北から来た狼
その狼が村の入口に現れたのは、俺たちが帰った翌朝だった。
灰色の若い狼で、体は大きかったが、痩せていた。前脚を引きずっていて、右の耳が半分ちぎれている。
村の犬が一斉に吠えたが、狼は吠え返しもせず、ただ広場の手前で座り込んだ。
そして、ボロを見た。
「――ハギか」
ボロが低く言った。
仔馬ほどになった彼が立ち上がると、若い狼は腹を地面につけて、頭を下げた。
「……長」
声が掠れていた。
「探しました。三年、探しました」
「我はもう長ではない」
ボロは言った。
「群れが我を落とした。落とされた獣に、長の資格はない」
若い狼は、頭を上げなかった。
「霊峰が、枯れています」
彼は言った。
「泉が涸れて、水場が三つ消えました。獲物が下りてしまって、群れは飢えています」
ハギは震えていた。
「長。……いえ、シリウス様。戻ってきてください」
■
村の広場に、狼と人間が入り混じって座るという、なかなか見ない光景ができあがった。
ティナが真っ先にハギの前脚に手を伸ばして、ハギが跳び上がって、ボロに「落ち着け」と怒られていた。
「怪我、見せてください」 「い、いや、我は」 「見せてください」
結局ティナが押し切って、ハギの前脚に添え木を当てた。
彼女は人体には効きにくいと言っていたが、添え木と包帯なら誰でもできる。狼は骨が細いので、木を当てるだけでもだいぶ違うらしい。
「ありがとう、ございます」
ハギは戸惑いながら礼を言った。
「人間に、礼を言ったのは初めてです」
ドルグが腕を組んだまま聞いた。
「小僧、三年前に何があった」
ハギは、しばらく黙ってから、話し始めた。
「霊峰の頂に、泉があります。そこから水が湧いて、山を下り、麓の川になります」
彼は言った。
「群れは、代々その泉を守ってきました。守るというのは、泉のそばにいて、そこの気を絶やさぬということです」
「気」
俺が聞き返すと、ハギは首を振った。
「言葉にできません。ただ、群れの誰かがそこにいると、泉は湧きます。誰もいなくなると、細ります」
彼は続けた。
「三年前、泉が急に細りました。理由はわかりませんでした。シリウス様は、七日七晩、泉の前を離れませんでした」
ハギの声が落ちた。
「八日目の朝、シリウス様は倒れました。毛が抜けて、痩せて、立てなくなっていました」
俺はボロを見た。
ボロは、目を閉じていた。
「そのとき、ガルドが言いました。『長は老いた。守るに値せぬ』と」
ハギは言った。
「群れは、それを信じました。……信じたというより、そう思いたかったのだと思います。長が力を使い果たしたと認めるより、老いたと思うほうが、楽だったので」
■
「ボロ」
俺は呼んだ。
「なんだ」 「あなた、七日七晩、泉のそばにいたんですか」 「いた」 「そのせいで、力が抜けたんですか」
ボロは目を開けた。
「知らぬ」
彼は言った。
「あのとき、我は何も考えておらなんだ。泉が細るのを見ていたら、離れられなかった。それだけだ」
彼は俺を見た。
「小僧、お前と同じだ」
俺は少し驚いた。
「壊れたものが目の前にあると、眠れぬのだろう」
ボロは言った。
「我もそうだった。それだけの話だ」
■
「なぜ、群れに言い返さなかったのですか」
ゼロが聞いた。
彼女は最初から輪の外に立って、記録するように話を聞いていた。
「言い返せば、あなたは落とされずに済みました」
「言い返せなんだ」
ボロは答えた。
「あのとき、我は立てなんだ。立てぬ獣が『我はまだ守れる』と言っても、誰も信じぬ」
彼は言った。
「そして――我自身も、信じておらなんだ」
ゼロは、しばらく黙った。
「……理解できます」
彼女は言った。
それは、彼女が初めて「理解できます」と言った瞬間だった。
「私は五十年、壁を叩いていました。命令を解除されていなかったからではありません」
ゼロは言った。
「壁を叩くのをやめたら、私が不良品であることが、確定するからです」
■
その日の夕方、村の会議は短く終わった。
「行く」
俺が言うと、リディアが帳簿を開いた。
「往復と滞在で、最短二十日。冬に入る前ですから、峠は越えられます」
彼女は計算板を弾いた。
「村の運営は、私とセリアさんとミカさんで回します。ロブさんとカルさんがいますから、大丈夫です」
「ティナちゃんは?」
セリアが聞いた。
ティナは即答した。
「行きます」
彼女は言った。
「継ぎ手のこと、教えるのは帰ってからにします。今は、ボロくんのほうが先です」
ボロが「くん、をやめよ」と唸ったが、無視された。
「あたしは残る」
ミカが言った。
「炉を止めたくない。あと、エルシャインの刃、あと三寸伸びたら、もう一回打ち直せる。それまでに準備しとく」
ドルグが立ち上がった。
「俺が行く。山は慣れてる」
最後に、ゼロが言った。
「私も同行します」
彼女は言った。
「理由は、二つあります。ひとつ、荷を運べます」
彼女は右手を見た。
「ふたつ。……ボロが、群れに何を言われるか、記録したいです」
■
出発の朝、ハギが俺の前に来て、深く頭を下げた。
「人間の長よ」 「ノアです」 「ノア。ひとつだけ、伝えておきます」
彼は言った。
「今の長のガルドは、シリウス様の弟です」
俺は息を呑んだ。
「……弟」 「はい」
ハギは言った。
「三年前、『長は老いた』と最初に言ったのは、弟でした」




