第13話 : 魔獣 その2
村外れのなだらかな道を駆け抜けながら、セルドムは血塗れの惨劇から逃げていた。彼はこの未知なる魔術師の存在を他の部隊に報告するつもりだった。しかし、その背後から獣の咆哮が響き渡る——
!!!
耳をつんざくほどの轟音が、彼の鼓膜を直撃した。すでに数百メートルは離れたはずなのに、その声はなおも鮮明に聞こえる。反射的に振り返ると、そこには戦慄すべき光景が広がっていた。
巨大な蛇が暴れ狂い、村を破壊し尽くしていたのだ。召喚士や生き残った兵士たちは、容赦なくその顎に飲み込まれていく。
もはや、この村は再建不可能だった。ただその巨体が動くだけで、周囲の全てが崩れ去っていくのだから——
「今すぐ私を解放しなさい!この野蛮人!」
「恥知らず!外道め!」
馬の背で手足を縛られたマリは、もがきながら激しく罵声を浴びせ続けた。その声は、既に動揺していたセルドムの神経をさらに逆撫でした。
「うるさいぞ、小娘!黙らねぇと舌を引っこ抜くぞ!」
彼は怒鳴りながら、少女の髪を乱暴に引っ張った。
「きゃああああっ!」
だが、ちょうど村の境界を越えようとしたその時——青白い光が突然、彼の進路を遮った。セルドムは慌てて手綱を引き、馬を急停止させる。
「なんだ、あれは……?」
彼は眉をひそめ、呆然と呟いた。
「その子を今すぐ解放しなさい!」
青白い光の中から、女性の声が響いた。その声は強い意志を宿していた。
「……喋れるのか?」セルドムは驚いた表情を浮かべたが、すぐに理解したように口元を歪めた。「なるほど……あの娘の『従者霊』ってわけか?」
驚きこそしたものの、召喚獣や霊に関する知識がある彼には、この存在が『従者霊』であると即座に察しがついた。もしもただの浮遊霊ならば、ここまで明瞭に姿を捉えることはできないはずだ。
「で?もし俺が『ノー』って言ったらどうするつもりだ?所詮、ただの死霊だろう?」
彼は嘲笑し、鼻で笑った。彼の知る限り、従者霊はほとんどが非力であり、危険性は低い。
「最後の忠告だ……その子を……今すぐ……解放しろ!」
「お断りだね!この娘は俺の“商品”だ。タダで手放すわけがねぇだろ……じゃあな!」
警告を完全に無視し、セルドムは馬を蹴ってその場を立ち去ろうとした。
青白い光は、遠ざかる少女を見つめていた。
——その瞬間、彼女の記憶に過去の光景が蘇る。
かつての彼女自身が、暗い牢獄に鎖で繋がれ、苛烈な拷問を受けていたことを——
背中を打ち据える鞭。切り落とされる指と舌。命が途絶える寸前まで殴り続けられる日々。
その果てに待つものは、決して癒えることのない苦痛。奴隷として囚われることが、どれほど地獄なのか——彼女は、誰よりも知っていた。
だからこそ——この少女に同じ運命を辿らせるわけにはいかない。
「……私は、彼女を救う!」
決意の声と共に、彼女の霊体が揺らぎ始める。それは、彼女が自身の魔力を解放しようとしている証だった。
次の瞬間、緑色の魔法陣が地面に浮かび上がり、エルフの古代文字が淡く輝く。
「我が身に宿る力よ……空を翔ける精霊の加護を解き放て——風の神箭!」
呪文を唱えながら、彼女の瞳が決意に満ちた光を放つ。そして、最後の一言を囁く。
「……これで罪の償いになるかしら、父さん」
言葉が終わると同時に、光の矢が音速を超える勢いで放たれた。翠緑の輝きをまとい、風を切り裂きながら標的へと一直線に向かう——
セルドムは、すでにこの場を逃れたつもりでいた。
だが、その耳に“何か”が猛スピードで迫る音が飛び込んできた。
「クソッ——!!」
振り向いた彼の瞳が、絶望に染まる。
次の瞬間——彼の叫びが野原に響き渡り、緑の閃光が全てを呑み込んだ。
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その頃、村の内部では——
状況は最悪の極みに達していた。
巨大なヒュドラが暴れ回り、次々と家々を踏み潰していく。その破壊の猛威から逃れるため、生き残った村人たちは必死に走っていた。
だが、果たしてこの絶望から逃げ切ることができるのか——誰にも分からなかった。
カオスの真っただ中、ある家族――父母と子供三人――が手を取り合いながら、混乱をかいくぐって逃げようとしていた。だが――。
ドゴォンッ!
