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夢の終焉

 神崎とシュルツの演奏会は、たちまち噂が広まった。大阪、岐阜と、どんどん空席は埋まっていき、最後の岐阜のサラマンカホールでは、あわや立ち見が出る寸前だった。

 岐阜公演は、元々シュルツを招聘した医院長が演奏会を開催していたので、チケット管理が不十分だったのだ。立ち見は、消防署からクレームが入り、劇場からも相当のお叱りを受ける。全席自由で、きっとここまで満席になるとは思わず、座席数の1割増しで発券してしまったのだと思われる。

 演奏自体も、東京からさらに回を重ねるごとに熟成されていき、通常1回聞けば納得する評論家達でさえ、3公演全てを聞いた者まで現れたらしい。どれも2人を絶賛する評ばかりで、シュルツが帰国した後も、しばらくクラシック界の話題を攫(さら)っていた。聴けなかった声楽家たちは悔しがり、神崎は押しも押されもせぬ、売れっ子伴奏者のトップに名を連ねた。


「そうじゃない! もっと、その音は引かないと、君の気持ちは表現できない。何度も言っている。一体君は、どうしたいんだ!」

「……すみません」

 若いソプラノは、もう2時間もの間、たった1ページにも満たない小節を延々と繰り返していた。

「違う! そうじゃない!」

 楽譜を右手の背で叩き、ソプラノを睨みつける。

「すみません……」

「もう、2時間だ。これで終わりだ。本当に君、ステージに乗る気があるの!?」

 部屋から出ていく時には、ソプラノは涙ぐんでいた。逃げるかのように練習室から出て行く。どいつも、こいつも、どうしてこんな簡単な音が歌えないんだ!

 神崎はイライラしながら席を立った。これでまた、この仕事もキャンセルになるかもしれない。かまわないさ。どうせあんな歌じゃ、大した演奏会になりゃしない。大勢の前で恥をかく前に、とっとと諦めて正解だ。

 神崎も練習場を後にした。


 シュルツが去ってから、神崎はずっと満たされていない。あの寸分も緩めることなく、常に新しく受け渡される音の数々……。それに応えた神崎のピアノに、更にどんどん輝きを増す歌声……。

 それがどれほど素晴らしい瞬間の連続だったか、誰にも分からないだろう。選ばれし者の身に与えられる、甘美な時間。でもそれは、今の神崎の周りには、ほんの一瞬として存在しなかった。

「ふーっ!」

 キラキラ光る街の明かりに目を細める。あの魔法の様な時間を、もう一度手にしたい。神崎の心には、今はそれしか存在していなかった。


「また、キャンセルですか……。神崎さん、どうしちゃったんでしょうねぇ」

 音楽事務所でスタッフの1人が、今川に溜息と共に話し掛ける。今月に入って、もう5件目だ。どの歌い手達も皆、その理由をはっきりさせずに、キャンセル料だけ払っていく。それにしたって少額ではないのだから、せめて伴奏者を替えて演奏会を開こうと提案しても、皆一様に中止を申し出る。神崎との練習は、相当のダメージを彼らに与えるらしいのだ。

 特に若い歌い手は、「私などが、神崎先生に伴奏してもらおうと思ったのが間違いでした」と、口を揃えて言い出す。今川は、一体どうしたものかと頭を抱えていた。

「この間少し練習を見学したんですが、すさまじい剣幕で相手を否定し続けるんですよ。あれじゃ、誰も付いていかない」

「そうか、そんなにか〜。前は、そんな風じゃなかったのにな。どんな新人でも、その人のベストを引き出して、丁寧に演奏してたのに」

「シュルツ、ですかね……」

「だな」

 2人は同時に大きな溜息を吐(つ)いた。神崎の周りにいた者は、誰もが分かっていた。


 神崎はシュルツが去った今も、彼女を求めて彷徨(さまよ)っている。


「これ以上続くようなら、ウチの信用にも係わるから、一度話をしてみるよ」

 今川は事務員にも指示を出す。

「新しいオファーは受けない様に。スケジュールが一杯だと……、いや、体調不良だと言っておいて」


 今川は神崎の学校の仕事を終えるのを待ち、車で事務所に連れて来た。学校帰りだというのに、きちんとした印象だった外見が、少し乱れているように見える。事務所の応接セットに、2人で落ち着いた。

「神崎さん、これで5人目です。どうしました?」

「申し訳ないが、できれば、もう少しきちんと歌える人とできませんか?」

「今回の彼女も、こちらとしては推してたんですが。イタリア帰りの、若手の注目株です」

「注目株? あれでですか?」

 今川は神崎の顔を改めて眺めた。スタッフの話からすると、もっと尖った状態なのかと思っていたが、どちらかというと、疲れていると言った方が正しいのではないか。

「神崎さん、ちゃんと寝てますか?」

「……」

「食事は、どうしてます?」

「……」

「神崎さん、少し休みますか……。ずっと忙しかったので、大変だったでしょう? 時には充電も必要だと思いますよ」

 はーっと、神崎は大きく溜息を吐(つ)いた。

「……何がいけないのでしょう? いい音を求めることは、罪なのですか? 事務所をクビになるほどの……」

「ちょっ……、クビだなんて、とんでもない。少し休んだらどうかと言っているだけです。ウチにとって、神崎さんは大事な人ですから、大切にしたいんです。ホントに大丈夫ですか? 神崎さん、しっかりして下さい」

