第三十四話「限界」(2)
シンは、ナチアを見下ろしていた。
ともに無様な戦いであった。
ナチアが平手で叩こうとして。シンが避けようとして。避けきれずに足を蹴って転がして。それを二回繰り返した。
それだけで、シンの足はふらつき、ナチアは体力を失った。
通路に倒れ、小さな痙攣を繰り返している。
「…もうよせ、ナチア」
それでもナチアは、立ち上がろうとしていた。豊かな金髪は乱れ、頬には嘔吐物の汚れが貼り付いている。
「まだ…ですわ…」
口元を拭いもせず、白い息を吐きながら、ゆっくりと体を起こす。
両手を下げ、自然体になる。
…見事だ。
シンは唸った。ここまで見事な自然体は見た記憶がない。
最後の一撃が、くる。
シンは確信し、迎撃の構えをとる。肉と骨が重い。構えが不十分。
通路は狭い。武器もない。明らかに、ナチアに地の利がある。さらに決定的なのが、シンとナチアの、意気込みの差である。必殺・決死の覚悟のナチアに対し、シンは加減して勝たなければならない。でなければ少女を殺してしまう。もう死んでしまう。
「少尉」
唐突に呼ばれた。
ありえないことであった。これほどの状況で、これほどの戦闘態勢を保ちながら、言葉を発するなど。
「…何だ?」
答えるシンの身体が、僅かに乱れる。この僅かな乱れが、致命的な差となる。
シンは死を覚悟した。この瞬間を襲われたら、どうにもならない。
「わたくしに負けたら…、ユーキに応えなさい…」
ナチアの声が、殺気を帯びる。
翡翠色の瞳が、殺意に燃える。
負けたら?
いや、負けたら、その先は無い。あるのは、単純な死、それだけである。
ユーキが見ている。
ナチアが見ている。
気付いていないのか、ナチアは?
「好きだと、いいなさい…」
まずい。
これでは勝てない。
「ユーキのオモイに…、コタエナサイ…」
言葉だけが、空間に置き去りにされた。
滑るように、ナチアの身体が近づく。急速に。
許せ、ナチアっ!
交差。その一瞬。
「いやぁああああああああああっ…」
通路に響いたのは、ユーキの嗚咽。
ナチアの掌底が、シンの胸に吸い込まれていった。
ユーキは、半狂乱であった。
目の前では、シンがナチアを、床に抑えつけていた。
どうして、わたしを否定するのっ?
そんなにわたしがきらいなのっ?
なぜっ? どうしてっ?
ユーキの顔のまわりに、いくつもの水滴が浮かんだ。
お願い、シン、それ以上はやめてっ。
それ以上、わたしを否定しないでっ。
お願い、わたしを否定しないでっ!
ユーキの悲鳴が聞こえ、ナチアは我に返った。
なにっ。なんですのっ?
状況が分からなかった。
自分が、床にねじ伏せられていると理解できた。
「少尉っ?」
当てずっぽうで呼んでみる。息が苦しかった。状況は分からないが、自分をここまで追いつめられる人間は、今や一人しかいない筈であった。
あ…。
背中と腕に加わっていた力が、唐突に消え去った。
「戻ったか、ナチア?」
腕をさすりながら仰向けになると、シンが声をかけてきた。
やっぱり、少尉でしたのね。
なんて失礼な。いったい、わたくしが何をしたというんですの?
………。
わたくし、何をしていましたの?
やけに…呼吸が…苦しいですわ。
「わたくし…、何を…」
「説明はあとだ、ユーキがおかしい」
え?
ユーキが?
どうしたというのです?
クリスの視界の中で、三人が騒いでいた。
正確には、ユーキ一人が騒いでいた。
だめだなぁ、シンさんもナチアさんも。ユーキさんは泣かしちゃいけないんだぞ。知らないのかな?
「お願い…、否定っ、しないでっ。お願いシンっ、わたしを…、否定しないでぇええっ…」
そうだよ。だめだよシンさん。
同じ男として言わせてもらうよ。
男は女を泣かせちゃいけないんだ。習わなかったのかい?
ぼくだって学んだんだぞ。きっと、テラで人類が斧振り回してた時代から、そうだったんだ。人類は、斧を振り回しちゃいけないんだ。知らないのかい、シンさん?
「いやぁあああああああああああああああああああああああああああ…」
なんだろう、頭の中で響いてる。
大きい声なのか、小さい声なのかも分からない。
あたふたする三人の姿が、ゆっくり過ぎて、滑稽に見える。
「はぁっ、はぁっ、はっ、はっ、はぁっ、はっ、ふっ、はぁっ…」
やだな。
頭がはっきりしないや。嫌いなんだよ、こういう状態。はっきりしない頭はさ。
「否定っ、しないでっ、シンっ。わたしっ、なんでもやるから…」
「しゃべるな、ユーキっ」
「あなたの、ためっ。なんでも…っ。だから…っ」
「しゃべるな」
「ユーキっ」
嫌いなんだよ、はっきりしないのって。
「お願いっ、わたっ、をっ…、一人、にっ…、一人にしないでぇえええええええええええええええええええ…」
声がまわる。嫌いなんだよ。
狂乱すら長続きしない。
狂うための力すら、ない。
やがて無言の時間が、艦内に戻ってくる。
<次回予告>
残り、ゼロ時間。
クリスが、眠った。
ガスで、眠った。
次回マーベリック
第五章 第三十五話「マイナス」
「つらかったでしょうに…、クリス。そんな顔、見せずに…」