突如、近くの家の壁が轟音とともに崩れ落ち、彼らの目の前をふさぐ!
父親は本能的に反応し、妻と子供たちをしっかりと抱き寄せる。自らの細い体で彼らを守ろうとした、まさにその瞬間――。
パァンッ!
透明な結界が彼らの周囲に展開される。家の瓦礫が無慈悲に降り注いだものの、その障壁がすべてを受け止め、一切の被害を与えなかった。
「おい、モブども!」
響き渡る少年の声。やや離れた場所で立つネロが、苛立ったように叫ぶ。
「死にたくなかったら、さっさと結界の中に入れ! あの化け物はお前らを襲ったりしねぇから!」
しかし、この極限の状況で冷静な判断ができる者は少ない。
逃げ惑う村人たちは、彼の言葉など耳に入っていなかった。
ネロは深くため息をつくと、再び手をかざし、宙に円を描くように振るう。
すると――。
巨大な結界が広がり、村人たちをすべてその内部に閉じ込めた。
「な、なんだこれは!?」
「出られないぞ!」
混乱した村人たちは、目の前の障壁を必死に叩いた。だが、何一つ破ることはできない。
もちろん、ネロは彼らを守るためにやったのだ。
なぜなら――。
どれだけ必死に逃げたところで、普通の人間がハイドラの猛威から逃げ切れるわけがなかったのだから。
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「グアアアアアアアアア!!」
最後の召喚士が絶叫した。
その体はすでにハイドラの顎の中。肩から上だけが辛うじて外に残っていたが――。
バキッ!!
鋭利な牙が下半身を無慈悲に噛み砕いた。内臓と血が噴き出し、口から赤い液体を垂れ流す。
絶え間なく震える身体。
絶叫し続ける声。
だが、それもすぐに途絶えた――。
彼の全身は、そのままハイドラの喉奥へと飲み込まれていった。
かくして、虐殺は終わりを告げた。
全てが静まり返るとともに、村人を囲っていた結界がゆっくりと消えていく。自由を得た彼らが恐る恐る周囲を見渡すと、暴れ狂っていたハイドラの姿はすでになかった。
まるで、初めから存在しなかったかのように。
「さて、これでお前らは助かったわけだ」
ネロはそう言って微笑んだ。
だが――。
村人たちは、誰一人として感謝の言葉を口にすることなく、沈黙を貫いた。
誰もが、彼を見ようともしなかった。
まるで、恐怖の対象を見るかのように。
「……人間は、己の理解できぬものを恐れるものだ」
ネロは小さく呟いた。
彼らの怯えた表情を見れば、先ほどの自身の行動が彼らにどう映ったかなど、考えるまでもない。
――どうやら、もっとはっきりと意図を示す必要がありそうだ。
「お前たちが怖がっているのは分かる……だが、心配するな。もし本気で殺すつもりだったなら、ハイドラに食われるままにしておいたさ。」
ネロは率直に言い放った。しかし、それでも誰一人として返事をする者はいなかった。彼は、自分が完全に嫌われたのだろうかと考え始めた——だがその時、三人の人影が群衆から歩み出て、彼のもとへ向かってきた。
視線を向けると、それは先ほど彼が助けた家族だった。
「偉大なる魔術師様……本当に、本当にありがとうございました。命を救ってくださって……」
父親が最初に口を開き、それに続いて母親と娘も頭を下げた。
すると、それをきっかけに、他の村人たちも次々と彼のもとへ押し寄せ、口々に感謝の言葉を述べ始めた。
ネロは微笑んだ——だが、それは助けたことへの喜びではなく、今、この場に「使える道具」が増えたという満足感からだった。
その時、村の奥から切羽詰まった声が響いた。
「マリ!マリ!どこにいるの!?」
