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霧の、湖面への侵入は尾根の低いところから始まった。尾根を越え、山の斜面を滑り落ちていき、そのままの勢いで湖面を走る。やがて堰を切ったように霧は北側全ての尾根を飲み込み、雪崩を打って湖に流れ込む。瞬く間に湖は深い霧に覆われ、湖面は見えなくなってしまった。世界樹だけが霧に浮かんでいた。
「王がおでましになる」
そう言ったのは他ならぬジンシェンである。ドラゴンも、ドラゴンニュートでなら人の言葉が喋れるようだ。ジンシェンがひざまずいた。
ひざまずいても、俺よりも背丈は高かった。思えばこいつも竜王の客なのかもしれない。灰色のドラゴンはわざわざこいつの村近くにまで俺たちを飛ばした。
湖の一点を中心に霧が四方に逃げて行った。コバルトブルーの湖面が白く変わり、盛り上がっていったかと思うと水中から島が現れた。
初めは小さい島だった。それがみるみるうちに大きくなり、やがて島は湖面から飛び出した。
直径五百メートルほどで、それが湖面すれすれに浮いている。真っ白く、その表面は卵の殻のようにツルッとしていた。フォルムは全体的に丸みがかったなめらかな曲線を描いていて、湖水がそいつの表面を滑るようにして流れている。大量の湖水が湖面に滝となって降り注いでいた。
見た目はウミガメである。だが、頭はなかった。オール状の前足を上下に動かし推進力を得て、後ろ脚で体の向きを上へと変える。湖面から尾根にいる俺たちの方へ、海を泳ぐようにやって来た。
普通のカメなら背甲と腹甲の間から首が出ている。だが、そこには首がない。背甲と腹甲の間は真っ暗で、全く奥が見えない。洞窟のような、深い井戸のような穴がぽっかり開いていて、頭が入っているどころか、胃も腸も何にもない。無さすぎて、そこに吸い込まれていきそうな気さえする。
どこか異質な空間。物理の法則が通用しないであろう魔法の空間。白い殻に覆われたその亜空間に目と口が浮かび上がった。
目と言っても眼球ではなく丸い光体で、口は三日月型。歯がギザギザでハロウィンのカボチャの口を思い起こさせる。
これがローラムの竜王。ジンシェンも、通常のドラゴンと言われるフォルムからかけ離れているが、ローラムの竜王はまさにその上を行っている。それどころか、姿はすでに生物の域を超えている。
カールが、驚くぞと言った気持ちがよく分かる。はぐれドラゴンの次にいきなりこれでは確かに面食らう。ジンシェンを見ている俺は免疫ができていた。それに、俺のパレードアーマー。装飾もなくなぜ真っ白なのかも分かった。
といっても、ローラムの竜王に寄せているんじゃない。兜がイーグルをかたどっていることから、対抗心丸出しなのだろう。イーグルはドラゴンの好敵手である。白は白でもこっちは人間界の王だぞと言わんばかりだ。
竜王の上空に巨大な魔法陣が現れた。竜王の大きさを上回る赤いやつだ。竜王は上昇し、その赤い魔法陣に入って行く。
見上げる俺たちは魔法陣を通り過ぎた先がどうなっているか分からない。ジンシェンの時と同じようであれば、魔法陣に触れた部分は消えて行くのだろう。もし、ローラムの竜王が俺と話したいのであれば、竜人化しなければならない。
ドラゴンであるジンシェンならばともかく、俺はドラゴン語を解さない。ラキラはドラゴンと念話のようなことが出来るからいい。ジンシェンがわざわざ竜人化したのはローラムの竜王が俺のために人の言葉を話すのを予想したから。竜人化するローラムの竜王の方に合わせたのだ。
ローラムの竜王は赤い魔法陣に消えた。変わって魔法陣の上に現れたのはトガを着た人。魔法陣が消えるとその人は宙をゆっくりと降下して来た。
まさしく人であった。ジンシェンのような如何にもって感じではなく、人の肌をした、手が二本、足も二本の老人だった。普通と違うのはおでこから上が異常に長いってとこだけ。口に白髭を湛え、杖を持っていた。
「よくぞ来られた。赤毛の乙女に、まれびとよ」
ローラムの竜王はそう言って、さらに降下した。外輪山の尾根に立つ俺たちを置いてけぼりにし、湖面に着地する。そして、手ぶりで俺たちを呼ぶ。
まれびと? 赤毛の乙女は分かるが、まれびと、とはどういうことなんだろう。いきなり俺は後ろから抱きかかえられた。ジンシェンだ。気付けば空中にいる。俺とラキラ、そしてジンシェンは湖面に向かって落下していた。
このままでは湖にダイブすることになってしまう。だが、そうはならなかった。湖には沈まず、大きな波紋を広げるだけだった。ジンシェンは湖面に着地していた。
ローラムの竜王は小さな波紋を広げつつ、振り向きもせずに先へ進んでいる。ジンシェンは俺とラキラを湖面に下ろした。小さな波紋が広がるだけで俺たちも沈まない。俺は一歩、足を踏み出した。
沈まない。歩けそうだ。ラキラもそう思ったのか、俺にうなずいて見せた。俺もうなずいて返し、二人でローラムの竜王を追った。どうやらローラムの竜王は世界樹が生えている湖中島に向かっているらしい。すでにカルデラ湖を覆う霧は晴れていた。
足跡の波紋で、湖面に映った雲が揺らぐ。前を歩くトガを着た老人。そして、巨大な世界樹。俺たちは誘われるがままに湖面を進んだ。
時として美しさは暴力となり得る。カール・バージヴァルもアーロン王もこの光景を見たはずだ。彼らは何を思ったのだろう。
二人はセンターパレスを最も文化の進んだ桃源郷だと信じていたはずだ。だが、全く違う形で桃源郷が存在する。カール・バージヴァルは敵意を抱き、アーロン王は畏怖した。
だが、全く敵わないわけではない。現にラキラの先祖はドラゴンニュートを倒したのだ。カールはその方法を見つけた時、狂喜したのであろう。
俺たちは世界樹の傘の下に入った。結構歩いて来たせいで足元の不安はもうない。見上げて世界樹を眺めていた。湖中島までまだまだ距離はありそうだった。
枝張りの広がりに圧倒される。驚異的な生命力だ。石のような灰褐色の樹皮から古いと想像出来る枝、淡い緑色から若いであろう枝、いったいどれほどの時間の隔たりがこの枝々にあるのだろうか。複雑に入り乱れ、それぞれが多くの葉を付けている。
前を歩くローラムの竜王には威圧感はない。それどころか気配も感じず、世界樹の枝や葉や湖の水のごとく風景に同化している。おそらくローラムの竜王はエトイナ山と一体なのだろう。
自然そのものなのだから、時には寛大で美しく、時には獰猛で恐ろしい。ジンシェンのように絶えず威圧的な姿とローラムの竜王の竜人化は本質的に違うのだ。




