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第二十九話「誘惑」(2)

「ユーキ」

 シンは声をかけた。

 少女ではない。一人の女が、シンの前に立っていた。

「シン」

 ユーキは答える。答えたその声が、かすれているのが自分でも分かる。

 シンが自分を見ている。

 シーツだけをまとった、自分を見ている。

 これ以上、一言も言えなくなるような気がした。

 体の中の、すべての力が抜けていくようであった。シーツを握る手だけが、その力を増していた。

 二人が向かい合ってから、十秒ほどが経過した。

 …もう立てない。

 ユーキの足は震えていた。

 全部を投げ出して、シンの胸に飛び込みたかった。何もかも任せてしまいたかった。自分の体を。心を。時間を。自分のすべてを。何もかも。

「…服を着ろ、ユーキ」

 !

 世界が、消えた。

 真っ白になった。

 フクヲキロ、ユーキ。

 真っ白な思考の中で、言葉だけが響いた。

 ユーキの思考が、次第に戻りはじめる。壊れはじめる。

 服をどうするの、シン?

 着るの?

 どうして?

 着て、なにをするの?

 着た方がいいの?

 着てないより…いいの?

 わたしの体、見たくないの?

 見ていいのよ?

 好きにしていいのよ?

 それとも。

 わたしのこと、きらい?

 ユーキの思考が、ひとつの単語でとまる。

 キライ。

 きらい?

 きらいなの、シン?

 わたしのこと、きらいなの?

 顔?

 体?

 性格?

 なに?

 すべて?

 わたしじゃ、だめなの?

 なんで?

 どうして?

「どうして?」

 思考が、ようやく声になる。

 声にした時、初めてユーキに、外界が戻る。聴覚が戻り、視覚が戻り、五感が戻る。

 どうしてなの?

 思考が、はっきりとした形をとる。

 そうだ。どうしてなのか、シンの口から聞かなくてはならない。納得は、まだできない。

「ユーキの気持ちに、応えるつもりはない」

 シンの答えは、はっきりしていた。

 しかし、ユーキとて分かっていた。こういう男を好きになったのだと。

 いったん思考が戻った以上、簡単に引き下がるつもりはなかった。

「どうして?」

 甘えた声で訴えた。

 わざとではない。本能が出した、ユーキにとっても初めての声であった。「シン、わたしのこと…きらい?」

「そんな事はない」

 嫌いでないということが、好きということとイコールではない。それは分かっている。

「じゃあ…いいじゃない。服を着なくてもいいじゃない」

「だめだ。服を着ろ、ユーキ」

「どうしてっ?」

 ユーキの声が荒くなった。

 切なかった。苦しかった。しかしそれ以上に、納得がいかなかった。

「…女は、抱かない事にしている」

「なによそれっ?」

「昔、女を殺した」

 …え?

「直接ではないが、ほとんど俺が殺したようなものだった…」

 ユーキの眼前では、シンが淡々と言葉を吐き出していた。

「軍に入る前の出来事だ。それ以来、異性と関係は持っていない」

 ユーキの思考が、ようやく、シンの言葉を飲み込み。そして、ささやかな抵抗を開始する。

「…それは、シンの、恋人だったの?」

「そうだ」

「今でも…、忘れられないの?」

「ああ」

「でも、こんな状況よ?」

「状況に左右されるような事ではない」

 返答を受け、ユーキの心に怒りの火がついた。

「シンっ、わたし達死ぬのよっ。あと、六十時間もないうちに死ぬのよっ」

 怒りは、その重みを変えず、悲しみへと変化していった。

「あと…、六十時間ないのよ…。お願い、その時間を…わたしにちょうだい…」

「………」

 シンは無言。

「お願い。嘘でもいい。あなたをちょうだい。わたしをあげるから。全部…、あなたにあげるからっ…」

 言い放ち、そして俯くユーキ。

 そんなユーキの想いは、報われはしなかった。

「…すまない、ユーキ」

 二人の時が止まり、静寂だけが空間に浮遊する。

 ユーキは下を向いたまま。シンはユーキを向いたまま。

 静寂を破ったのは、シン。

 何故話したのかは、本人にも分からなかった。

 許しを請うためか。嘘をつきたくなかったからか。理解してもらいたかったのか。自己満足のためか。弁護のためか。ユーキが好きであったためか。

 いずれにせよ、シンは静寂を破った。

「…すまない、ユーキ。俺は、残り五十年であろうと、五十時間であろうと、自分の生き方を変えるつもりはない。…他者との繋がりが切れるとは思っていないが、少なくとも、俺の人生に巻き込むつもりはないんだ…」

 そこまで言ったシンは、最後に、もう一言を付け加える。「すまない、ユーキ」

 すまないと思う、その気持ちに嘘はなかった。

「シン」

 ようやく、ユーキが口を開いた。俯いたままであった。その声には、悲しみと、決意とが入り交じっていた。

「何だ?」

「あなたの人生に、わたしは巻き込んでくれないの?」

「そのつもりはない」

「でも、わたしはもう、巻き込まれているのよ?」

「すまない」

 シンの言葉が、ユーキの耳と、心に届いた。

 ユーキはもう一度、決意を固める。

 これで最後だ。

 さあ、あと一言を言おう。

「…シン」

「何だ?」

「悪あがき…、させてもらっても…いい?」

「ああ」

 シンの返答を受け、ユーキが顔を上げる。

 濡れた瞳で、何とか笑顔を作って見せる。

 そして。

 シーツから手を離した。

 低重力の中、下に落ちずに、白いシーツが、ユーキのまわりをたゆたった。

「シン」

 笑顔で呼びかけ、シーツを引っ張り、そして後方に投げ捨てる。

「…」

 シンの視界。淡い白色の通路。

 その狭い世界の中心で、裸身の女神が輝いていた。

 柔らかなライン。均整のとれた肢体。雪のように輝くきめの細かい肌。少女の瑞々しさと、妖艶さを身に纏った天使。

 シンの体に、一陣の風が押し寄せた。空気を伝い、香りが乱舞する。ユーキが解き放った、女としての匂い。

 男としてのすべての理性を打ち砕く、香り。肉体。その眼差し。

 暴力的なまでの、魅力と魔力。

「…ユーキ」

 ようやくにして、声を出した。

 はたして、どれほどの時間を要したのであろうか。

 一歩を踏みしめ、二人の距離を詰める。

 永遠かと思われた距離を打ち消し、男が、女のもとに辿り着いた。

 シン…。

 女の唇は震え、潤みを帯びていた。

 男の両腕が持ち上がり、女の背中にまわされる。

 驚いた顔の女を胸に抱き寄せ、二人の間に残った、僅かな距離を埋める。

「…すまない、ユーキ」

 言葉が、ユーキの心に突き刺さった。

「すまない…」

 シンの優しさだと、ユーキは受けとめた。

 ばかな自分を抱きしめてくれた。

 それだけで、いいではないか。それだけで。

 泣きたくはなかった。困らせたくはなかった。

「ううん。わたしこそ、ごめんなさい…」

 堪えきれず、泣き声に変わった。

「シン…、つきあってくれて…、抱きしめてくれて…、ほんとに…、ほんとうに…」

 ありがとう、シン。

 ユーキは、シンの腕の中で泣き崩れた。

<次回予告>


 残り、約四十六時間。

 一号機の通路では、ナチアとクリスが座っていた。

 壁に背をあずけ、肩を寄せ合って座っていた。


次回マーベリック

第五章 第三十話「嫉妬」


「ごめんね。待たせちゃって…」

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