誰もいない村
廃村ロスタは、宿場町から歩いて二日の場所にあった。
最後の半日は道がなかった。三年で草が食ってしまったらしい。
尾根をひとつ越えたところで、ティナが「あっ」と声を上げた。
谷底に、村があった。
屋根が二十いくつ。石垣。畑だったらしい四角い区画。水路。
人の気配はまったくない。
「……綺麗ですね」
ティナが言った。
実際、そうだった。
三年前に全滅した村と聞いていたから、俺は焼け跡か、崩れた廃墟を想像していた。
でも、ロスタは崩れていなかった。
家は建っている。屋根は苔むしているが落ちていない。石垣も水路も、そのままだ。
ただ、人がいないだけだった。
「……妙だ」
エルが言った。
「魔物に襲われて全滅した村が、なぜ壊れていない」 「そうなんですよね」
俺たちは谷を下りた。
■
村の広場に立って、俺は一周見回した。
井戸がある。水はまだ湧いている。
水車小屋がある。羽根が二枚割れているが、軸は生きている。
鍛冶場がある。炉は冷えているが、煉瓦は崩れていない。
畑がある。三年ぶんの雑草に覆われているが、畝の形が残っている。
どの家も、扉が閉まっていた。
俺は一軒の扉を開けた。
鍵はかかっていなかった。
中は、埃を除けば、生活していたそのままだった。
テーブルに椀が四つ。鍋が炉にかけっぱなし。壁に子供の背丈の傷が三本、高さを変えて刻んである。
「……逃げたんですね」
ティナが小さく言った。
「全滅じゃなくて」
俺は椀を一つ持ち上げた。埃の下は無傷だった。
全滅した村では、こうはならない。
人がいなくなった村だ。
「魔物が出て、逃げて、そのまま戻れなくなった」
俺は椀を戻した。
「戻れないうちに、ギルドの記録が『全滅』になって、三年経った」
誰も嘘をついていない。誰も確かめなかっただけだ。
その「確かめなかった」の三年ぶんが、ここに全部そのまま残っている。
■
「小僧」
ボロが袋から飛び降りた。
鼻を上げて、耳を立てている。さっきまでの寝ぼけた顔じゃない。
「いる」 「魔物ですか」 「一体。大きい。……村の外れだ」
俺はティナを見た。
「ティナさん。井戸のとこにいてください」 「え、でも」 「行きましょう、じゃなくて。お願いです」
ティナが唇を噛んで、それから頷いた。
「わかりました。でも、絶対戻ってきてくださいね」 「はい」
■
村の外れの納屋の裏に、それはいた。
岩喰い(ロックイーター)。
牛より大きい、亀のような魔物だ。石を食って、石の甲羅を持つ。
冒険者の等級でいえばC。三十階層に潜るパーティーなら、五分で片付ける。
俺のような人間なら、五分で死ぬ。
「ノア」
エルの声がした。
「私を抜け」 「無理ですよ。折れてるじゃないですか」 「指一本ぶん伸びた」 「指一本で亀は斬れません」 「……たしかにな」
あっさり認めるな。
俺は納屋の陰から、岩喰いを見ていた。
そして、あることに気づいた。
岩喰いは、水路の石を食っていた。
村の水路。石を組んで作った、細い水路。
三年前、村人が逃げたのは、たぶんこいつのせいだ。水路を壊されたら、畑は死ぬ。
「……なあボロ。あいつ、勝てる?」 「今の我では無理だ」
ボロは即答した。
「毛が生えかけの神獣に何を期待している」 「じゃあ、逃げますか」 「小僧。お前は逃げる顔をしておらんぞ」
その通りだった。
俺は水路を見ていた。
三年前に組まれた、石の水路。壊されて、放置されて、雑草に埋もれた水路。
その上流に、水門があった。
木の板を落として水を止める、簡単な仕組みだ。板は外れて、脇に転がっている。
――もったいないな。
俺は納屋の裏から出た。
「おい! ノア!」 「小僧!」
俺は水門まで走った。
岩喰いが顔を上げた。ぎょろりとした目がこっちを向く。
