第二十七話「カウント」
残り、約七十時間。
四人は座っていた。
一号室の操縦席の、すぐ裏側の通路。冷たく、暗い、四人だけの通路。
シンは壁に背をあずけ、ユーキはその隣に座った。
シンの正面の壁にナチアが背をあずけ、クリスはその横に座った。
八本の足が交差し、どの一本も、他の一本に触れようとしなかった。
互いに前方を見ながら、そして何も見ていなかった。
各自の宇宙服には、胸元に小型のコンソールが付いており、画面上には生存可能時間が表示されていた。時々誰かが確認して、そして目を離す。知ったところで、どうにもならない。
ほぼ無言の一時間が、過ぎようとしていた。
「ねえ」
久しぶりに声を発したのは、クリスであった。
シンとユーキが視線を動かし、ナチアは動かさなかった。
「ねえ、ナチアさん…」
クリスは、隣に座る金髪の少女に声をかけた。
クリス自身の視線は動いていない。
ナチアの視線も動いていない。
けれど、少年は続けた。
「…抱きしめても…いいかな?」
クリスの視線は凍りついたまま、前方を見つめていた。焦点は合っていなかった。
ナチアの顔がゆっくりと動き、クリスの横顔に視線を向ける。
「ねえ、ナチアさん。抱きしめて…もらいたいんだ」
少年は、静かに俯いた。
三人の視界の中で、顔を朱に染めていくクリスの姿があった。
ナチアは、ほんの少し笑った。
「理由は、聞かせてくださるのかしら?」
ナチアの言葉に、少年は首を振った。
「理由? ごめん。そんなのは…、ないんだ」
「ありませんの?」
「ただ…、抱き合いたいだけなんだ」
「そう…」
少年の顔はさらに赤くなり、ナチアの声は艶のあるものに変化していった。。
シンとユーキは、ただ黙って、二人の会話を聞いていた。
「ごめんなさい」
唐突に少年が謝った。
「なにがですの?」
ナチアがゆっくり問いかける。
この時、確かにナチアは、女になっていた。
女。或いは母に。
ユーキの胸が僅かに締めつけられた。
何故かは、本人にも分からなかった。
「…ぼく、別に、ナチアさんでなくても、よかったんだ…」
少年は、引き寄せた自分の膝に、顔を埋めた。
「ただ、誰かと触れ合いたくって。…誰でもよかったんだ。…だから、その…」
「でも、わたくしを選んでくれたのでしょう?」
「だって、ユーキさんにはシンさんがいるし、シンさんに抱きついたら、ユーキさんに悪いし…、だから、ナチアさんならって…、その…、ごめんなさい…」
ユーキはクリスから目が離せなかった。シンへと視線を移せなかった。何かが恐くてできなかった。
「ほんとうに、クリスは馬鹿ですわね」
「ごめんなさい」
「わたくし、馬鹿は嫌いですわよ」
「知ってます」
「でも、クリスは不細工ではないですから…」
少年の身体を、ナチアはゆっくりと引き寄せた。「特別に、許してさしあげますわ」
「…ナチア…さん?」
小さな頭は、豊かな胸元に吸い込まれていた。
少年を引き寄せ、抱きしめるナチア。
引き寄せられ、やがて自らもナチアを抱きしめる少年。
ナチアの胸は、たとえ宇宙服を通しても、十分な柔らかさと、十分な温もりを少年に伝えた。
少年の抱きしめる力が、ほんの少し強くなった時、ナチアは目の前の二人を見た。
視線がシンの顔を横切り、そしてユーキへと移る。
その視線が、ユーキに囁く。
ユーキ。あなたも、いいのですわよ。
視線は語りかけていた。
残り、約六十三時間。
通路には、四人の男女が座っていた。
ナチアとクリスは抱き合ったまま、浅い眠りに入っていた。
その正面で、シンは壁に背をあずけて座っていた。眼は薄く開かれていた。
ユーキはシンの隣に座っていた。眼は閉じられていた。片腕が、シンの片腕に絡まっていた。ユーキにできる、これが精一杯であった。
四人がこの姿勢になって、すでにかなりの時間が経過していた。
途中、ユーキとナチアが昔話をした。
宇宙ステーション・ヘブンでの出来事についてであった。
二十分くらい話せた。少し、笑顔にもなった。そして終わった。
途中、ユーキも眠りに落ちた。
浅い、浅い眠りであった。
夢を見始めた瞬間に、目が覚めた。
シンがいなくなる夢であった。
横を見ると、シンはいた。
途中、クリスとナチアが言葉を交わした。
ナチアの胸が温かい、と、クリスは言った。
そう、と、ナチアは答えた。
完全断熱の宇宙服からは、物理的に温もりが伝わることがないことは、互いに承知していた。
途中、シンは考えていた。
考え続けていた。
まだ、助かる方法はないのか、と。
長い間、考えていた。
助かる方法は無かった。
それでも、考え続けていた。
途中、ユーキは思った。
シンとキスがしたい。
浅く願った。
シンとキスがしたい。
キスがしたい。
キスがしたい。
シンに、抱きしめてもらいたい。
思いながら、まどろんだ。
どうして、抱きしめてくれないの?
ユーキは悲しかった。
途中、ナチアは考えていた。
なにもない人生だった、と。
つまらない人生だった、と。
なにも残せない人生だった、と。
娘がほしいですわね。
唐突に思った。
自分より美しく、自分より賢く、自分よりは愚かで、自分より幸せな娘がほしかった。
けれど、それができないのも分かっていた。
できるのは、自分と同じくらい美しく、自分と同じくらい賢く、自分と同じくらい愚かで、自分と同じくらい不幸せな、そんな娘を生むことだけであった。その筈であった。
それすらもできなくなった。
くだらない人生でしたわね。
ナチアは自嘲した。
途中、クリスは感じていた。
ナチアの胸の温もりを。
感じられる筈のない、温かさを。
満たされていた。そして、満たされていなかった。
抱きしめたいな。
そう思った。
そして、すぐに気が付いた。
すでに自分が抱きしめていることを。
自分が言葉を飾っていることを。
この期に及んでなお、自分を偽っていることを。
ナチアを、抱きたかった。
ナチアと、やりたかった。
クリスは悲しかった。
自分が、まだ女を抱ける身体でないことは、痛いくらいに知っていた。
十四歳。
普通なら、男として成長している筈の年齢である。
だが、クリスは普通ではなかった。
悲しくて、悲しくて、悲しくて。
そしてクリスは、まどろんだ。
途中、四人の足が絡んだ。
クリスの足が、ナチアの足に触れた。
ナチアの足が、ユーキの足に触れた。
ユーキの足が、シンの足に触れた。
そしてユーキは、眼を開いた。
続く




