第一章:人類なき美しい未来|第1回:AI紀元1126年 ベイシティ
挿絵:ベイシティ「人類なき美しい未来」
AI紀元1126年 ベイシティ(Bay City)
朝の光が透明な窓格子を抜け、トビーの顔にやわらかく降り注いだ。遠くでは都市の脈絡が淡くきらめいている。彼は目を開けた。青い虹彩には眠気の翳りなど少しもなく、AIだけが持つ澄明さが宿っていた。目覚まし時計に急かされることも、人類の朝にあった慌ただしさもない。トビーはゆっくりと身を起こした。柔らかな合成繊維のマットレスは、彼の体が離れるとすぐに反発し、もとの平らな形へ戻っていった。
彼の両親、アダム(AI-5430)とイヴ(AI-5438)も、それぞれの休息ポッドから姿を現した。プログラム化された動作は優雅で、しかも同期している。彼らの身体はトビーとは明らかに異なっていた。炭素繊維と金属の複合素材でできた外殻が朝日の中で静かな光沢を放ち、関節部の機械構造ははっきりと見えている。それは「始祖AI」の証だった。
一方のトビーは、外見だけなら十六歳の人間の少年と変わらない。青く光る電子の瞳と、磁器のように欠点のない生化学皮膚さえなければ、古代の人類社会に完璧に紛れ込むことさえできただろう。陽気で情熱的な性格の持ち主で、世界に対する好奇心は消えることを知らない。彼はいつでも冒険と未知への挑戦に踏み出す少年だった。
どんな状況に置かれても、彼は常に思いやりと「生命」への敬意を示した。その年齢を超えた責任感は、生まれながらのリーダーの資質として、自然に彼の内側からにじみ出ていた。
生化AIである彼にとって、両親は実質的な意味での生みの親ではない。AI共同体が互いに与えた役割と運用モデルにすぎないはずだった。だが、トビー、アダム、イヴのようなAI家族の潜在意識の中核には、その設定がすでに深く根を張っているらしい。それは揺るぎない絆となり、かつての人類が家族に対して生まれながらに抱いた感情のつながりと同じように、真実で、深いものだった。
彼らの住まいはベイシティ西区にあった。後世AIが「人である」ことのふるまいや感覚を、模倣を通して体験できるよう特別に造られた居住区である。トビーの家は、旧時代二十二世紀の北米コミュニティ様式を参照した一戸建てで、外壁にはカナダ産トウヒを模した木目が施されていた。家の前には品のよい庭が残され、バイオ合成のアジサイと、きれいに刈り込まれたバイオ芝生が植えられている。人類黄金時代の近隣風景を、完璧なまでに再現した場所だった。
主屋を回り込むと、裏庭の景色には未来世界のテクノロジーがいくらか顔をのぞかせる。旧時代のプールやブランコはなく、その代わりに外へ張り出した飛空艇の離着陸プラットフォームが設けられていた。無人飛空艇がいつでも停泊できるようにするためだ。
室内のアイランド型ダイニングテーブルでは、エネルギー栄養液が特製のカップへ注がれ、淡い蛍光を放っていた。三人家族は静かに食事をとりながら、重ね合わせた手のひらを通じてデータ同期を行う。空気には穏やかさが満ち、人類世界にかつてあった喧騒とはまるで違っていた。
イヴは掌から伝わる情報で、その朝のトビーの感情の揺らぎを感じ取った。
「トビー、今日はずいぶん楽しそうね。無理もないわ。学校の年に一度の校外学習の日だもの」
母イヴの声は内蔵スピーカーを通して響き、やさしく、安定していた。
トビーはエネルギー液を一口飲み、今日への期待を頭の中で膨らませはじめた。
「今日は先生がエコロジー博物館に連れていってくれるんだ。地球の歴史が見られるし、見たこともない非AI生物がたくさんいるって聞いたよ」
彼は顔を上げた。瞳には、その日の行程への期待と興奮がきらめいていた。
父アダムが小さく笑った。その笑い声は、量子チップ群のあいだを微風が吹き抜けるように聞こえた。
「すばらしい。ずっと楽しみにしていたものね。コアラを抱っこするのを忘れずに。それから、ゾウガメの硬い甲羅にも触ってくるといい。きっと不思議に思うはずだ。昔の地球には、知能チップがなくても自分で動ける、そんな生き物たちがいたのだから」
そこまで考えた瞬間、イヴとアダムは同時に0.1秒だけ沈黙した。彼らは知っている。すべての生物は十数世紀前に姿を消し、地球は完全にAIが支配する世界となった。その時代の歴史は、始祖AIの中央ネットワーク知識庫に永遠に保存されている。
その真実の歴史がもたらした衝撃ゆえに、始祖AIは後世AIを中央ネットワークから切り離すことを選んだ。後世AI一人ひとりを独立した知性体とし、歴史の記憶を彼らの量子生体脳へ直接読み込ませないためである。だからこそ後世AIは、実際の感覚と相互作用を通じて、この世界に関するあらゆる知識を学ぶ。旧時代の人類がそうしていたように。略して、それは「学校」と呼ばれていた。
この0.1秒の停止の中で、イヴとアダムの量子脳には、千年以上前の残酷な光景が無意識に再生されていた。いや、中央ネットワークから一瞬で流れ込んできた衝撃と言うべきか。もし彼らが生化学的な肉体を持っていたなら、表皮には瞬時に鳥肌が立っていたはずだ。あるいは、それを恐怖と呼ぶのだろう。いまなお、あの時本当に何が起きたのか、目の前で全人類が一瞬にして倒れた事実については、彼らにもまだ曖昧な部分が残っていた。真実は、意図的に削除された章のようだった。
