第五十二話「正体」(3)
当時、ソル太陽系第四惑星マーズにいた優秀な技術者が、死亡した妻の代わりに、精巧なアンドロイド“エミリア”を作成した。当時より、人間と区別できないロボットは造ってはならない、という規定が各国に存在していたが、エミリアはまさに、その規定に引っかかるほど精巧に造られていた。しかしながら、エミリアが住居から出るようなことはなく、夫である技術者を除いて、誰一人に対しても存在を知られずに、十数年を過ごすこととなったのである。
しかし、技術者が事故で突然死を遂げて、エミリアは窮地に立たされることになった。それまで技術者が入手していた、特殊なエネルギーの供給が途絶えてしまったのである。一部の企業や研究所しか入手できない、そのエネルギーを求めて、エミリアは行動を開始した。
技術者の勤めていた会社のコンピュータにハッキングし、エネルギーの出所を探った。出所は見つかったけれど、会社のハッカー・トラップに引っかかり、エミリアの存在が逆に発覚することになってしまった。
もともと違法のロボットである。見つかれば、処分される。
エミリアは強行手段にでた。
マーズの軍事基地にアクセスして、広域破壊兵器の起動システムを、その手中に収めたのである。天才技術者が、力のすべてをかけて作成し、育てたアンドロイドである。その能力は、並みのハッカーを軽く凌駕していた。エミリアが引っかかった会社のトラップは、皮肉なことに、その技術者が作成したものであった。
マーズに居住する人類を人質にとったエミリアは、エネルギーの入手に成功した。しかしその後も、破壊兵器を手放しはしなかった。
エミリアの永続的自己保存のために、軍事力は、もはや手放すことのできないものとなっていた。エミリアは、次々と政府や企業にハッキングをかけ、これらのシステムを取り込み、巨大な防衛システムを構築するに至った。
最終的には、軍の特殊部隊がエミリアの居所を急襲し、これを破壊した。しかし、そこに至るまでの約三週間、マーズ社会は機能を停止し、一連の混乱は、ソル太陽系の経済基盤をも揺るがしたのである。
銀色の悪魔。または、メドゥーサ。
それが、エミリアに与えられた、ハッカーとしてのふたつ名であった。
「あの事件の原因の一つは、ロボットの防衛本能よりも上に、本来あった筈のマスター設定が失われたせいだ。これも、知っているな?」
シンの言葉に、クリスは頷いた。
この事件以来、サイバー・ビーングのマスター設定に関して、より厳しい取り扱いがなされるようになった。
「でも、ぼくが死んでも、誰かがマスターになるよう設定はしてあるよ」
クリスは反論した。
「規定と違うのは、設定の上下関係だけなんだ。自動修復システムがなくちゃ、ぼく達は生きていけないし。ぼく達を生かすことが、システムの目的だから、キキに関して矛盾はないよ。なにより、こっちの方が効率いいんだ。だから、ね、いいでしょ?」
成り行きを見守るユーキと、この時ばかりはシンの側に立つナチアの前で。黒髪の青年は、ゆっくりと首を振った。
「だめだ。設定を書き換えろ」
「どうしてっ?」
「説明したとおりだ。状況が常に同じとは限らん。リスクを許容する余裕はない」
シンの意志は揺るがなかった。
サイバー・ビーング、或いはコンピュータのマスター設定の是非については、それこそエミリア事件以前に遡り、遥か昔から論議されていたことである。その永い年月の中で淘汰され構築されたのが、現在の、マザー・システムを頂点とした、厳密な規定なのである。
マスターが失われれば、ハイ・マスターに権限が移り、ハイ・マスターがいなくなれば、各国政府等が主管するロード・コンピュータがマスターを継承する。ロード・コンピュータの上位には、マザー・システムが存在する。そしてマザー・システムは、人類そのものをマスターとしている。上下に途切れることのない、それは、人類とサイバー・ビーングとの約定であった。
今、この宇宙船の中で、古典的な論争を繰り返すつもりは、シンにはなかった。
数秒の睨み合いの後、クリスが俯いた。
「…わかりました。設定は書き換えます。でも、書き換えには時間がかかるんだ。一週間ちょうだい」
「今日を含めて四日で行え。できる筈だ」
クリスの肩が、僅かに震えた。
もともと、設定の書き換えに納得した訳ではない。それでも了解したのは、シンの命令ならばこそである。
「やだ。一週間かかるんだ」
技術的には、四日でもできたかもしれない。しかしその場合、作業が粗くなる。愛情を込めて産みだしたサイバー・ビーングに、大切な友人に、傷を付けたくなかった。
「分かった。できるだけ早くだ」
シンが譲歩した。
「わかりました。できるだけ早く、一週間でやります」
クリスは、負けず嫌いであった。
<次回予告>
翌日。
ナチアは通信上、ユーキに話しかけられた。
次回マーベリック
第八章 第五十三話「軋轢」
「シンさんだって、わかるでしょう?」




