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第二十九話「誘惑」

 残り、約五十七時間。

 ナチアが帰ってきた。

 連続ではないものの、五時間近くもシャワーを浴びて、さっぱりとした表情であった。

「あら。クリスは寝てしまいましたの?」

 湯上がりのナチアは、シンも驚くほどの色気を発散させていた。

 ハーフ・コートの前を開け、僅かに濡れた金髪をかき上げる。ハーフ・コートの正式名称はプロテクト・スーツといい、三層構造の宇宙服の一番のアウターである。衝撃吸収を第一の目的として作られてはいるが、この時ばかりは、装飾品の役割を果たしていた。

「疲れもたまっていたんだろう。起こさないでくれないか」

 少女の色気にやや押されながら、小さな声で答えた。

 クリスは、シンの肩を借りるような形で眠りに落ちている。

「わかりましたわ」

 そう言ってナチアは、シンとクリスの間に割って入ろうとする。

「おい…」

 小声で抗議するシンから、強引にクリスを引き離す。

「クリスの枕は、わたくしの役目ですわよ」

 起こさないように注意しながら、自分の肩にクリスの頭を乗せる。

 枕としての役目を取られたシンは、反対側の壁際へ移動しようとした。

「あら、少尉は、そこに座ってはいけませんわ」

 腰を下ろそうとすると、ナチアが制止をかけてきた。

 座り損ねたシンは、所在なげに立ち上がり、肩をすくめた。

 どうしろと言うんだ?

 言葉にせず、ナチアに尋ねる。

 ナチアも無言で、手のひらで誘導する。

 少尉は、あちらですわ。

 にっこりと微笑みながらナチアの示した、方向は。

 一号機の中心にあたる、十字路であった。

 シンはその意味を理解したが、すぐには動けなかった。

 ナチアの示した方向は、十字路であって、十字路でない。角を曲がって、三号機に行くよう、ナチアの手のひらは求めていた。

 今、一号機には三人がいる。帰ってこないもう一人は、当然、もう一方の船にいる。

 ナチアの目から、笑いの成分が消えた。

「ユーキを泣かせたら、わたくしが許しませんわよ」

 静かに言い放ち、そして、視線を逸らした。


 ゆるやかなループ状の通路を抜けると、一号機と同様の十字路が、シンの視界に入ってきた。

 その手前まで進み、足を止めた。

 一号機と同じ構造であるならば、操縦席は左の船首方向、各機関のメンテナンス・ルームは右の船尾方向である。けれど、三号機の構造は一号機のそれとは異なっている。船に搭乗する前の説明によると、三号機の操縦席は、船尾方向に存在する筈であった。

 シャワーやベッドがあるとすれば、その反対側。

 十字路を左に曲がれば、そこに、ユーキがいる筈であった。シンの五感も、少女の存在を船首方向だと知らせている。

 ユーキが、いる。

 おそらくは、ある覚悟を決めて。

 シンは迷っていた。

 どうするか、ではない。

 どう伝えるか、である。

 十字路の手前で短い時間を過ごしたシンは、軽く首を振る。

 これまでに、同様のことがなかった訳ではない。その度に、相手を傷つけてきたシンである。今さら、変われるものではない。

 幸せになる権利は、おまえにもあるってこと、忘れんな。

 ボーイの言葉が浮かんだ。

 すまないな、ボーイ。

 シンは一歩を踏み出した。

 俺には、そんな権利はないんだ。


 ユーキは待っていた。

 ただ一人、彼女が愛した男を。

 シン・スウ・リン。

 すでに覚悟は決めている。

 初めは、親友に言われたからであった。

 だが、今は、違う。

 自らの意志でここに立ち、自らの意志で待っている。

 ユーキはまわりを見渡した。

 ここだけは、少し広いスペースとなっている。

 後方、通路の奥には、先ほどまで親友と入っていたカプセル・シャワーがある。備え付けのトイレも並んでいる。すぐ横、足元には、壁から引き倒したベッドが横たわっている。ベッドには、固定式の枕はあるが、シーツはかかっていない。シーツは今、ベッドからはがされ、ベッドの代わりに、一人の少女の身体を包み込んでいる。ベッドの脇にはフックがあり、一式の宇宙服が掛かっている。ほとんどの機能は停止したが、時計程度の役割は果たしている。今でもずっと、胸元部分のモニターで無音のカウント・ダウンを続けている。

 自分の体を見下ろした。

 白いシーツが、微妙なラインを描きながら、低重力の世界に揺れていた。体のまわりを、ゆっくりと、近づいたり離れたりしていた。

 寒くはなかった。耐寒機能のある宇宙服を着ていないせいで、多少は寒い筈であったが、今のユーキには感じられなかった。艦内温度の低下も、まだそれほど大きくない。

 視線を胸元に固定する。

 決して小さくはない胸が、シーツの中で、心臓の鼓動を受けとめている。

 大丈夫。

 自分に言い聞かせる。

 男をひきつけるのに、十分な魅力はあるはず。

 シーツを握る手に、力が入る。

 男?

 ううん、ちがう。望むのは、ただ一人。

 シンにだけ振り向いてもらえれば、それでいい。

 他に、なにもいらない。

 あと、六十時間を切ったわたしの人生。

 あの人さえいれば、それだけでいい。

 なにも知らない頭。なにも知らない体。ばかなわたし。

 けどお願い。

 お願い、あの人を振り向かせて!

 ユーキの視線が、前方に注がれる。

 十字路。

 その十字路から、男が現われる。

 ユーキの望む、ただ一人の男が。

続く

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