イレーネ・フォス
朝靄の中に、それは現れた。
谷の入口の外、街道から分かれた道の上に、隊列が並んでいた。
数えるまでもなかった。
道幅いっぱいに四列、それが奥まで続いている。
「――四百」
フランが呟いた。
「本隊二千のうち、四百をこっちに割いた」
彼は右手だけで双眼鏡代わりの筒を構えた。
「うち、二列目が百。……あれが、顔なしだ」
隊列は、動かなかった。
人間の軍なら、この距離で必ずざわめきが起きる。誰かが咳をして、誰かが足を踏み替える。
起きなかった。
四百が、石のように静止していた。
■
やがて、隊列の中央が割れた。
一騎が進み出た。
馬から降りたのは、女だった。
二十代の半ばくらいで、背は高くない。灰色の外套の下に、装飾のない胸甲をつけている。
髪は短く切りそろえられていて、色は薄い茶色だった。
顔立ちは整っているが、目に何の表情もなかった。
彼女は谷の入口から十歩の位置まで歩いてきて、そこで立ち止まった。
「――帝国第七軍団、分遣隊指揮官。イレーネ・フォス」
声は、思ったより高かった。
そして、思ったより丁寧だった。
「この谷の代表者と話をしたい」
俺は、谷の入口へ歩いた。
ドルグが止めようとしたが、俺は首を振った。
岩の陰から出て、俺は言った。
「ロスタ集落、代表のノア・ガラットです」
イレーネは俺を見た。
上から下まで、値踏みするでもなく、ただ確認するように見た。
「若いな」 「十七です」 「そうか」
彼女は頷いた。
「では、話が早いことを期待する」
彼女が提示したのは、こうだった。
「我々は、この谷を通らない」
イレーネは言った。
「谷に軍事的価値はない。街道から外れており、迂回路にもならない」
彼女は言った。
「我々が必要としているのは、食料と燃料だ。特に燃料――黒炭。この谷でしか出ない」
彼女は言った。
「差し出せば、我々は去る。人は殺さない」
俺は言った。
「全部渡したら、百四十二人が飢えます」
「知っている」
イレーネは即答した。
「だから、全部とは言わない」
彼女は言った。
「六割でいい」
「六割でも」 「六割渡した場合、この谷の百四十二人のうち、冬を越せるのは何人だ」
彼女は聞いた。
俺は答えられなかった。
答えは、リディアの帳簿の中にあった。
六割渡せば、越せるのは――八十人ほどだった。
「六十二人が死ぬ」
イレーネが言った。
「だが百四十二人は死なない。差は八十だ」
彼女は言った。
「私は今、八十人を助ける提案をしている」
「――八十人を助ける、じゃないです」
俺は言った。
「六十二人を殺す提案です」
イレーネは、少しだけ首を傾げた。
「同じことだ」 「違います」
俺は言った。
「六十二人には、名前があります」
彼女は、俺をじっと見た。
初めて、彼女の目に何かが動いた。
興味、に近いものだった。
「――君は、それを言うのか」
彼女は言った。
「私が今まで話した集落の代表は、全員こう言った。『どの六十二人を出せばいいか』と」
彼女は言った。
「彼らは、既に選んでいた。老人と、病人と、身寄りのない者だ」
イレーネは言った。
「それが普通だ。人は、必ず選ぶ」
■
「――あなたは、選ばないんですか」
俺が聞くと、彼女は初めて表情らしいものを見せた。
口の端が、ほんのわずかに動いた。
「選ばない」
彼女は言った。
「帝国軍は、選ばない」
彼女は背後の隊列を示した。
「あの四百のうち、負傷して動けなくなった者は、その場で本隊に戻される。戻された者は治療を受け、治れば復帰し、治らなければ工廠へ回される」
彼女は言った。
「捨てない。全員、使う」
彼女は言った。
「なぜなら、捨てるという判断そのものが、資源の浪費だからだ」
俺は、その言葉を聞いて、背筋が冷えるのを感じた。
