弟
霊峰の泉は、頂上の少し下、岩に囲まれた窪地にあった。
着いた瞬間、俺は何も言えなくなった。
窪地の底に、水があった。
ただし、俺の手のひらほどの水たまりだった。
周りの岩には、水位の跡が輪になって残っていて、いちばん高い跡は、俺の腰の高さにあった。
三年で、腰の高さから手のひらまで減っていた。
「――遅い」
声がした。
窪地の縁に、狼が立っていた。
ボロと同じくらいの大きさで、しかし毛は灰色のままで、銀色ではなかった。
目つきが、ボロによく似ていた。
「三年だ、兄者」
ガルドは言った。
「三年、待った」
■
ボロが窪地を降りていった。
二頭は、水たまりを挟んで向き合った。
その周りに、いつのまにか狼が集まっていた。二十頭ほどいた。どれも痩せていた。
「ガルド」
ボロが言った。
「泉は、まだ細るか」 「細る」
ガルドは答えた。
「一日に、指の幅ほど」
彼は水たまりを見た。
「あと三月で、涸れる」
「その間、誰が泉のそばにいた」 「俺だ」
ガルドは言った。
「三年、俺がいた。夏も冬も、ここにいた」
彼の毛並みを、俺は改めて見た。
痩せていた。腹が凹んでいて、肋が浮いていた。
群れの中で、いちばん痩せているのは、長だった。
「……効かぬのか」
ボロが言った。
「効かぬ」
ガルドは答えた。
「俺がいても、泉は細る」
彼は初めて、声を荒らげた。
「なぜだ、兄者! なぜ兄者がいたときは湧いて、俺がいると細る!」
ガルドが吠えた。
「俺は三年、ここを離れていない! 獲物も食わずに! 群れが飢えても! 俺はここにいた!」
彼は震えていた。
「兄者を落として、俺が代わりを務めれば、山は戻ると思った!」
――そこで、俺は理解した。
この狼は、兄を追い出したのではない。
兄の代わりに、死ぬつもりだったのだ。
■
「ガルド」
ボロが静かに言った。
「お前は、我を落とした日、泣いていたそうだな」
ガルドの動きが止まった。
「……誰が」 「山の娘だ」
ボロが振り返った。
窪地の縁で、ソナが耳覆いを外して立っていた。
「聞こえたって」
彼女は言った。
「三年前の夜。あなた、一人になってから、ずっと泣いてた。『兄者、すまん』って、何回も」
狼たちが、一斉にガルドを見た。
ガルドは、何も言わなかった。
言えなかったのだと思う。
「――ガルド」
ボロが言った。
「我は、お前を恨んでおらぬ」
彼は言った。
「だが、許してもおらぬ」
ボロは水たまりのそばまで歩いた。
「なぜなら、お前は間違えたからだ」
彼は言った。
「泉が細ったのは、我が老いたからではない。お前が足りぬからでもない」
ボロは水たまりを覗き込んだ。
「――泉は、我らのせいで細ったのではない」
■
俺は窪地を降りて、水たまりのそばにしゃがんだ。
水は澄んでいた。濁ってはいない。
俺は手を入れた。
冷たかった。ただの水だった。
それから、俺は底を触った。
岩ではなかった。
――砂利だった。
「ドルグさん」
俺は呼んだ。
「ここ、底に砂利が溜まってます」
ドルグが降りてきて、水たまりに手を突っ込んで、しばらく探ってから、顔を上げた。
「……坊主」
彼の声が、低かった。
「これ、湧き口が埋まってる」
彼は砂利を掬い上げた。
「湧き水ってのはな、岩の割れ目から出る。割れ目に砂利や泥が詰まると、水は出口を失って、別のところに逃げる」
ドルグは掬った砂利を見せた。
角が丸くなった、川の砂利だった。
「三年前、この上で崩れがあったな」
彼は岩壁を見上げた。
窪地の上の斜面に、崩れた跡があった。三年ぶんの草が生えていたが、地形が明らかにえぐれていた。
「崩れた土砂が、少しずつ流れ込んで、湧き口を塞いだ」
ドルグは言った。
「――それだけだ」
■
狼たちが、ざわめいた。
ガルドが、窪地に降りてきた。
「それだけ、だと」
彼は掠れた声で言った。
「三年、俺がここにいたのは」
「関係なかった」
ドルグは容赦なく言った。
「お前が飢えたのも、兄貴が落ちたのも、全部、関係なかった」
ガルドが、崩れ落ちた。
ボロが、その隣に立った。
「――ガルド」
彼は言った。
「我も、七日七晩、無駄に立っておった」
彼は言った。
「兄弟そろって、間抜けだ」




