第12話: 魔獣 その1
仲間の一人があっさりと殺された瞬間、召喚士たちの間に恐怖が広がった。さらに、軽やかな足音が近づくたびに、その恐怖は膨れ上がり、彼らの理性を奪っていく。
圧倒的な殺気に突き動かされるように、召喚士たちは生き残るための行動を取らざるを得なかった。目の前の少年は、兵士たちを無慈悲に、そして冷酷に葬り去った。その手口は、到底普通の魔術師のものとは思えない。
彼らは目の前に立つ存在が何者なのか、あるいは何の種族なのかをまったく推測できなかった。ただ、一つだけ確信できることがあった。
──それは、まさに**「悪魔」**という言葉そのものだった。
「おやおや、早く動かないと、もっと早く死んじゃうよ?」
ネロは嘲笑を浮かべながら、残る召喚士たちを指さした。
彼らは恐怖で顔に汗を滲ませながらも、震える手で杖を握りしめ、構えを取る。そして次の瞬間、地面に巨大な紫色の魔法陣が描かれた。
「そうだ、それでいい! さっさと召喚しろ! そいつを殺せ!」
背後から聞こえたサーデムの叫びには、召喚獣が少年を打ち倒してくれるという微かな期待が滲んでいた。
一斉に詠唱を始める召喚士たち。その様子を見ながらも、ネロは微動だにせず、ただ静かに観察を続けた。すぐに終わらせてしまっては、つまらない。
彼は魔法陣に刻まれたルーン文字を目で追い、即座にその意味を読み解く。召喚されるのが何なのか、理解するために。
ネロにとって、それらの文字を読むこと自体は容易だった。しかし、人間のルーン体系はかなり進化しており、一部には見慣れないものもある。さらに、召喚士たちは詠唱の時間を短縮するために、呪文の一部を独自に改変していた。
この技術は、かつてネクロマンサーたちが用いた**「隷属の契約」**とはまるで別物だった。どうやら、人間の魔術を見直す必要がありそうだ。
「面白いな」
ネロは思わず呟いた。人間が魔術を進化させているのは喜ばしいことだ。だが、最も重要なのは、その結果がどう出るか──。
彼はじっと、その瞬間を待ち構えた。
詠唱の声が重なり合い、魔法陣が次第に強く光を放つ。そして、集まった魔力が一つの形を成していった。
ネロは内心、抑えきれない高揚感を覚えた。長い眠りの後、再び中級魔術師たちの実力を目の当たりにできるのだ。
だが──。
魔法陣の光が収まり、召喚獣の姿が現れると、ネロの手が思わず止まった。彼は空間ポーチから武器を取り出そうとしていたが、その動作を中断する。
目の前に現れた存在に、彼の期待は一瞬で崩れ去った。
「……は?」
思わず声が漏れる。
召喚されたのは、強大な魔獣でもなければ、ゴーレムのような圧倒的な存在でもなかった。
そこにいたのは──。
灰色の毛並みを持ち、紫色の瞳をした15匹の狼の群れ。ちょうど召喚士たちの人数と同じ数だった。
一般人にとっては脅威になり得るかもしれない。だが、ネロの目には──。
「……ただの狼?」
期待外れもいいところだった。あまりの落差に、思わずため息をつきそうになる。
これが中級魔術師たちの召喚魔法の結果なのか?
ただの狩猟動物を召喚するために、ここまでの魔力を費やしたとでも?
あまりの滑稽さに、笑いがこみ上げてきそうだった。
召喚士たちは満足げな表情を浮かべていた。まるで自分たちの魔法が傑作であるかのように。
しかし、彼らは知らなかった。
ついさっき使った魔法が、召喚術の中でも最低レベルの魔法であることを。
「……くそっ、俺はお前たちを過大評価しすぎていたみたいだな」
ネロは呆れたように額に手を当てた。
「……興味が失せてきたな」
「狼をバカにするなよ! こいつらはお前が思ってるほど弱くねぇ!」
ある召喚士が得意げに叫び、鋭い声で号令をかけた。
「先手必勝だ! 行け!」
狼たちは命令に従い、一斉にネロへと襲いかかった。
ネロは目を細めると、右手をポケットに入れ、小さな白銀の短剣を取り出した。かつて幽霊の森でガーゴイルを仕留めた時と同じ武器だ。
ガウッ!
最初に飛びかかってきた狼の牙が、ネロの喉元に迫る。しかし、ネロはあっさりと回避すると、反転しながら左脚を振り上げ、狼の首元へ強烈な蹴りを叩き込んだ。
狼の体が宙を舞い、家の壁へと激突する。
ドンッ!
次の瞬間、二匹の狼が同時に襲いかかる。ネロは左手にも短剣を呼び出し、逆手で構えたかと思うと――
一瞬のうちに、二匹の喉を正確に貫いた。
刃は骨を突き破り、頭蓋まで達する。
ネロは無造作に死骸を払いのけると、次の敵へと視線を向けた。
狼の群れはまだ襲いかかってくる。今度は六匹。
ネロはそれに見合った返答を用意することにした。
短剣を振ると、二匹の狼が一瞬で真っ二つになる。
次の瞬間、新たな武器を取り出した。
黄金に輝く、三叉の槍。
槍を軽く回し、勢いをつけて投擲する。
シュンッ!
