板を上げる
俺は谷を駆け上がった。
「ドルグさん!」 「聞こえてた!」
彼は既に動いていた。
「フラン! 入口の柵を上げろ! 男連中を斜面に!」 「了解!」
フランが右手だけで指揮した。
三年間、部隊を並ばせてきた男だった。二十人の百姓が、十秒で三列になった。
俺は水路のほうへ走った。
「ソナ!」 「いる!」
彼女は岩の上にいた。耳覆いを外して、両手で耳を押さえている。
「足音、揃ってる! 二百くらい! 入口の道に入った!」 「進む速さは?」 「ゆっくり。……あ、待って」
彼女は目を閉じた。
「前の五十が速い。後ろが遅い」
彼女は言った。
「後ろの音、金属。人形が後ろ」
■
俺は水門に着いた。
村の上流。石組みの水路が谷を回り込んで、その分岐に、板を落とす溝がある。
一年半前、俺がここに板を落とした。
あのときは、水を止めた。
今度は、逆だ。
「ゼロ!」
彼女が追いついてきた。
「板を、上げます」
俺は言った。
「上げると、水はどこへ行きますか」
ゼロは水路を三秒で見た。
「本流は畑へ。ただし、溝の第二分岐が三年前の崩れで埋まっています。上げれば、水はそちらへ溢れます」
彼女は言った。
「第二分岐の下は――谷の入口の道です」
俺は頷いた。
「知ってます」
俺は板の握りを掴んだ。
「カル爺さんが、昨日教えてくれました」
■
昨日の夜、荷車の上の老人は、こう言った。
――小僧。四十年ここにおって、いっぺんだけ、水門を上げっぱなしにした年がある。
――大水の年だ。水が第二分岐から溢れて、入口の道が沼になった。三日、荷車が通れんかった。
――村の若い衆が総出で膝まで泥に浸かって、荷を担いで運んだ。
――あれは、えらい難儀だった。
老人はそう言って、それから、こう付け加えた。
――わしは、あれを直さんかった。直す金がなかった。
――だが今は、直さんでよかったと思うとる。
■
「上げます」
俺は板を引き上げた。
水が、一気に方向を変えた。
埋まりかけた第二分岐に流れ込んで、そこから溢れて、谷の入口の斜面を下りはじめた。
俺は岩の上から、それを見ていた。
入口の道は、緩い下り坂で、両側が岩壁だ。
水は逃げ場がなかった。
そして、その道の土は――三年間、荷車が通らなかった谷の土だった。
草の根が張って、その下は柔らかい。
水が染みると、泥になる。
■
最初の五十人が、道の真ん中で足を取られた。
膝までではない。せいぜい足首だった。
だが、足首の泥は、走る速度を半分にする。
隊列が、初めて乱れた。
そして、その後ろから――百体の人形が来た。
彼らは足を止めなかった。止めるという判断をしなかった。
同じ歩幅で、同じ速度で、泥に踏み込んだ。
三歩で、膝まで沈んだ。
五歩で、腰まで沈んだ。
人形の体は、金属でできている。
人間より、はるかに重い。
「――止まった」
ソナが言った。
「音が、止まった」
■
百体の人形が、泥の中で動きを止めた。
沈んだのではない。動作を続けていた。
膝を上げて、下ろして、また上げる。
泥の中で、その動作を、まったく同じ速度で繰り返していた。
前に進んでいなかった。
「――ゼロ」
俺は聞いた。
「あれ、なんで止まらないんですか」
ゼロは、長いこと答えなかった。
やがて、平坦な声で言った。
「――『前進』という命令を受けています」
彼女は言った。
「前進が不可能な場合の代替行動が、設定されていません」
彼女は言った。
「顔を削いだのと、同じです。不要と判断されたのです」
彼女は言った。
「判断する機能が」




