聖女、失格
雨脚が強くなってきた。
通りの人間はみんな軒下に逃げ込んでいる。荷車を引いていた親父も、パン屋の店先も、さっさと店じまいを始めた。
教会の石段だけが、空いていた。
女の子がひとり、いちばん下の段に座っている。
亜麻色の髪が濡れて頬に貼りついていた。修道服。膝の上に古い革の鞄。動かない。俯いてもいない。ただ、まっすぐ前を見ている。
「ノア」 エルが言った。 「行くな。あれは人だ。人は拾えん」 「拾いませんよ」 「本当だな?」 「……たぶん」 「おい」
俺は歩いていって、女の子の頭の上に、焦げた外套を広げた。
女の子が、ゆっくり顔を上げた。
そばかすが散った顔だった。目が赤い。泣いたあとの赤さじゃなくて、泣くのを我慢しすぎた赤さだった。
「……えっと」 「濡れますよ」 「あ、はい。あの、大丈夫です」 「大丈夫じゃないですよね」 「大丈夫です!」
妙に元気よく言い切って、その子はにこっと笑った。
うまい笑い方だった。何度も練習した人の笑い方だ。
「わたし、ちょっと座ってただけなので。すぐ帰るので。ほんとに」
俺は隣に座った。
「ええっ」 「傘がないので」 「え、あ、はい……?」
二人で外套を頭に乗せて並んで座った。かなり間抜けな絵面だと思う。
雨が石段を叩く音が続いた。
しばらくして、その子がぽつりと言った。
「……あなた、教会の人じゃないですよね」 「違います」 「よかった」
それから、また黙った。
膝の鞄の口から、押し込まれた布がはみ出しているのが見えた。急いで詰めたのがわかる詰め方だった。
「出てきたんですか」 「出されました」
あっさりした答えだった。
「今日、適性試験だったんです。三年に一度の。治癒魔法を十回唱えて、一回でも成功すれば聖女見習いを続けられるんですけど」 「何回成功しました」 「ゼロです」
その子は、指を折って数えるみたいに言った。
「五歳のときからずっとゼロなんです。十一年で、たぶん四千回くらい唱えました。ぜんぶ失敗です。すごくないですか、四千回」
笑いながら言った。
「司教様に呼ばれて、『お前には神の恩寵がない』って。『これ以上、教会の食い扶持を減らすな』って」
俺は何も言わなかった。
「あ、でも司教様も忙しいので! 仕方ないんです。教会もお金ないですし。わたしが悪いので。ぜんぜん、大丈夫なんです」
――大丈夫です、を、この子はこれで四回言った。
俺は数えていた。
「名前、聞いていいですか」 「ティナです。ティナ・アルベールです」 「ノアです」
ティナが、少し笑った。今度はさっきよりましな笑い方だった。
「ノアさんは、何してる人ですか」 「無職です」 「えっ」 「三日前にクビになりました」 「あっ、えっ、ごめんなさい!」 「謝られると、けっこうきついですね」 「ごめんなさい!」
■
雨が少し弱まった。
ティナが鞄を抱え直したとき、口から布が滑り落ちて、石段の水たまりに落ちた。
俺が拾い上げると、それは布ではなかった。
人形だった。
布でできた、へたくそな人形。手足がついていて、顔に糸で目と口が縫ってある。片腕がちぎれて、胴体の綿がはみ出していた。
「あ、それ」
ティナが慌てて手を伸ばした。
「それは、いいんです。捨てるやつなので」 「捨てるんですか」 「はい。もう壊れちゃったので。教会の子供たちにあげようと思って作ったんですけど、腕が取れちゃって。壊れたものをあげるわけにいかないから」
ティナは笑った。
「わたし、治せないので」
――視界が、変わった。
人形の輪郭に、別の姿が重なった。
ちぎれていない、腕のついた人形。それだけだ。伝説の剣でも神獣でもない。ただの、下手くそな布人形だ。
でも、その重なった姿は、ちゃんとそこにあった。
俺は袋から針と糸を出した。
「え?」 「ちょっと待ってください」
石段に座ったまま、腕を縫いつけた。
荷物持ちを三年やっていると、縫うのだけはうまくなる。破れた背嚢を毎晩縫っていたからだ。
綿を押し込んで、糸を回して、玉留めをして。
二分で終わった。
俺は人形を差し出した。
「はい」
ティナは受け取らなかった。
受け取らずに、人形を見ていた。
そして、口を押さえた。
「あ、あれ」
声が震えていた。
「あれ、なんで……なんで、わたし」
ぼろぼろ泣き出した。
石段に座って、雨の下で、十六歳の女の子が声を上げて泣いた。
「治らないと思ってたのに! だって、わたし、なんにも治せないのに! 四千回! 四千回やって一回も!」
言葉になっていなかった。
俺は黙って、外套をもう少し彼女の側にずらした。
■
泣きやむまで、けっこうかかった。
ティナは人形を抱えて、鼻をすすりながら言った。
「……ノアさん、魔法使いですか」 「違います。針と糸です」 「なんでですか」 「壊れてたので。もったいなかったので」
ティナは人形の腕を、そっと引っ張った。取れなかった。
もう一度引っ張った。取れなかった。
三回目でやっと納得して、彼女は人形を胸に抱えた。
「あの」 「はい」 「ノアさん、これからどこ行くんですか」
俺は考えた。
行くところはない。仕事もない。所持金は銅貨四枚。
「決めてないです」 「……あの、じゃあ」
ティナが、鞄の持ち手をぎゅっと握った。
「わたしも、行くところがないんですけど」
声が小さくなった。
「わたし、治癒魔法できないですし、力もないですし、たぶんぜんぜん役に立たないんですけど、でも、荷物は持てますし、ごはんは少なくても平気ですし」
早口になった。
「あの、その、迷惑だったら全然いいんですけど、でも、あの」
俺は立ち上がって、手を差し出した。
「ティナさん」 「は、はい」 「食い扶持、俺も四日ぶんしかないです」 「はい」 「あと、うるさい剣と、食い意地の張った狼がいます」 「はい?」
袋の上でボロが顔を上げた。腰でエルが「うるさいとはなんだ」と唸った。
ティナが、ぽかんとした。
「行きましょう」
ティナは俺の手を見て、それから顔を上げた。
そして今日いちばんまともな顔で笑った。
「……はい!」
■
その夜、宿の一番安い部屋で、四人で干し肉を分けた。
ボロが半分持っていった。
「多くないですか」 「我は神獣ぞ」 「関係ないでしょう」
ティナが声を上げて笑った。笑いすぎて咳き込んでいた。
窓の外はまだ雨だった。
俺は思っていた。
三日前まで、俺は勇者パーティーの荷物持ちだった。
今は無職で、金がなくて、抱えているのは折れた剣と、ぼろ狼と、聖女失格の女の子。
どれも、誰かが「要らない」と言って手放したものだ。
――もったいない。
本当に、心の底からそう思った。
そして三日後、この宿場町の冒険者ギルドに、勇者パーティー「暁の剣」が転がり込んでくることになる。
全員、ぼろぼろの状態で。




