第二十七話「カウント」(2)
「………」
開かれた視界を、下方へと移動させる。
自分の足が、シンの足に触れていた。
温もりは感じられなかった。ただ、それと分かる程度の感触だけがあった。
どうしてシンは、わたしに触れてくれないのかな?
ぽつりと思った。
そして、何かを感じた。
自分の下腹部。その下。
少し、震えた。
シンの顔が動いた。
ユーキを見ている。
どうした?
シンの目が、ユーキに尋ねていた。
「シン」
ユーキは驚いた。自分で声を出して、自分でその声に驚いた。
そして感心する。
まだ、自分は声を出せるのだ、と。
「どうした?」
男が尋ねてきた。
落ち着いた、いつものシンの声であった。
ユーキは、たまらなく嬉しくなった。
もうすぐ死ぬ。
それは、間違いない事実。
でも、ちがう。
もうすぐ死ぬんじゃない。
ユーキは確信した。
まだ、もう少し、生きていられるんだ。
たまらなく嬉しくなった。
「なんでもない」
軽く、首を振る。
短くした黒髪が、左右に揺れた。
「そうか」
短く答える、シンの顔を見る。
そして俯き、小さく頬を赤らめる。
膝を曲げ、立ち上がる。
少しよろける。でも、大丈夫。
「ちょっと…、トイレ、行ってくる」
恥ずかしかった。恥ずかしいと思える自分がいた。
「そうか」
シンの答えは短い。
だが、その言葉の中に、何かしら安心感のようなものを、ユーキは感じた。
上を見る。ユーキの操縦席は、その方向にある。長ったらしい名を持つトイレも、そこにある筈であった。ドアは開かれたまま。もはや閉じることもできない。
下を見る。シンがいる。
上を見る。トイレがある。正確には、副操縦席へと続く、垂直な通路がある。
「ナチア」
親友を見る。
「なんですの?」
ナチアは目を覚ましていた。
目を閉じていただけなのである。ユーキには分かっていた。
すでに、ナチアの目は笑っていた。
仕方ないですわね。
その目は言っていた。
ナチアの胸では、クリスも目を覚ましていた。
「三号機のトイレ、貸してくれる?」
ユーキの声に、ナチアは肩をすくめる。
その動作をよくする人物を、四人は知っていたが、今、この場にはいなかった。
「いいですわよ」
「ありがと、ナチア」
「そのかわり」
「なに?」
「わたくしも行きますわ」
「うん」
「もちろん、使うのも、わたくしが先ですわよ」
「もちろん」
二人の少女は、互いの目を見て、小さな笑顔を見せ合った。
「…じゃあ、ぼくもいこ」
ナチアの身体から身を離したクリスも、久しぶりに声を出した。
「では、俺も行こう」
シンも、三人に同調した。
本来ならば、他者に同調するような人物ではないのであるが、この時は違った。
四人の間で、笑顔が交わされた。
きっかけはどうあれ、作り物でない笑顔は、久しぶりであった。
「じゃあ、いってくる」
「ああ」
ユーキがシンに声をかけ、ナチアとクリスが立ち上がる。
シンも腰を上げ、通路を歩きはじめる三人を眺める。
三人は、一号機の中央にある十字路に辿り着く。十字路を左に曲がれば、接続している三号機へと続く。
ユーキの前では、すでにナチアとクリスが、その角を曲がっていた。
ユーキは一度振り返って、シンの姿を確認した。
立ち上がり、見守る男の姿がそこにあった。
互いの目で挨拶を交わし、ユーキは十字路を曲がった。
そして気付く。
シンがいない。
足が止まった。
ナチアとクリスが振り向いた。
ユーキの視線が、ナチアとクリスに向けられる。
二人しかいない。
あの人がいない。
ユーキの胸に、熱いものが込み上げた。
振り返り、駆け出した。
角を曲がると、シンの姿があった。
先ほどの姿勢と変わりはない。ユーキの方を見ていた。
一気に通路を駆け抜ける。
シンの胸に飛び込む。
僅かに体勢を崩すシンの体に、しがみつく。
シンの背中を掴み、自らのかかとを持ち上げる。
シンは驚いた表情でユーキを見ている。
顔を近づける。
逃げる暇なんか与えない。
シンの唇に、自らの唇を押しつける。
そして十分。実際には二秒。気分だけは十分間。
唇を離し、かかとを下ろし、手を放し、背を向け、そして駆け出す。そのすべてが、ほぼ同時。シンを見ることができなかった。視線を背中に受けることも。一気に通路を駆ける。十字路に立つナチアにしがみつく。そのまま角を曲がり、シンの視界から逃げる。二、三歩を歩き、そしてようやく、息をつく。すぐ側にナチアがいる。隣にクリスがいる。でも、顔は見れない。どうしよう。
どうしよう。
「よくやりましたわ、ユーキ」
ナチアがユーキの、頭を撫でた。
「ぼく、感動しちゃったっ」
クリスがユーキに、言葉をかけた。
そんな二人に囲まれて。
ユーキは、少しだけ泣いた。
シンは、呆然としていた。
何だったんだ、今のは?
キス?
ユーキが? 自分に?
シンは、自分の左腕を見ていた。
それは別にいい。
キスされたのは構わない。
シンは、自分の左腕を見ていた。
だが、これは何だ?
この、左腕は何だ?
シンは、自分の左腕から目が離せなかった。
この左手は、何をやろうとした?
走り、飛び込んでくるユーキに対して…、何をやろうとした?
シンの背中に、じっとりとした汗が浮かんでいた。
危なかった。
本当に。
危うく、ユーキを。
叩き殺すところだった…。
<次回予告>
残り、約六十二時間。
シンは座って、待っていた。
次回マーベリック
第五章 第二十八話「恋慕」
「ほう。何だクリス、そんないやらしい事を考えていたのか?」




