訃報
訃報が届いたのは、市が終わって十日後だった。
運んできたのは、査察官のヴィクトルだった。
彼は馬を降りて、俺の前に立って、そして、頭を下げた。
「アルドリック猊下が、七日前に亡くなられました」
彼は言った。
「最後の三日は、意識がありませんでした」
彼は言った。
「――ですが、その前日まで、書類を書いておられました」
■
ティナが、水車小屋に走った。
俺も追いかけた。
壁のいちばん上の名前の前に、彼女は立った。
『アルドリック』
ティナは、その名前を、指でなぞった。
「――ノアさん」
彼女は言った。
「わたし、この人のこと、まだ許してないです」
彼女は言った。
「一年前、この人に『二度と来るな』って言われました」
彼女は言った。
「でも、目録を返してくれました。原本を」
彼女は壁に手をついた。
「わかんないです」
彼女は言った。
「どう思えばいいか、わかんないです」
俺は隣に立った。
「わからなくていいと思います」
俺は言った。
「――俺も、わかりません」
■
その夜、ヴィクトルが俺に、もうひとつの用件を切り出した。
「町長。次席司教の後任が、決まりました」
彼は言った。
「シメオン猊下です。三十四歳。アルドリック猊下の、直接の弟子です」
彼は言った。
「――そして、この町に、明日到着します」
「明日?」 「はい」
ヴィクトルは言った。
「私は、先触れです」
彼は言った。
「私が今夜ここにいるのは、命令ではありません」
彼は俺を見た。
「猊下の遺言です」
彼は言った。
「『先に行って、名簿を守れ』と」
■
シメオン司教は、翌日の昼に来た。
従者を六人だけ連れた、小さな一行だった。
馬を降りた彼は、若かった。
三十四には見えなかった。二十代半ばに見える、痩せた男だった。
顔立ちは端正で、声は柔らかく、態度は完璧に礼儀正しかった。
「アルカ町長、ノア・ガラット殿」
彼は微笑んだ。
「シメオンと申します。まず、亡き師の名簿を保管していただいたこと、深く感謝申し上げます」
彼は頭を下げた。
「――そして、返却をお願いに参りました」
俺は、シメオンを水車小屋に案内した。
彼は壁の前に立って、上から下まで眺めた。
三分ほどで、彼は言った。
「――千二百四十八名ですね」
彼は言った。
「よく書き写されました」
彼は微笑んだ。
「では、原本を」
「お断りします」
俺は言った。
シメオンの微笑みは、崩れなかった。
「理由を伺っても」 「アルドリックさんが、うちに置けと言ったからです」
「口頭ですか」 「手紙です」
俺は言った。
「持ってきます」
「結構です」
シメオンは手を上げた。
「猊下のご遺志は疑いません」
彼は言った。
「ですが、遺志と、職務は別です」
■
彼が説明したのは、こうだった。
「あの名簿は、聖庁の内部文書です」
彼は言った。
「教会法上、内部文書の外部保管は認められません。猊下は、それを承知で持ち出されました」
彼は言った。
「つまり、あれは盗品です」
俺は言った。
「元は、切られた人たちのものです」
「そうですね」
シメオンは頷いた。
「ですが、法はそう見ません」
彼は言った。
「そして――町長。ひとつ、実務的な話をします」
彼は壁を示した。
「あの名簿が公開され続けると、何が起きるかご存じですか」
彼は言った。
「遺族が、教会に賠償を求めます」
彼は言った。
「千二百四十八人分です。仮に一人あたり銀貨十枚としても、金貨で百二十四枚」
彼は言った。
「教会は、それを払えません」
彼は言った。
「払えないので、救貧院を閉じます」
■
俺は、言葉に詰まった。
「――今、救貧院には二千三百人がいます」
シメオンは言った。
「閉じれば、その二千三百人が出ます」
彼は言った。
「千二百四十八人の名前を守るために、二千三百人を出す」
彼は微笑んだ。
「これが、私の算術です」
その言い方は、アルドリックとまったく同じだった。
そして――どこか、決定的に違った。
「シメオンさん」
俺は言った。
「ひとつ、聞いていいですか」 「どうぞ」 「あなた、その二千三百人の名前、覚えてますか」
シメオンの微笑みが、初めて、わずかに動いた。
「覚えていません」
彼は即答した。
「覚える必要がありません」
彼は言った。
「私は、数を守っています」
■
――そこだ、と俺は思った。
アルドリックは、覚えていなかった。
だが彼は、覚えていないことを、罪だと思っていた。
この男は、思っていない。
「お断りします」
俺は繰り返した。
「町長。これは要請ではなく」 「わかってます」
俺は言った。
「でも、渡しません」
俺は言った。
「アルドリックさんは、死ぬとわかってから、三年かけてこれを集めました」
俺は言った。
「なんでだと思いますか」
シメオンは答えなかった。
「あの人は、自分がやったことを、なかったことにされたくなかったんだと思います」
俺は言った。
「四十年、千二百四十八人を切った。それは事実です。事実を消したら、あの人の四十年も消えます」
俺は言った。
「あなたが今やろうとしてるのは、あの人を捨てることです」
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シメオンは、しばらく黙っていた。
やがて、彼は微笑みを戻した。
「わかりました」
彼は言った。
「本日は、引きます」
彼は言った。
「ですが、町長。ひとつだけ、申し上げておきます」
彼は水車小屋の壁を見た。
「あの名簿は、いずれ聖庁に戻ります」
彼は言った。
「今日ではありません。来年でもないかもしれません」
彼は言った。
「ですが、必ず戻ります。なぜなら――」
彼は俺を見た。
「――記録は、力の強い側に集まるからです」
■
シメオンが去ったあと、ヴィクトルが残った。
彼は水車小屋の前に立って、しばらく壁を見ていた。
「――町長」
彼は言った。
「私は、あの方の下では働けません」
彼は言った。
「一年前、私はあなた方を審問しました。あのときの私は、正しく職務を果たしていました」
彼は言った。
「シメオン猊下も、正しく職務を果たしています」
彼は振り返った。
「――ですが、あの方の正しさは、猊下のものとは違います」
彼は頭を下げた。
「私を、雇っていただけませんか」
俺は驚いた。
「あなた、査察官ですよね」 「辞職しました。今朝」
彼は言った。
「アルドリック猊下の遺言は『先に行って名簿を守れ』でした」
彼は言った。
「――守るには、ここにいる必要があります」