「僕は、しっかりしています」

 そんな目で言われても……。

「一体……、本来の神崎さんは、どこ行っちゃったんですか!?」

「……!」

 それまでどこか焦点が合わない目をしていたのが、愕然の表情に変わった。それは次第に恐れの要素が混じり、最後はぐったりと肩を落とした。

「……分かりました。迷惑を掛けますが、よろしくお願いします」

 今川は神崎をマンションまで送った。エントランスに向かうその後ろ姿に、あまりに不安を覚えたため、咲奈恵にだけは状況説明をしておこうと、LINEのアイコンをタップした。


「真野さん、お久し振りです」

「お世話になります」

「神崎さんのことで、少しお話があるのですが、時間を頂けませんか?」

「申し訳ありません。今仕事が忙しくて……」

「そうですか。分かりました。では、また改めて」

「失礼します」

 今川は、咲奈恵のLINEに違和感を感じる。喧嘩でもしたのだろうか……。以前は彼女から、神崎のスケジュールや様子など、しつこい程聞かれていたのに、何の関心も示さないとはどうしたことか。……あっ。

「すみません。もしかして、神崎さんとずっと会ってないですか?」

 今川は、一旦終了したLINEの会話に、追伸を送った。既読になったまま、しばらく返信は来なかった。タバコ1本分くらいの時間が過ぎた後に、返事は来た。

「はい」

 そういうことか……。あれ程シュルツに執着していたのだ。咲奈恵に会う時間は、なかったに違いない。それは、彼女の納得するところだったのだろうか……。もし、そうでないなら……。

「実は、神崎さんに少し休んで頂くことになりまして」

 彼女は何と言ってくるか……。それが、全てだ。

「どうしたんですか? 神崎さん、お忙しいはずでは?」

 ふーっ、良かった。関心は、……まだあるらしい。彼女にまで完全に見捨てられては、神崎の「体調不良」はいつまでも回復しない。

「事務所として、少し休ませることにしました」

 突然、LINEのメッセージが電話マークになり、着信を知らせる。咲奈恵の声が慌てていた。

「もしもし、あの……、どこか、お悪いのでしょうか?」

「ええ……。オフレコでお願いできますか?」

「はい」

「少し気持ちが途切れてしまったようで。この際、充電してもらおうかと」

「……気持ちが……ですか」

「ええ」

 しばらく、電話の向こうは無言だった。やはり無理なのか、と今川が言葉を掛けようとしたところで、咲奈恵の方からしゃべり出した。

「先生は、お休みを取られて、ドイツに行かれるのですか……?」

 今度は今川が言葉を失う。やはり、彼女も分かっているのだ……。シュルツのことを。

「……いえ、それはまだ……」

「そうですか……」

「でも、本人も承諾されたので、ゆっくり休んでくれるものと思っています。日(・)本(・)で(・)」

 最後の言葉は、今川の願いでもあった。今回のことは、神崎の人生の大きな岐路だ。自分で決める他はない。どんなにもどかしくても、今は見守ることしかできない。

「真野さんに連絡があった時は、どうかよろしくお願いしますね」

「はい……。でも、もう、ないと思います。お力になれず……」

「いいえ。では」

 今川は、今日何度目かの溜息を吐(つ)いた。


 神崎は、ほとんど家から出なくなった。高校の授業に穴をあける訳にはいかないので、学校の仕事だけは休まずに通った。また、既に告知してある演奏会も、きちんとこなした。しかし、それ以外の、先の演奏会のための練習や、個人的に引き受けていたレッスンなどは、全て取り止めた。

 そして余った時間は、ずっと家のピアノを弾き続けていた。朝から晩まで……。


 ――本来の神崎さんは、どこ行っちゃったんですか!?


 まただ。また、この言葉……。前は、ドイツで言われた。今度は、何が違う? どこが間違ってた? 何が足りないんだ……。

「くそっ!」

 神崎は弾いていたピアノの鍵盤を、両手でガンッと叩いた。僕には新しいアイデアが、次から次に溢れてくるのに、肝心のエルナの歌がない! こう弾けば、一体彼女はどう応えるのか。知りたいことが山ほどあるのに、目の前に彼女はいないのだ。どうしたらいい! どうしたら……。

 神崎は、ハッと顔を上げ、その目を期待に輝かせた。

「バカだな、僕は……。会いに行けばいいんじゃないか。休みもできたんだし、どうして今まで気が付かなかったんだ」

 急いで今川に電話をする。事務所なら、彼女の連絡先は知っている。飛行機なら乗り継ぎを入れても、14時間は掛からない。たった、14時間だ……。僕はこんな簡単なことに、どうして気づかなかったのだろう。


