毛玉を拾った
最初は風だと思った。
宿場町の裏路地。積み上がった木箱と生ゴミの間で、灰色の何かがもぞりと動いた。
「ノア。無視して歩け」 「なんでですか」 「嫌な予感がする。あれは良くないものだ」
エルの声を無視して、俺はゴミの山に近づいた。
灰色の毛玉が転がっていた。
猫より少し大きいくらいだ。毛はところどころ抜けて地肌が見えている。泥と、たぶん血で汚れていた。
目を閉じて、震えている。
「……犬か?」 「狼だ」
エルの声が、急に真剣になった。
「ノア、下がれ。それは狼だ。しかもただの狼じゃない」 「弱ってますよ」 「弱っている今が一番危ない。獣は追い詰められると――」
毛玉が、目を開けた。
金色の目だった。
そして、掠れた声で、はっきりとこう言った。
「……腹が、減った」
俺は動きを止めた。
「喋りましたね」 「喋ったな」 「今日、喋るものに会いすぎでは?」 「私を『もの』と呼ぶな」
毛玉はもう一度、うう、と唸って、それから力尽きたように地面に伏せた。
俺は屈み込んだ。
汚れた毛の下に、大きな傷があった。脇腹が裂けている。血は止まりかけているが、乾いた血の量が尋常じゃない。
「……誰かに斬られてる」 「当然だろう。街の裏に魔獣がいれば、討伐される」
毛玉が薄目を開けて、俺を見た。
「……我は」
声が細い。
「我は、灰狼シリウス。北の霊峰を守りし……神獣、である」 「神獣」 「うむ」 「神獣がゴミ捨て場にいるんですか」
毛玉は、しばらく黙った。
それから、消え入りそうな声で言った。
「……眷属に、裏切られた」
俺は何も言わなかった。
「群れが、我を要らぬと言った。老いた、と。守るに値せぬ、と。……そう言って、山から落とした」
毛玉の耳が、ぺたりと寝た。
「我は、捨てられたのだ」
――ああ。
視界が、変わった。
毛玉の輪郭に、別の姿が重なって見えた。
馬より大きい灰色の狼。銀色に光る毛並み。金色の目。堂々と山の稜線に立っている。
その姿が、目の前の薄汚れた毛玉と、確かに繋がっていた。
「……もったいないな」
口に出していた。
「なんだと」 「いや、こっちの話です」
俺は背負い袋を下ろした。
割れたポーション瓶を一本取り出す。中身は三分の一ほど残っている。
「動かないでくださいね。しみます」
傷口に垂らした。
毛玉が「ぎゃっ」と情けない声を上げた。神獣の威厳が一瞬で消えた。
「痛い! 痛いぞ小僧!」 「そりゃ痛いです」 「加減というものが」 「ないです」
焦げた外套の裾を切って、包帯代わりに巻いた。
それから、袋の底に残っていた干し肉を、最後の一枚まで出した。
三日分の食料の、最後の一枚だ。
「食えますか」
毛玉は干し肉を見て、俺を見て、また干し肉を見た。
そして、飛びついた。
勢いよく食って、噛んで、飲み込んで、それから急に恥ずかしくなったのか、ごほんと咳払いをした。
「……礼は言わぬぞ」 「はい」 「神獣は礼を言わぬのだ。そういうものなのだ」 「はい」
俺はしゃがんだまま、毛玉の頭に手を置いた。
毛はごわごわで、砂だらけだった。
「あんた、名前は」 「シリウスだと言ったであろう」 「群れがくれた名前ですよね」 「……そうだが」
毛玉が、ぴくりとした。
「捨てた連中がつけた名前を、これからも背負うんですか」
しばらく、返事がなかった。
路地の向こうから、通りの雑踏が聞こえてくる。パンを売る声。荷車の車輪。子供が走る音。
「……なら」
毛玉が、ぼそりと言った。
「お前がつけろ」
俺はちょっと困った。
名前をつけるのは苦手だ。ばあちゃんの店の猫に「ネコ」とつけて三日怒られたことがある。
毛玉を見た。灰色で、ぼろぼろで、ふてぶてしくて、腹が減っている。
「ボロ」 「は?」 「ボロで」 「待て。待て待て待て」
毛玉が跳ね起きた。傷が痛かったのか、途中で「うぎゃ」と潰れた。
「もっとあるだろう! こう、荘厳な! 銀嵐とか! 覇王とか!」 「ボロがいいです」 「なぜだ!」 「ぼろぼろで、拾ったので」
毛玉はしばらく口をぱくぱくさせていた。
そして、がっくりと首を垂れた。
「……ボロ、か」 「嫌ですか」 「……いや」
毛玉は、ふっと息を吐いた。
「呼ばれるのは、久しぶりだ」
その瞬間だった。
毛玉の体が、ぼう、と淡く光った。
抜けていた毛が、うっすらと生えてきている。ほんの少しだ。地肌が見えていた背中が、産毛で覆われる程度の、本当にささやかな変化だった。
でも、確かに変わった。
「おい」
エルの声がした。
「ノア。お前、今、何をした」 「拾いました」 「拾っただけで、こうなるか」
俺は自分の手を見た。
わからない。三年間、こんなことは一度もなかった。
ただ――ばあちゃんが言っていたことを思い出した。
道具はな、名前を呼んでやると長持ちするんだよ、と。
あの人は、店の鍋にも金槌にも全部名前をつけていた。近所では変わり者で通っていた。
「ノア」 「はい」 「腹が、減った」 「さっき食ったでしょう」 「足りぬ」
ボロが俺の膝によじ登ってきた。ずしりと重い。見た目より重い。
「連れていけ。我を養え」 「え」 「拾ったのだろう。ならば最後まで面倒を見よ。それが道理である」
言い分としては筋が通っている気もするし、通っていない気もする。
財布には銅貨が十一枚。
俺は溜め息をついて、ボロを袋の上に乗せた。
「……パン一個までですよ」 「二個だ」 「一個半」 「よかろう」
腰の剣が、呆れたように呟いた。
「……お前、拾いすぎだ」
■
パンを買って、宿場町の通りを歩いた。
ボロは袋の上でパンを齧っている。エルは腰でぶつぶつ文句を言っている。
三日前まで、俺は勇者パーティーの荷物持ちだった。
今は無職で、所持金は銅貨四枚で、喋る剣と喋る狼を連れている。
どう考えても状況は悪化している。
なのに、なぜか背中が軽かった。
――その通りの先、教会の白い塔が見えたとき。
石段に、女の子がひとりで座っていた。
雨が降り出していた。
その子は、傘もささずに、動かなかった。




