第三十五話「マイナス」(2)
ナチアは、目を覚ました。
穏やかな薄い光の中、ぼんやりと、通路の壁が見えた。
………ここは、どこですの?
まわりを見ようとする。
だが、それができない。身体が、硬く固まっていた。
嫌ですわ、まったく。
なんとか、動かそうとする。そして気付く。
自分の胸を、触っているものがある。
…これは、なんですの?
手?
わたくしの手?
いえ、これは…。
少尉の手!
「!」
撥ね起きた。
ナチアとしては、体ごと跳び起きたつもりであったが、実際には、僅かに上半身が持ち上がっただけであった。
胸にあった手が、ナチアにかかっていたシーツごと下方に落ち、ちょうど下腹部の上にくる。
いっ、いやらしいですわねっ!
男をぶったたこうと、振り向く。
そして、認識する。
自分が、シンの腕の中にいたことを。
…なんですの、この状態は?
ナチアの隣にはクリスがいた。逆側にはユーキがいた。ナチアも含めて、全員が同じシーツに二重で包まれていた。
………。
しばらく、それらを眺めていたナチアであったが、ゆっくりと、ユーキの頚動脈に触れてみた。次に、クリス。
二人とも…、生きているようですわね。
自らの胸元を覗くと、緑のランプが光っている。絶望のカウント・ダウンは、小型のコンソール上で、マイナスの時間を刻んだまま停止していた。
残りマイナス、二十一時間。
ぎりぎりで間に合った。完全死を回避することができた。理由はともかく、空気が戻り、覚醒用のガスが起動した、ということか。
ひとつ息をつき、最後の一人、シンの頚動脈に触れる。
………!
頭から血の気が引いた。
脈がない。いや、あるが、弱い。
ユーキとクリスの体をどかし、硬直した口元に顔を近づける。
呼吸をしていない。感じられない。
シンの胸元を見るが、緑のランプも、赤いランプすら点いていない。つまり、ガスを使用しなかったということか。
「…このっ、馬鹿っ」
急いでコンソールを操作するが、救命用のシステムが稼動しない。宇宙服のエネルギーが足りない。
システムが駄目なら、人間がやるしかない。宇宙服を脱がせる。
手が急ぐ。焦る。
衝撃吸収用のプロテクト・スーツの前を広げて、横たえる。気道を確保し声をかけるが、息が戻らない。横たえた体に跨り、厚い胸板に両手を添える。
許しませんわよっ、ここまできてっ。
体重を乗せ、強く押す。
視界が傾く。当然だ。体力は戻っていない。遠くなりそうな意識を、辛うじて手繰り寄せる。今、自分が倒れる訳にはいかない。
口元に顔を寄せる。
まだ呼吸が戻らない。
再度馬乗りになり、胸板を、その下の心臓を押し込む。
…っ! …っ!
戻らない。
この状態で、何分経った? 何十分?
焦りが増大する。
パートナーの方を見た。「ユーキ…っ、ユーキっ」呼ぶが、反応がない。都合よく起きろという方が無理か。
まだ…! 戻らない…!
横に移動し、再び気道を確保する。
シンの鼻を摘まみ、顎を押さえ、大きく息を吸い込んでから、唇を重ねる。その、瞬間。
「…ナチアの、…まで奪っては、な…」
少女の顔を、大きな手のひらが静止させる。
「少尉っ」
ナチアの体から力が抜けた。思わず、倒れそうになる。
「二人は、無事か…」
薄目を開き、横になったままでシンが尋ねる。
「大丈夫…ですわ…。まだ、意識は、戻ってませんけれど…」
「そうか…」
ナチアも限界であった。シンの隣に、ずるずるとその身を横たえる。
「無理をさせたな。すまん…」
「いえ…」
「生命維持システムが…、稼動したのか?」
「おそらく…。結果から見れば…、自動修復システムが、復旧したのですわね…」
「ブラック・ボックス…、だったか…」
「ええ…」
二人、ともに目を閉じる。呼吸音が大きめに聞こえる。ナチアの息は、まだ荒い。
「…なぜ…、催眠ガスを、使わなかったんですの…」
「起きていれば、何か、できるかもしれないと、な…」
「馬鹿ですわね…。あと少しで、無駄死にですわよ」
「そうだな」
急に、ナチアの胸に、感情の渦が込み上げてきた。
残りマイナス、二十一時間。
それは、途方もなく長く、苦しく、厳しい時間。
明確な希望もないまま、それでも堪えた、孤独な時間。
「…少尉」
「何だ?」
「まさか、死に損なった、とか、考えてませんわよね?」
「…それを言ったら、ユーキやクリスが許さないだろうな」
「わたくしも許しませんわ」
「そうか、すまん」
「わたくし、あなたが…」
大っ嫌いですわよ、と、続く筈の言葉は途切れたままで、船内を流れる風の中に消えていった。
第五章 終
<次回予告>
明るい声であった。
立ち上がって話すクリスの正面には、ベッドに座るユーキとナチアの姿がある。
次回マーベリック
第六章 第三十六話「進路」
「それでも…。未来へ跳ぶことと、そこに辿り着く間に想定される、敵襲来の危険性を考えても、なお…」




