字を書く老人
その老人が村に来たのは、写しの話が出た三日後だった。
背が低く、腰が曲がっていて、目を細めて歩いていた。
村の入口で、彼は誰にともなく言った。
「――壁は、どこかね」
トビーが案内した。
老人は水車小屋に入って、壁の前に立って、それから、顔を紙に近づけた。
異常なほど近づけた。鼻が紙につくくらいだった。
そして、そのまま、上から順に読んでいった。
三時間かけて、彼は千二百四十八人を全部読んだ。
読み終わって、彼は言った。
「――わしの名は、載っておらん」
彼は言った。
「載っておらんのか」
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俺は老人に椅子を持ってきた。
彼は座って、しばらく壁を見ていた。
「名前は」
俺が聞くと、彼は言った。
「オルド。オルド・ゲレン」
彼は言った。
「聖庁第七文書庫の、写字生だった」
俺は驚いた。
「文書庫の」 「四十二年おった」
彼は言った。
「六年前、目が見えなくなってな。字が読めん写字生は、要らん」
彼は言った。
「辞めさせられた。書式のとおりだ。誰も悪くない」
彼は言った。
「わしは、切られた側だと思っておった」
彼は壁を見た。
「――だが、載っておらん」
彼は言った。
「アルドリック様は、わしを切った覚えがないのだろう」
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その言葉に、俺は何も言えなかった。
この人は、切られたことを確かめに来たのだ。
自分が誰かに切られたのだと、はっきりさせに来たのだ。
そして、名簿になかった。
「――オルドさん」
俺は言った。
「その壁、あと四枚要ります」
彼が顔を上げた。
「字を書ける人が足りません」
俺は言った。
「あなた、四十二年、写字生だったんですよね」
「目が見えんと言ったろう」 「壁は読めましたよね」
俺は言った。
「三時間かけて、千二百四十八人、全部」
オルドは、しばらく黙っていた。
「――近づければ、見える」
彼は言った。
「だが、遅い。人の三倍かかる」
「三倍でいいです」
俺は言った。
「うち、急ぐ理由がないので」
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オルドが最初の一枚を書き終えるのに、二十九日かかった。
彼は毎日、水車小屋に来て、鼻を紙につけるようにして、一文字ずつ書いた。
途中、目が痛むと言って、三日休んだ。
その三日、彼はソナに音の板の話を聞いていた。
「――娘っ子。お前は耳が良すぎて、里を出たそうだな」
「うん」 「わしは目が悪くなって、庁を出た」
彼は言った。
「逆だな」
「同じだよ」
ソナは言った。
「多すぎても、少なすぎても、出される」
オルドは、しばらく黙っていた。
それから、笑った。
「――そのとおりだ」
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オルドが二枚目に取りかかったころ、彼は俺にこう言った。
「ノア。写しを作るなら、もっと速い方法がある」
「あるんですか」 「版だ」
彼は言った。
「文書庫に、古い版木があった。三百年前のものだ。文字を彫った木の板に墨をつけて、紙に押す」
彼は言った。
「一枚彫るのに一月かかるが、彫れば百枚刷れる」
俺は身を乗り出した。
「なんで使われてないんですか」 「聖庁が禁じた」
オルドは言った。
「同じ文書が百枚できると、写字生が要らなくなる」
彼は言った。
「そして、教義書が百枚出回ると、教会を通さずに読む者が出る」
彼は言った。
「――三百年前の話だ。継ぎ手を焼いたのと、同じ年だ」
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俺はミカを呼んだ。
「版木、彫れますか」 「木は無理。あたし鉄しか触らない」
彼女は即答して、それから、少し考えた。
「――でも、鉄でならできる」
彼女は言った。
「文字を一個ずつ、鉄で作る。並べて枠に嵌める。並べ替えれば、別の文書も刷れる」
彼女は言った。
「木に彫ったら、一枚の文書にしか使えないでしょ。もったいない」
オルドが、椅子から立ち上がった。
「――待て」
彼は言った。
「娘っ子。今、なんと言った」
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その冬、村の鍛冶場は、剣も鍬も打たなかった。
ミカと弟子六人が打ったのは、鉄の文字だった。
千八百個。
春までに、それができあがった。