ネロは声のする方へ目を向けた。そこには、一人の女性が不安に満ちた顔で立っていた。どうやら、行方不明の少女の母親らしい。
「その子は、君の娘か?」
ネロは単刀直入に尋ねた。女性は、彼を見つめた後、力強く頷いた。
「心配するな。もう助けておいた。」
そう言うと、彼は指をパチンと鳴らした。
すると次の瞬間、少女の姿が母親の目の前に現れた。
「……お母さん?」
「マリ!」
女性は娘を力強く抱きしめ、安堵の涙を流した。
ネロは顔を上げ、屋根の上を見やった。そこには、ぼんやりとした青い光がひっそりと佇んでいた。
「……よくやった、エミレスト。さすがだな。」
彼は心の中で呟いた。青い光——その正体である影の女は、一度ゆっくりと瞬きをした後、静かに姿を消した。
ネロは再び村人たちに視線を向け、今度は低く鋭い声で言い放った。
「さて、本題に入ろうか……その前に、この村の長は誰だ?」
すると、一人の男が群衆から歩み出て、手を挙げた。
「俺だ!」
「なるほど……」
ネロは頷くと、迷いなく男の方へと歩み寄った。
「少し話がしたい。」
男——村長は頷くと、周囲の者たちに下がるよう指示を出した。そして、人払いが済んだことを確認すると、先に口を開いた。
「……何が望みだ?魔術師殿……いや、いや、あなたが何者であろうと、私は話を聞く用意がある。」
ネロは小さく笑った。
「……なかなか賢いな。すぐに察するとは。」
「俺の名はデニス。そう呼んでくれ。」
「いいだろう、デニス。じゃあ、単刀直入に言おう。俺がこの村を救ったからといって、タダで助けたわけじゃない。」
デニスの目がわずかに警戒の色を帯びた。
「……まさか、あなたはリベイアやノアの国の魔術師ではないのか?」
「俺は魔術師じゃないと言ったはずだ。」
「なら、あなたは何者なんだ?」
ネロは一瞬黙り込んだ後、口元に笑みを浮かべた。
「それは秘密だ。」
「……そうか、失礼した。」
「さて、本題に戻ろう。」
デニスは厳しい表情で頷き、問うた。
「それで……俺たちに何を求める?」
「……この村には、もう何も残っていないぞ。」
彼の声は強かったが、その額に滲んだ汗が、内心の動揺を物語っていた。
ネロは薄く笑うと、冷たく静かな声で告げた。
「取引をしよう——お前には拒否権はないがな。」
デニスは強く唇を噛み締め、彼の言葉を待った。
「俺がこの村を元の姿に戻してやる……その代わり、この村は——ネロ・クラウド・ルシファルの支配下に入る。」
「もし拒めば……ここにいる者を全員、殺す。」
その瞬間、彼の紅い瞳がギラリと光った。まるで、獲物を喰らい尽くす直前の獣のように——。
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南方の深い森
白銀の馬が静かに足を止めると、赤い鎧に身を包んだ男が地面に降り立った。
勇者レインは慎重に足を進め、辺りを見渡す。
彼の肌には、ただならぬ気配が漂っていた。
仮面越しに視線を下ろすと、地面には薄く氷の結晶が張り付いていた。他の場所には見られない、異質な寒気の痕跡——。
彼は顔を上げ、前方に伸びる不自然な亀裂を目にした。何かの攻撃によって生まれた痕跡だ。
レインは静かに地面に手を触れた。
そして、そこに残る魔力を感じ取る。
炎と……氷。
「他の誰でもありえない……」
彼はそう呟いた。
脳裏で情報を整理しながら、指を鳴らし、馬を呼び寄せる。
「まだ遠くへは行っていないはずだ……」
彼は鋭い視線で前方を見据え、低く言い放った。
「……どうやら、あいつはリベイア王国を目指しているようだな。」




