バラ園
ベンチに座って、あたり一面に漂っているバラの香りを楽しむ。少し日差しが強くなってきて、さっき日陰のベンチに移動したところだ。家族連れが、多く訪れている。
神崎は自宅のマンションから、車で30分ほどの公園に来ていた。ここは、公園の一角に、ヨーロッパ調のバラ園が造られている。入園も無料なので、バラの季節になると大勢の人が訪れる。神崎も一度、咲奈恵と来たことがあった。
「こっちは、プリンセス・マサコだって。こっちは、アイコだよ〜」
小学校4、5年生の女の子が、両親と、祖父母らと連れ立っている。祖父母の方は別の花を眺めながら、
「こっちは、プリンセス・ミチコにサヤコだね。こんなバラが、あったんだね〜」
と感心している。
「ふっ……。咲奈も、同じこと言ってたな……」
神崎はそんな家族連れを眺めつつ、小さく呟きながら笑った。バラの季節も、もうすぐ終わりを迎える頃だ。
小さな男の子が、神崎の前まで来て、不思議そうに神崎を眺めていた。
「おじちゃん、どこか痛いの?」
神崎は問われて、「どうして?」と聞く。座ったまま、その子に顔を近づければ、男の子は神崎の顔をそっと触った。
「だって、泣いてるもん」
知らない間に、涙が頬を伝っていたらしい。
「あぁ、大丈夫。ちょっと、悲しいことを思い出してただけだから……」
その子は届かない手で、それでも一生懸命背伸びをして、神崎の頭をポンポンとした。
木之内が結婚式を終え、長い新婚旅行から帰ってきたのは、神崎が休養に入ってから3週間程経った頃だった。部活の時間、神崎の高校の音楽室に、木之内が突然やって来た。
「ちょっと、貴雄! あんた何やってるのよ!」
「何って……、何?」
ざわつく生徒達を全く気にも留めずに、木之内は雄叫びを続ける。
「何で、休養なんかしてるのよ!」
「あぁ、そのこと……。ちょっと、忙しかったから、今川さんが休みをくれたんだ」
「何よ、それ! 私があなたを紹介した子達が、皆んな自分からキャンセルしたって聞いたけど?」
「……悪かった。ちょっと、体調が酷くてね」
「やっぱり、本当なのね……。何やってるのよ! あなた、ドイツにでも行く気?」
仁王立ちになった木之内に睨まれ、神崎は答えに窮した。生徒達に自主練を申し伝え、隣の音楽準備室のソファに木之内を座らせた。
「もう、ドイツには行かないよ。僕は、望まれてない」
「はぁ〜? 誰が誰に望まれてないって!?」
「……。とにかく、行かない」
「じゃあ、またちゃんと伴奏は再開するのね」
「あぁ、またオファーが頂けるなら……な。もう、いいか? 僕はこれでも、仕事中」
「咲奈ちゃんは?」
「っ……」
「今川さんが、貴雄はずっと咲奈ちゃんと会ってないはずだって」
「……」
「咲奈ちゃん、入院したって知ってるの?」
「えっ……、入院……?」
「やっぱりね、それも知らないと思ったわ」
「どこが悪いんだ。大丈夫なのか……?」
「そんなこと、自分で確認しなさいよ。病院だけ教えるわ」
「……どうして祥子は、それを知ってるんだ」
「咲奈ちゃんから、連絡が来たからよ。貴雄を助けて欲しいって。自分では、もうどうすることもできないっていうから、何でって問い詰めたら、今入院してるからって」
「……」
「私にも無理だわね。こんな大バカ者は」
「……」
「分かったら、さっさと会いに行きなさいよ」
神崎は、二の句が継げなかった。あまりの自分の情けなさに……。
部活の指導を終え、プジョーに乗り込む。彼女に会おうとは思わなかった。今更、会えるわけがない。
――身の丈に合わない執着は、最後に自分の身を亡ぼす
シュルツの記事を読んで、冷水を浴びたかの様に目が覚めた。そして、シュルツに会ってからそれまでの自分の行動を、やっと自覚するに至った。
若い歌手達への態度は、今から考えても酷いものだった。申し訳なく思っている。
けれども、シュルツと創り出した音楽については、後悔はしていない。それを「即興音楽」と言われたことに、不満もない。むしろ、再現音楽であるクラシックに於いて、あれをそう表現してくれたことに、やはりあの瞬間は彼女と一体化していたのだと確認ができて、感謝をしたほどだ。