外れた板を拾い上げる。腐っていない。三年、雨に打たれていたはずなのに、芯は生きていた。
――誰かが油を塗っていたんだ。毎年。
俺は板を水門の溝に落とした。
がこん、と音がした。
水が、止まった。
そして、その下流――岩喰いが食っていたあたりの水路が、一気に乾いた。
岩喰いが動きを止めた。
乾いた石を、ぺろりと舐める。
そして、露骨に不機嫌な唸り声を上げた。
「……なんですか、あれ」 「濡れた石しか食わんのだ」
ボロが追いついてきて、言った。
「岩喰いは、水に浸かって柔らかくなった石しか食わぬ。歯が弱いのだ」 「先に言ってくださいよ」 「聞かれなかった」
岩喰いは乾いた水路をしばらく舐めて、諦めた。
のそりと向きを変えて、谷の奥へ歩いていく。
それだけだった。
三年間、村を無人にした魔物は、板を一枚落としたら帰った。
「……嘘だろ」
エルが呆れた声を出した。
「三年だぞ。三年間、誰も水門を閉めなかったのか」 「誰もいなかったので」
俺は水門の板を撫でた。
「村の人が逃げたあと、ここに来たのはギルドの調査隊だけです。調査隊は水路なんか見ません。魔物を探しに来たんですから」
水が止まった水路の底で、小さな魚が跳ねた。
■
井戸に戻ると、ティナが駆け寄ってきた。
「ノアさん! 無事ですか! 怪我は!?」 「板を落としただけです」 「板?」
説明したら、ティナは三回聞き返して、それから盛大に笑った。
「板一枚!?」 「板一枚です」
夕方だった。
谷に日が落ちて、屋根の苔が金色になった。
俺は広場の真ん中に立って、もう一度、村を見回した。
井戸。水車小屋。鍛冶場。畑。二十いくつの家。
どれも、まだ使える。
どれも、誰にも要らないと言われて、三年間ここにある。
「エルさん」 「なんだ」 「村って、拾えると思います?」
同じことを、二回目に聞いた。
エルは、今度はすぐに答えなかった。
しばらくして、鞘の中から、静かな声がした。
「……試してみろ」
俺は屈んで、広場の土に手をついた。
三年ぶんの雑草。踏み固められた地面。そのさらに下に、何十年ぶんかの人の暮らしがある。
目を閉じた。
――視界が、変わった。
煙が上がっている。二十いくつの家から、夕餉の煙が上がっている。
水車が回っている。
鍛冶場の炉が赤い。
畑に人がいて、井戸端に人がいて、子供が広場を走っている。
その景色が、目の前の空っぽの村と、確かに重なっていた。
いま誰もいないだけで、この村は、まだ生きていた。
喉の奥が、詰まった。
「……もったいないな」
俺は目を開けて、はっきりと言った。
「――拾う」
その瞬間、井戸の底から、ごぼ、と音がした。
水位が上がったのだ。
ティナが「わっ」と声を上げて、井戸を覗き込む。
水車小屋のほうで、きし、と軸が鳴った。
風もないのに、割れた羽根がゆっくり半回転して、止まった。
村が、伸びをしたみたいだった。
「……ノアさん」
ティナが振り返った。
顔が、くしゃくしゃになっていた。
「わたし、ここに住んでいいですか」
俺は笑った。
「二人だと広すぎますね」 「四人です!」 「我を数に入れよ」 「私もだ」
うるさい。全員うるさい。
俺は広場の真ん中に立って、大きく息を吸った。
金はない。仲間は剣と狼と聖女失格。人手はゼロ。畑は雑草だらけ。
どう考えても無謀だった。
でも、材料は全部揃っている。
――この村を、もう一度、動かす。
■
その夜、俺たちは村の一番大きな家の炉に火を入れた。
三年ぶりの火だった。
煙突から煙が上がって、谷の上まで昇っていった。
そして、その煙を――
尾根の上から、じっと見ている影があった。
酒瓶を提げた、熊のような大男だった。
男は煙を長いこと眺めて、ぼそりと呟いた。
「……ロスタに、火が点いてやがる」




