。神崎が「咲奈!」と呼んでくれるのを、じっと待った。
すると、こちらの視線に気づいたかのように、神崎がふと顔を上げた。ゆっくりと首を回して、咲奈恵を見た……、と思う。いや、もしかすると視界に入っただけで、咲奈恵を認識したわけではないかもしれない。……どちらにしても、咲奈恵を探していたわけではなかったのだろう。何もなかったかのように、回した首を元に戻して静かに微笑むと、そのままシュルツに向かって足を踏み出してしまった。
「エルナ! 本当に素晴らしかった。もう一度、ハグさせて」
ドイツ語だから、本当にそう言ったかどうかは分からない。けれどその後の神崎の姿で、きっと間違ってなかったのだと思う。神崎は、ふわりとシュルツを抱き締めた。シュルツは喜びの笑顔のまま、その両腕を受け入れる。神崎の背中に回された彼女の両手は、まるで愛しい我が子にするかのように、ポンポンと柔らかく労わっていた。
咲奈恵は静かにその場を後にした。劇場を出て、冷たい風が頬に当たる。その頬には涙が流れ続け、行きかう人々に訝しげに振り向かれても、いつまでも止まることはなかった。