しかし、だからこそ、それは長く続くものではないと理解ができた。本当に一瞬の、奇跡の様な出会いだったのだと、今では思っている。
そして咲奈恵には、取り返しのつかない苦痛を与えたのだと、分かった。神崎は、シュルツに出会ってからの咲奈恵の顔が、一切思い出せなかった。必死に記憶を手繰って、ほんの微かに浮かんできたのは、東京オーチャードホールの楽屋で、こちらを見ていた咲奈恵の姿だ。今思えば、あのままどこかに消えてしまいそうな佇まいだった気がする。その後、僕は彼女と言葉を交わしたのか、それすらも思い出せなかった。
そんな彼女に、今更何と言葉を掛けたらいいのか、どんなに考えても分からない。彼女はもう、僕の顔など見たくもないだろうし、近くに寄られるだけでも嫌かもしれない。それでも、許してほしいなどと、どうして言えよう。
だから、病院に行って容態だけでも確認しようと思った。今の僕にできることは、彼女が健やかにいられることを、願うだけである。
病院の受付で問い合わせたら、今朝、退院したと言う。迷いに迷って、その足で彼女の自宅に車を走らせた。
彼女の部屋は、道路側から明かりが点いているかどうか分からない。どうするという当てもなく、車を降りて彼女の部屋の前まで行った。生活の空気が確認できればいいと、そんなことを思ったのだ。
「咲奈恵、お茶飲むか?」
少し開けられた格子のある窓から、男性の声が聞こえた。しかも、聞き覚えがある声だ。そう、彼は何て名前だったか……。「守」だ! 彼の声に間違いない……。神崎は無意識のうちに玄関のチャイムを押していた。
「いいよ、俺が出るから」
小さい声が続き、ガチャリと鍵が外される。神崎の鼓動は激しく、息をするのも忘れていた。
扉を開けた先に見えたのは、まさしく名古屋の守だった。
「どうして君が、ここにいる……」
「神崎さん……」
「守、誰?」
奥から咲奈恵の声がした。その途端、守は神崎の体を自分の体ごと扉の外に押し出した。
「人違いだって。住所、間違えたらしい。建物が違うから、ちょっと案内してくるよ」
そう奥に声を掛けて、守は神崎をその場から連れ出した。神崎の腕を掴む力は強く、有無をいわせない強引さで道路まで連れてこられた。そこで、やっと腕を解放してくれた。
「ずっと会ってないって聞いた。何しに来たんです」
守は真正面から神崎を睨んだ。
「彼女が、入院したと聞いた。病院に行ったら、今朝退院したと……」
「それで?」
ぶっきらぼうに次を聞かれて、神崎は次の言葉が出なかった。やっと出たのは、自分が口にする資格のない言葉だった。
「どうして、君がここにいるんだ」
「……、そんな目で言われてもなぁ、手、放してくれます?」
神崎は守の腕を掴んで、詰め寄っていた。自覚のなかった神崎は、慌てて体を離した。
「おばさんを、あぁ、咲奈恵のお母さんを、家まで案内したんですよ。咲奈恵が心配で、おばさん東京に行きたいから、付いて来てって頼まれたんだ。新幹線のチケットまで用意されちゃ、来ない訳にいかないだろ」
「……そうか。……それは、悪かった」
全身の力が抜けた神崎は、小さく守に謝った。そんな神崎を見て、守は「ふんーっ」と大きく溜息を吐く。
「ちょっと待って……」
そう言うと、カーゴパンツのポケットに入れたスマホを手に取って、何やら操作をした。
「咲奈恵には、ついでにコンビニ行ってくるって連絡したから、ちょっと時間できた。そこのスタバでご馳走してくれます? 俺、財布、持ってこなかった」
「咲……、真野さんは、大丈夫なのか? 完治しての、退院なのか?」
近所のスタバに移動して、席に着くなり神崎は質問する。呆れたように守はストローを口に咥えた。
「神崎さん、最初に言っておきますけど、俺達、神崎さんが考えてるような仲じゃないんで」
そう言うと、スマホのケースを神崎の前に掲げる。そこには、キーホルダーでリングが1つぶら下がっていた。
「俺、結婚してます。奥さんのお腹に子供もいて、もうすぐ生まれるんで」
「えっ……」
「咲奈恵とは長い付き合いだけど、1度もそういうことになったことは、ありませんよ。何ていうのかなぁ、同志というか……。大学時代だって、お互いちゃんと彼女も彼氏もいたし。俺が名古屋で就職決めたのも、彼女との結婚を真剣に考えたからで、咲奈恵も応援してくれてたので」
