第三十五話「マイナス」
残り、ゼロ時間。
クリスが、眠った。
ガスで、眠った。
覚めることのない眠りについた。
ゼロ時間ちょうどに眠ったのは、クリスの計算が正しかったからではない。
自ら予測した時間まで、少年が必死に堪えた、その結果であった。
最後まで、負けず嫌いを貫いたクリスであった。
「よく、堪えたな」
「クリス…、えらかった…ですわよ…」
「つらかったでしょうに…、クリス。そんな顔、見せずに…」
ナチアの腕の中で、クリスは眠った。
傍には二人の男女。
ユーキの目には、涙が浮かんでいる。
「おやすみですわ、クリス…」
ナチアが、クリスの頬にキスをした。
「おやすみなさい、クリス…」
ユーキも、逆の頬にキスをした。
…またね…。
クリスの最後の言葉が、艦内にこだましているようであった。
残り、マイナス二時間。
「それ…では…、さよなら…、です、わ…」
ナチアが、スイッチに手を伸ばした。
その手を、ユーキの手が掴む。
「いや…、ナチア、いっちゃ、や…ぁ」
手を掴む力は、弱い。それ以上の力は、もはやユーキにもない。
「ユ…、キ、わがま…、いう…で…、…せ、わよ…」
最後がいけなかった。シンに挑むようなことをしなければ、もう数時間は耐えられた。
それは、叫び声をあげたユーキも同様だろう。
残された力を、スイッチを入れる手と、笑顔に込める。
「ナチア…、ごめ、ね…、ごめんね…」
ユーキも、懸命に笑顔を作ろうとした。だが、できなかった。
目の前で横たわる二人の体。その、何と小さいことか。
「しょ…」
「何だ?」
ナチアの呼びかけに、シンが反応する。その声も、すでに体の限界を伝えている。
「ユ…、の、こと…、よろ…」
「分かった。任せておけ」
ナチアのスイッチが入った。
胸元に赤いランプが灯り、黄色いガスが吹き出す。口元に当たり、そして砕ける。
僅かな量。だが、十分な量。人を死に誘うために。
「ナチアぁ…、ナチっ…、あっ、あぁっ…」
ユーキの声が、ナチアの体に吸い込まれていく。
「さよ…ら、…くしの…」
わたくしの親友。
最後の言葉を、気持ちで伝えて。
そしてナチアは、目を閉じた。
残り、マイナス三時間。
ユーキは、シンの胸の中にいた。逞しい腕に抱かれていた。同じ腕の中には、シーツに包まれたクリスとナチアも眼っていた。ユーキが頼んだ。申し分のない死に場所であった。
とうに体は、限界を越えていた。
無理だとは分かっていたが、それでも、シンより先に死にたくなかった。シンを一人で、残していきたくなかった。途中で、自我を失いかけたことが恥ずかしかった。悔しかった。これ以上、迷惑をかけたくなかった。
いつも、ひとりぼっちだったシン。
最後くらい、ユーキが見届けてあげたかった。そんな気持ちが、ユーキに限界を越えさせていた。
だが、それも、叶わなかった。
時計を見ようと、胸元のディスプレイに目を向けたが、すでに、焦点も合わなかった。
目をこらし、かろうじて読み取る。マイナス三時間を、二十分も経過していた。
上出来である。
「シ…」
シン、愛しています。あなただけを、ただ一人。
「キ…」
キスしてください。お願いです。
最後に一度。
一度だけ。
………。
ありがとう…、シン…。
お願い…、あなたの、手で…。
スイッチを押して。
残り、マイナス五時間。
動くものがいなくなり、照明が落ちた。世界は暗闇に包まれた。
催眠ガスの使用を示す赤いランプが三つ、通路に光っていた。
シンは、微かな呼吸活動のみを行っていた。
三人の体を抱いた格好で、壁に背をあずけ、ベッドの上に浅く座っていた。
ガスを使うつもりはなかった。結果がどうあれ、力を尽くすのが、シン・スウ・リンの生き方であった。
死んでしまったイシス。
生きてしまったシン。
恋人を置き去りにして部屋を出た時に、立てた誓いであった。
孤児院を包む炎を前に、胸に刻んだ。
戦うと。戦い続けると。
そう部屋のイシスに誓った。いくつもにちぎれた、哀れな彼女に。
そして今。
シンは生き、戦っていた。
身体の代謝機能をぎりぎりまで下げ、自ら仮死状態へと近づけて。抗っていた。
問題解決の糸口など、ありはしない。それでも、生きてさえいれば、決してゼロにはならない。その、ほんの小さな可能性に賭けて。
残り、マイナス十時間。
生と死の狭間に立ち続けていた。
もはや思考はなかった。
考えることすら許さぬほどに、空気という名のエネルギーは薄れていた。
温度もかなり低下していたが。すでに、それを感じられる状態ではなかった。
腕の中の三人が、完全死に入ったのかどうかは、もはやシンにも、分からないことであった。
長い時間が経った。
長い、長い時間であった。
そして。
風が吹いた。
微かな音が、遠くの方から聞こえてきた。
続く




