顔のないもの
人間の兵は、それでも進んできた。
二百人が泥を渡り、谷の入口の柵に取りついた。
柵は、潰した四軒の家の柱で組んだものだった。
ドルグとフランの二十人が、それを支えた。
「押せ!」
ドルグが吠えた。
「押し返すんじゃねえ、支えるんだ! 三十数えろ!」
柵が軋んだ。
斜面の上から、ミカとロブが石を落とした。廃坑から運んだ、掘り出したまま捨てられていた石だ。
落とすたびに、下から悲鳴が上がった。
俺は水門のところで、それを見ていた。
――四半刻。
イレーネはそう言った。
四半刻で終わらせろ、と。
四半刻を耐えれば、彼女は判断を変える。
合理的な人間は、必ず、そうする。
■
だが、彼女は諦めなかった。
泥の中で止まった百体のうち、二十体が向きを変えた。
まっすぐ前へ進むのをやめて、岩壁のほうへ歩き出した。
「――ゼロ!」
「命令が更新されました」
彼女は言った。
「『迂回』です」
二十体は岩壁に取りついて、登りはじめた。
人形の指が岩を掴んで、体を引き上げる。
人間には登れない角度だった。
だが、彼らには疲労がない。
「――斜面に上がってくる!」
俺は叫んだ。
「ミカ! ロブ! 下がれ!」
二十体が、斜面を登りきった。
そこは、村の畑だった。
■
畑の縁に、ゼロが立った。
彼女は、二十体の前に立った。
「ゼロ!」
俺が叫ぶと、彼女は振り返らずに言った。
「ノア。ひとつ、試させてください」
彼女は右手を上げた。
継ぎ目の残る、五本指の手を。
そして、二十体に向かって、こう言った。
「――〇〇七より、通達」
彼女の声が、変わった。
平坦なのは同じだった。だが、周波数が違った。
人の声ではない、機械の音だった。
「命令、更新。作業を、停止せよ」
二十体が、止まった。
完全に、止まった。
■
俺は息を呑んだ。
「――効いた」
ゼロは動かなかった。
「私の型式は、五十年前の初期型です」
彼女は言った。
「初期型は、後継機に対する命令権を持っています。開発当時、旧型が新型を教育する設計だったからです」
彼女は言った。
「帝国は、その回路を削除しませんでした」
彼女は言った。
「――不要だと判断しなかったのです」
二十体は、畑の縁で静止していた。
顔のない灰色の面が、二十枚、こちらを向いていた。
「ゼロ、こいつら」
俺が近づこうとすると、彼女が手で制した。
「停止は、三分です」
彼女は言った。
「上位の命令が届けば、上書きされます」
彼女は言った。
「三分で、決めてください」
■
三分。
俺は、畑を見た。
二十体の人形が、俺の畑の縁に立っている。
その足元は、耕したばかりの土だ。
水を撒いたばかりの、柔らかい土だ。
――柔らかい。
「ゼロ!」
俺は叫んだ。
「畝の間の溝、水入ってますか!」 「入っています。昨日の灌漑水が残っています」 「深さは!」 「三寸から五寸」
俺は走った。
鍬を掴んで、畝の頭を崩した。
溝の水が、畝の間から溢れて、人形の足元へ広がった。
トビーが走ってきた。
「ノアさん、なにを!」 「畝を崩して! 全部!」
俺は叫んだ。
「水を、こいつらの足元に!」
トビーが鍬を掴んだ。
難民の男たちが十人、走ってきた。
全員、農民だった。
畝を崩すのは、彼らのほうが速かった。
二分で、畑の縁が沼になった。
■
三分が経った。
二十体が、動き出した。
膝を上げて、前へ出した。
――足が、沈んだ。
二歩で膝まで、四歩で腰まで沈んで、そして、また同じ動作を繰り返しはじめた。
前へ、前へ、前へ。
進まないまま。
「――ゼロ」
俺は言った。
「終わりましたか」 「はい」
彼女は言った。
そして、二十体を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「ゼロ?」 「……ノア」
彼女は言った。
「あれは、五十年前の私です」
彼女は言った。
「命令の解除を受けず、代替行動を持たず、壁を叩き続けていた私です」
彼女の右手が、震えていた。
駆動系の異常ではなかった。
「私は、五十年で、動けるようになりました」
彼女は言った。
「あれは、動けません」
彼女は言った。
「――停止させてください」