「神崎さん、まさかドイツに行かれるつもりですか!?」

 今川が、電話の向こうで驚いている。

「ええ、せっかく休みを頂いたので、会いに行こうかと」

「……それは構いませんが、彼女は今、ツアーでドイツ国内を回ってるはずですよ。お忙しいと思いますが」

「じゃ、尚更僕が必要じゃないですか。すぐに行かないと……」

「いえ、あちらにはちゃんと、専属の伴奏者がいらっしゃいますよ。神崎さんが行ったところで、弾かせてもらえるとは思えません」

「それは、彼女に確認しなければ分からないじゃないですか? 僕を必要としているかもしれない。とにかく、僕は行きます。彼女の住所を教えてください」


 今川は、まさか本当に咲奈恵の言う通りになるとは、思ってもみなかった。飛行機嫌いの神崎が、それほど良い思い出があるとも思えないドイツに行くとは、さすがにないと思っていたのだ。

「神崎さん、今はわざわざ行かなくても、オンラインがあります。まずはそれで、連絡を取ってみてください。今行って、迷惑でないかどうか、そこは音楽家として必要最低限のルールです」

「それは……、確かにそうですね。……分かりました。連絡先を教えてください」

「それと、神崎さんに見てもらいたいものがあります。まずはそれを見てから、連絡を取るにしても、それからにして下さい。いいですね」

 何だろう……。

「分かりました」

「それとこれは、真野さんから教えてもらったものですから」

「咲奈から……?」

 久し振りに口にしたその名前に、神崎は胸のあたりがグッと苦しくなった。咲奈……。そういえば随分と会っていない。あれっ……、どうしてこんなに、会ってないんだ……。


 今川から届いたのは、ネットのアドレスだった。スマホでは読みづらいので、パソコンで検索し直す。そこには、シュルツのインタビュー記事がUPされていた。ドイツで毎月発行されている、音楽情報誌によるものだ。国内ツアーの宣伝を兼ねた、インタビュー記事の様だ。

「この度日本で、ドイツリートのコンサートを行われたそうですね」

「ええ。初めての日本でしたが、日本の皆さんには、とても暖かく迎えて頂きました」

「あの有名なドクター伊東にお会いになって、いかがでしたか?」

「とてもよく音楽を理解されている方で、正直驚きました。医学の勉強で、60年近く前にドイツに留学されていた時に、オペラを初めて見て虜になったとおっしゃってましたね。アマチュアのオーケストラを、5年ほど前まで振っていたとのことでした。83歳だそうですが、精力的な方でしたね」

「あと、その時の伴奏者は、日本のピアニストだったんですね。評判が良かったと聞いていますが」

「ええ、Takao Kanzakiですね。面白かったですよ。大変エネルギッシュな伴奏で、私も随分若返った気分でした。若い方はいいですね、反応が早い」

「今回のツアーで一緒に回られる予定なのは、Ria・Beck(リア・ベック)ですが、彼女はどうですか?」

「安心して任せられます。もう彼女とは30年以上の付き合いですから、何も言わなくても通じるものがありますので」

「安定しているということですね。確かに、聞いている者にとっても、予定通りの音楽は安心感があります。でも逆に、それでは足らないと感じることもあるのでは?」

「もちろん、それはそうです。常に新しい表現を、我々は追い求めていますから」

「そういう意味では、日本のKanzakiの伴奏は、刺激的だったと思うのですが」

「あら、お聴きになったのですか? LIVE録音はしましたが、CDの販売はされてないはずですが」

「ええ、実は今回のインタビューに際して、日本の友人になんとか調達してもらいました」

「それは、驚きました。私もまだ、聴いていません。じつはそのLIVE映像を、アーカイブ配信することが決まったんです。期間限定で、全曲ではないのですが、要望が大きかったようで」

「特にシューベルトが良かったですね。『グレートヒェン』ですが」

「ええ。歌っていて、とても興奮しました。3回公演があったのですが、全て違った演奏になりました。Takaoはその都度、私の歌に反応して、音楽が変わっていくんです。まるで即興音楽の様でした」

「そうですか。確かに聴いていて、ギリギリの緊張感があるというか、切迫感でこちらまでドキドキしてくるというか……。そういうことだったんですね」

「ええ。思い出に残る演奏会です」

「もし、また彼との共演がある様でしたら、今度は『生』で聴きたいものですが、ご予定などは?」

「そうですね……。きっと私があと30歳若ければ、実現できたかもしれませんが、これ以上は難しいでしょうね。彼とのセッションは、体力を使いますので」

「では、これからもRiaのピアノで、ということですか?」

「そうですね。彼女とのやり取りは、緊迫感こそありませんが、今の私には一番合っています。安定した中での音創りを、今回のツアーでは皆様に、お聴かせ出来るのではないかと思っています」

「楽しみにしております。本日はどうも、ありがとうございました」

「ありがとうござました」


 神崎がドイツに行くことは、なかった。

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