この人は、アルドリックと似ている。
似ていて、そして――もっと徹底している。
「二列目の百体を見たか」
イレーネが言った。
「あれは、顔を削いだ。目も、鼻も、口もいらない。作らなければ、その分だけ早く多く作れる」
彼女は言った。
「私の帝国は、不要なものを持たない。だから強い」
■
「――イレーネさん」
俺は言った。
「ひとつ聞いていいですか」 「どうぞ」 「あなた、名前が二つありますよね」
彼女の眉が、動いた。
「イレーネ・フォス。フォスって、家名ですよね」
俺は言った。
「不要なものを持たない国が、なんで家名を残してるんですか」
イレーネは、答えなかった。
彼女は俺を見ていた。
その目に、初めて、はっきりした感情が浮かんだ。
――それが何なのか、俺にはわからなかった。
「……興味深い」
彼女は言った。
「君は、私が今まで会った誰とも違う」
彼女は言った。
「では、条件を変えよう」
■
イレーネが提示した第二案は、もっと悪かった。
「黒炭は要らない」
彼女は言った。
「代わりに、人を出せ」
彼女は言った。
「この谷には、五十年前の自動人形が一体いる。斥候が確認した」
俺の全身が、固まった。
「あれは、帝国にとって価値がある」
イレーネは言った。
「我々の型は完成しているが、初期型の摩耗記録は持っていない。五十年稼働した個体は、資料として極めて有用だ」
彼女は言った。
「あれを差し出せ。そうすれば、食料も燃料も取らずに去る」
彼女は言った。
「百四十二人が、全員生きる」
■
谷の入口に、沈黙が落ちた。
俺の背後で、誰かが息を呑む音がした。
振り返らなくても、それが誰かはわかった。
「――ノア」
ゼロの声だった。
彼女は岩陰から出てきて、俺の隣に立った。
「合理的な提案です」
彼女は言った。
「私は一体です。彼らは百四十二人です。数値上、比較になりません」
彼女は言った。
「私が行きます」
「ゼロ」 「私は道具です」
彼女は言った。
「道具は、使うためにあります。この使い方が、最も効率的です」
彼女は俺を見た。
無表情だった。いつもどおりの、まったくの無表情だった。
「……ノア」
彼女は言った。
「私は、五十年、命令の解除を待っていました」
彼女は言った。
「今、あなたが命令すれば、私は行きます」
■
俺は、ゼロの右手を見た。
継ぎ目の残る、五本指の手。
ミカの青い鉄と、元の銀の指と、ティナの金の線。
あの手を打った夜、彼女は「駆動音が五十年前と同じです」と言った。
この音を聞くのは久しぶりです、と。
俺は顔を上げた。
「――イレーネさん」
俺は言った。
「断ります」
彼女の目が、細くなった。
「理由を聞こう」 「不要じゃないからです」
俺は言った。
「あなた、不要なものを持たない国だって言いましたよね」
俺は言った。
「うちは、逆です」
俺は言った。
「うちは、要らないって言われたものだけでできてます」
俺は谷を示した。
「あの水車は羽根が二枚割れてました。あの家は三年空でした。あの井戸は誰も汲まなかった。あの鍛冶場は炉が冷えてました」
俺は言った。
「この剣は折れてました。あの狼は毛が抜けてました。あの子は聖女失格でした」
俺は言った。
「ゼロは、五十年、廃坑で壁を叩いてました」
俺は言った。
「全部、要らないって言われたやつです」
俺はイレーネを見た。
「そこから一個抜いたら、うちは崩れます」
■
イレーネは、長いこと黙っていた。
やがて、彼女は言った。
「――君は、算術ができないな」
彼女は背を向けた。
「では、取る」
彼女は隊列に向かって歩き出した。
「第三、第四中隊。谷へ」
彼女は振り返らずに言った。
「集落は制圧する。抵抗する者は排除。人形は捕獲」
彼女は言った。
「――四半刻で終わらせろ」




