急ぐ理由
「――座りなさい」
アルドリックが言った。
俺たちは座った。
老人は、しばらく黙っていた。
窓から光が入って、彼の手の甲を照らしていた。
皮膚の下に、青い血管が透けていた。
「ノア・ガラット」
彼は言った。
「一年前、お前は私に聞いた。なぜ急いでいるのか、と」
彼は言った。
「答えよう」
彼は言った。
「私は、二年もたない」
部屋が、静まった。
「病名は、どうでもいい」
アルドリックは言った。
「腹の中に石のようなものができて、それが大きくなっている。治癒魔法は効かない。切れば死ぬ。切らなくても死ぬ」
彼は淡々と言った。
「診断は、三年前だ」
俺は息を呑んだ。
「三年前」 「そうだ」
彼は言った。
「三年前、私は五年と言われた。二年経った」
彼は言った。
「――そして、二年前、お前が私に聞いた。九百九十九人の名前を覚えているか、と」
■
「私は、四十年、間引いてきた」
アルドリックは言った。
「切った者は千を超える。私は、名前を覚えないことでそれを続けた」
彼は言った。
「覚えなければ、罪にならんと思っていたのではない。覚えれば、続けられなくなると思っていた」
彼は言った。
「死ぬとわかってから、私は、それを考え直した」
彼は言った。
「私は、間引いた千人の名前を持たずに死ぬ」
彼は言った。
「それは、千人を二度捨てることだ」
■
「だから、方法を変える」
彼は言った。
「巡行を変えた。継ぎを登録した。目録を返した」
彼は言った。
「私が生きているうちに、選ばなくてよい仕組みを作る」
彼は言った。
「仕組みは、人より長く生きる」
アルドリックは、初めて俺を正面から見た。
「――ノア・ガラット」
彼は言った。
「頼みがある」
■
老人が机の上に置いたのは、分厚い紙束だった。
表紙に、何も書いていなかった。
「これは、私が四十年で切った者の名簿だ」
彼は言った。
「千二百四十八人」
俺は、紙束を見た。
「覚えていないと、おっしゃいましたよね」
「覚えていない」
彼は言った。
「だが、書いてはあった」
彼は言った。
「切るたびに、書式に名前を書いていた。書式は、残る」
彼は言った。
「三年前から、私はそれを集めていた。全部で千二百四十八人」
彼は紙束を押し出した。
「これを、お前の村に置いてほしい」
■
「――なぜ、うちに」
俺が聞くと、彼は言った。
「聖庁に置けば、焼かれる」
彼は言った。
「私が死ねば、次の司教が来る。私の後任は、私より若く、私より徹底している」
彼は言った。
「その男は、この名簿を『不要な記録』と判断する」
俺は、その言葉を聞いて、イレーネ・フォスを思い出した。
不要なものを持たない。
「お前の村には、五十年ぶんを覚えている人形がいる」
アルドリックは言った。
「三百年前の記録を持つ剣がいる。四十年ぶんの水路を覚えている老人がいる」
彼は言った。
「お前の村は、誰も捨てない」
彼は言った。
「――だから、置ける」
■
俺は、紙束に手を伸ばした。
触れた瞬間、視界が変わった。
――紙束の輪郭に、別の姿が重なった。
人が、いた。
千人以上の人が、名簿の上に立っていた。
顔は見えなかった。ただ、そこにいた。
俺は、思わず口に出していた。
「――もったいないな」
アルドリックの手が、止まった。
彼は俺を見た。
「……今、なんと言った」 「もったいない、です」
俺は言った。
「癖なので」
老人は、長いこと俺を見ていた。
そして、初めて――笑った。
顔じゅうの皺が動いて、それが笑顔だとわかるまでに、少し時間がかかった。
「……そうか」
彼は言った。
「私は、それを聞きたかったのかもしれん」
■
俺は紙束を抱えた。
「アルドリックさん」 「なんだね」 「ひとつだけ、条件をつけていいですか」
俺は言った。
「この名簿、うちの村に置きます。壁に貼ります」
俺は言った。
「その一番上に、あなたの名前を書きます」
老人の顔から、笑みが消えた。
「――私は、切った側だ」 「知ってます」
俺は言った。
「でも、あなたも捨てられます」
俺は言った。
「あなたが死んだら、次の司教が来るんですよね。あなたの制度は残るかもしれないけど、あなたの名前は消されます」
俺は言った。
「不要な記録として」
アルドリックは、動かなかった。
「うちは、そういうのを拾う村です」
俺は言った。
「――だから、書きます」
■
控えの間を出るとき、老人が背中に声をかけた。
「ノア・ガラット」 「はい」 「お前は、私を許すのか」
俺は振り返らずに答えた。
「許しません」
俺は言った。
「恨まないけど、許しません」
俺は言った。
「その二つは、別だそうです」
俺は言った。
「――うちの神獣が、言ってました」