槍は六匹の狼を一直線に貫き、そのまま後方の召喚士へと突き進む。
不運な二人の召喚士が槍に貫かれ、壁に突き刺さった。
鮮血が飛び散る。
「……っ!!」
召喚士たちは、顔面蒼白となり、絶望に飲み込まれた。
「不滅の山狼……Aランク冒険者すら恐れる召喚獣が……」
「たった二分で全滅だと……? こいつは……悪魔……」
恐怖に震える声が呟いた。
もう彼らにできることは――
逃げることだけだった。
「お前たちは、本当に失望させてくれるな」
ネロは淡々と言い放ったが、その瞳には嘲笑の色が浮かんでいた。
「中級魔導士だと言うのに、そこそこのマナを持っていながら、召喚できるのはこの程度の狼だけか?」
喉の奥でくぐもった笑い声を漏らし、さらに蔑むような口調で続けた。
「哀れだな! 学生時代、お前たちは無能で、授業をサボるか、ぼんやりしてばかりだったんだろうな。そのせいで、ろくに魔法も使えないまま大人になったってわけか」
ネロは呆れたように首を振ると、不敵な笑みを浮かべ、一歩前へと進み出た。
「いいだろう……せめて、死ぬ前に本物の召喚魔法ってやつを見せてやるよ」
少年が左手を上げながら、静かに呪文を唱え始めた。すると次の瞬間、村の中央に巨大な紫色の魔法陣が浮かび上がる。 その大きさは、先ほどまでの召喚士たちが展開した魔法陣の五倍にも及んでいた。
詠唱が進むにつれ、黒雲が空を覆い始める。陽の光は消え去り、あたり一面がまるで深夜のように薄暗くなる。どこからともなく冷たい風が吹き荒れ、村を包んでいた炎は、一瞬にしてすべて掻き消された。
まるで大地そのものが息を潜めたかのような静寂と圧迫感。 その異様な雰囲気に、召喚士たちは次第に焦燥し始める。中には無意識に震えだす者さえいた。
この異変にいち早く危機感を覚えたセルドムは、少女の口を塞ぎながら、そっとその場を離れようとする。
地面が揺れ始め、古びた家々が崩れ落ちていく。 天からは轟音とともに雷が落ち、閃光が闇を切り裂いた。その一瞬の光に照らされたネロの瞳は、妖しく燃える紅蓮の輝きを放っていた。
「現れよ……我が忠実なる獣よ」
その声は、まるで死の宣告のように冷たい。
「タイフォンとエキドナの末裔、神々に呪われし怪物……ヒュドラ!」
その言葉を最後に、巨大な魔法陣が震え始めた。 突如として地面を裂くように何かが姿を現す。それは、巨躯の魔獣の頭部だった。 全身が現れたわけではないにもかかわらず、その首だけで二十メートル以上の長さがあった。
それは、悪夢から抜け出してきたかのような異形。 巨大な蛇を思わせる頭部に、紅く妖しく輝く眼光。闇よりも黒い鱗に覆われたその身体。膜状の耳は大きく広がり、威圧的な存在感を放っていた。
何よりも恐ろしいのは、その口だ。 巨大な象すら一呑みにできるほどの大口には、鋭利な牙が幾重にも並び、そこから粘ついた唾液が滴り落ちる。鼻を突く生臭い臭いが、周囲に漂った。
この圧倒的な光景を目にした召喚士たちは、恐怖のあまり膝から崩れ落ちる。 目を見開いたまま硬直する者、杖を持つ手を震わせる者、中には恐怖のあまり失禁してしまう者までいた。
だが、ある意味では幸運だったのかもしれない。ネロのマナが十分でなかったため、ヒュドラの首は一つしか召喚されておらず、完全体ではなかったのだから。
だが、それでも――
「たった一つの首だけで三十メートルの大きさだと?」
しかも、これはヒュドラの中でも最も小さな首なのだ。
ネロは怯えきった召喚士たちを見下ろし、軽く鼻で笑った。
「……気が変わった」
彼は淡々と言いながら、顎に手を当てて考える素振りを見せる。
「最初は、お前たちの力を取り込もうと思ったが……どうやら無駄な手間になりそうだ」
そう呟くと、彼はヒュドラの方へと視線を向けた。 巨獣の瞳が、主の言葉を待つように揺らめく。
「だから――ヒュドラよ」
巨蛇がゆっくりと首を持ち上げ、彼の命を待つかのように低く頭を下げた。
「食事の時間だ。こいつらを、何一つ残さず喰らい尽くせ」
ネロの命令が下された瞬間、ヒュドラは獰猛に口を開く。 何重にも連なった牙の隙間から、粘り気のある唾液が滴り落ちた。その眼は、目の前の獲物を狩る準備が整ったことを告げている。
そして次の瞬間――
召喚士たちの最後の悲鳴が響き渡った。
だが、その声はすぐに闇に呑まれ、すべてが静寂へと帰していった。