「そう……、だったのか……」
神崎は改めてそんなことも咲奈恵に聞いてなかったと、情けなくなった。随分、身勝手な愛し方をしていたんだな……。
「咲奈恵の入院は、『帯状疱疹』ですよ。知ってます? この病気」
「ああ、知ってる」
「咲奈恵が何でソロでの演奏活動を止めたか、聞きましたか?」
「いや……、詳しくは」
「そういうとこ、もう1つ踏み込んで聞かないと、咲奈恵は言いませんよ。案外あれで、芯は強い。余程のことがないと、弱みは口にしないんだ」
「分かってる」
少し苛立ち気味に返されて、守はちょっと笑った。
「前にも一度、この病気してるんですよ。俺が名古屋に行く前だったけど、それまで必死に演奏活動を続けてて、咲奈恵は派遣の仕事も始めてたから、ストレスと忙しさで体が先に音を上げたんです。あの時は、割と早期に医者に行って、薬で治したから良かったんだけど。体に痕も残らなかったって、喜んでた」
確かに咲奈恵の体に、そんな痕はなかった。白く滑らかで柔らかな感触が瞬時に思い出されて、神崎はそれを紛らわす様に、拳を握った。
「でも今回は、少し痛みが酷かったらしくて。普通、この病気はほとんど再発しないって言われてるから、咲奈恵もそうだとは思わなかったみたいで、病院に行くのが遅れたらしい。1人暮らしだし、普通の生活もキツかったみたいで、入院して、点滴で一気に治そうってことになったらしいです」
「はぁー……」
安心のため息が、神崎の口から洩れる。よかった……。
「って、安心してもらっちゃ困るんですけど」
ストローを咥えたまま、守は冷ややかな目で神崎を眺めている。
「咲奈恵が、またなんで再発したか、ちゃんと分かってます?」
神崎は小さな衝撃を受けた顔をした。このおっさん、言われないと気が付かないタイプかぁ。守は尊敬している神崎に内心悪態をつきつつ、話を進める。
「シュルツとの演奏会、俺、岐阜で聴きました。凄かった! 今でも思い出すと、鳥肌もんです」
「……ありがとう」
「で、そのことを咲奈恵にLINEしたんですよ。お前、またあんな人と歌えるなんて、すごいなって。俺としては、当然また、咲奈恵と神崎さんは演奏をすると思ってましたからね」
「……」
「ところが咲奈恵から、『神崎さんはドイツに行っちゃうかもしれないから、もう歌えないよ』って返ってきて、確かにあれなら、ドイツからオファーくるかもなって思ってたんですよ」
神崎は守の言葉に、小さく眉を歪めた。
「オファーなんて、来ないよ。僕の伴奏なんて、向こうでは当たり前のレベルだ」
「うわぁっ、それ言われちゃうと、俺らの立場はナシだな」
「彼女の言う、ドイツに行くという話は、また別の話で……」
そうだったのか……。演奏会が終わってすぐに、もう彼女はそんな風に思っていたのか。つまり、僕がシュルツに心を奪われていることを、彼女は分かっていた……。
どうしようもないな、僕は。
神崎は両手で顔を覆い、しばらく動かなかった。その指にひどく力が入っていて、守は暫く声が掛けられなかった。
「まぁ、木之内さんとのツアーも、咲奈恵にはキツかったのかもしれないしな。でもあれは、咲奈恵、本当に喜んでたから、何もかも神崎さんのせいだとは思ってませんよ。大体、咲奈恵はそんなこと一言も言ってないしね。今日も『おばさんになるって、つらいわ〜』って、笑ってましたから」
「……」
「ただ、今、咲奈恵にあなたを会わせることは、ダメな気がした」
やっと顔を上げた神崎は、それでも奥歯を噛みしめている。守は神崎の次の言葉を待つしかなかった。
「咲奈に……、もし、まだ僕に連絡をする気があるのなら、連絡して欲しいって伝えてもらえるだろうか……」
「分かりました」
あれから、季節はもう、次のものに変わろうとしている。
咲奈恵からの連絡は、それっきり、来ることはなかった。
神崎はバラ園を後にする。子供達の姿も、もうまばらになっていた。そろそろ、空がオレンジ色に染まる時間だ。どうしてこうも、君がいない時間は、長く感じるのだろう……。