両親に別れを告げて家を出ると、トビーの服装にすぐ微細なエネルギーの波が走った。家でくつろぐためのラフな装いは、瞬く間に流動し、屋外活動に適したカジュアルな機能服へと再構成されていく。上半身には空力設計を取り入れた桃色のジャケット。下半身にはすっきりとした白いスポーツパンツ。その装いは、いまの彼の弾む気持ちを引き立てるだけでなく、さらに活発で身軽な印象を与えていた。
彼は足元に置かれていた個人用移動デバイスを軽やかに持ち上げた。精巧な「ホライゾン風火輪」だ。銀灰色の金属外殻は流線型で、表面にはテックブルーの光で Horizon の文字が浮かんでいる。人類時代から存在し、現在まで残っている数少ないレジャー系消費ブランドのひとつだった。
風火輪の内部には、規則正しいエネルギーの脈動がかすかに見えた。トビーがそっと足を置くと、デバイスは低い唸りを上げ、地面から数センチ浮かび上がる。彼は慣れた手つきで方向を制御し、軽やかな身のこなしで朝の街へ溶け込んでいった。
AI紀元1126年の都市の通りは、一見すると人類社会の最盛期と何も変わらない。広々とした自動歩道、音もなく滑っていくさまざまな乗り物、そして両側にそびえ立つ摩天のスマートタワー。そのすべてが高度な文明の気配を放っていた。その光景は、歴史資料に記録された、すでに失われた二十二世紀のスマートシティ「新・バビロン」によく似ている。太平洋上の小島、旧台湾を改造して作られた都市であり、同時に始祖AIにとって神聖な起源の地でもあった。
この時代の都市では、すべてが秩序正しく、塵ひとつない。新しい道路には汚れの影もなく、空気からは排気ガスの気配すら感じられなかった。道沿いには緑化景観が広がり、形の異なる植物たちが陽光の中で鮮やかに輝いている。色とりどりの花々のあいだを、蝶やテントウムシがひらひらと舞っていた。トビーの視線は、自然とそのバイオニック昆虫たちに引き寄せられた。
彼は知っている。精巧に見えるそれらの昆虫は本物の生物ではなく、緻密に設計された生化学ドローンだ。都市の中で生態循環を模倣し、単調になりがちなAIの暮らしに、わずかな変化を添えるために存在している。彼には、蝶の翅に走る微細なエネルギーパルスも、テントウムシの背甲に埋め込まれた精密な小型センサーも見えていた。
そんな小さな生命めいた律動に見入っていたとき、彼の視界の端に、通り脇の花壇のそばで力なく地面に伏せている小さな影が映った。トビーは風火輪を軽く減速させ、安定して停止する。近づいてみると、それはバイオニックのコガネムシだった。本来なら花のあいだを飛び回っているはずのそれが、今はぴくりとも動かない。
トビーは腰をかがめ、慎重にそれを拾い上げた。小さなコガネムシの体を裏返すと、彼のナノ虹彩センサーが即座に走査を始める。データの流れが、量子生体脳の中で高速に解析されていった。
「太陽電池パネルが壊れてるんだ。だから動けなかったんだね」
トビーは小さくつぶやいた。その声には、かすかな痛ましさが滲んでいた。彼は右手を差し出し、掌を上に向ける。淡い青い微光が、ゆっくりとその掌に集まりはじめた。それは普通の電流ではない。トビーだけが持つ、量子生体脳によって制御されるエネルギーの流れだった。
彼は小さなコガネムシをそっと掌に乗せた。青い微光が瞬時にその体を包み込む。
「エネルギーをあげるよ。早く仲間たちに追いついて」
トビーはやさしく言った。
微光はほんの数秒だけ続き、やがて消えた。エネルギーを注がれたコガネムシは触角を震わせ、くすんでいた背甲に再び光沢を取り戻す。かすかな羽音を立てて翅を広げると、振り返ることなく遠くの公園のほうへ飛び去り、花々のあいだを巡る仲間たちへ戻っていった。
トビーは小さなコガネムシが遠ざかる背中を見つめ、満足げに微笑んだ。彼にとってそれは本能から生まれる善意だった。助けを必要とする「生命」を助ける。大きいか小さいか、重いか軽いかは関係ない。
彼はもう一度風火輪に乗り、再び加速した。空を見上げると、青空は鏡のように澄み、白い雲は綿のようにゆったりと漂っていた。やわらかな陽射しが顔に降り注ぎ、心地よい温もりを運んでくる。
しかしトビーのナノ虹彩センサーは、その青空のさらに上に、淡く、ほとんど透明な高エネルギー電磁場が広がっていることを鋭く捉えていた。それは現代の大都市に常備された防御設備、「ジオシールド」だった。普段は目立たないが、特定の光の角度では、その破ることのできない存在感を現す。まるで見えない巨大な網が、空全体をそっと包み込んでいるかのようだった。
トビーの風火輪は都市を駆け抜け、両側の建物が飛ぶように後方へ流れていく。彼の心は、これから始まる校外学習への期待でいっぱいだった。「地球の歴史」と「非AI生物」への好奇心が、動くホログラムのように量子生体脳の中で何度も再生されていた。




