ティナ・アルベール
アルドリックは、台の三歩手前で立ち止まった。
ティナが顔を上げた。
涙でぐしゃぐしゃの顔で、それでも老人をまっすぐ見た。
「――なぜ、打ち切ったのですか」
俺が聞くと、アルドリックは答えた。
「本審問に進めば、三百年前の記録の話が、公文書に残る」
彼は淡々と言った。
「聖庁を守った。それだけだ」
「それだけですか」 「それだけだ」
老人は言い切った。
嘘は言っていないのだろう、と俺は思った。
ただ、それが全部でもないのだろう、とも思った。
「ティナ・アルベール」
アルドリックが彼女を呼んだ。
「はい」
ティナは立ち上がった。
膝が震えていたが、立った。
「お前は、私の算術の外に出た」
老人は言った。
「一年前、私はお前を『四』と数えた。金貨四枚ぶんの損失だと」
彼はティナを見た。
「訂正はしない。当時の判断としては正しかった」
「――はい」 「だが」
アルドリックは、そこで言葉を切った。
彼が言葉を切るのを、俺はこの二日で初めて見た。
「……四十年で、初めてだ」
老人は言った。
「私が切った者が、私の前に立って、無事だったのは」
彼は背を向けた。
「二度と来るな。ここは、お前がいる場所ではない」
歩き出しかけて、彼は足を止めた。
「――ノア・ガラット」 「はい」 「昨日の問いに、答えていなかった」
彼は振り返らなかった。
「私は、九百九十九人の名前を、覚えていない」
老人は言った。
「覚えていたら、四十年、続けられなかった」
■
大聖堂の外では、セリアとリディアが待っていた。
ティナが階段を降りてくるのを見て、セリアが駆け寄って抱きしめた。
リディアは、計算板を胸に抱えたまま、一歩も動かなかった。
動かないまま、眼鏡を外して、袖で拭いた。
「――リディアさん」 「何も言わないでください」 「はい」 「私は、書式では何もできませんでした」
彼女は眼鏡をかけ直した。
「今回、勝ったのは剣です」
俺の腰で、エルが鼻を鳴らした。
「勝ってなどおらん」
彼女は言った。
「三百年前、継ぎ手たちは負けた。記録は焼かれ、名も残っておらん。私は今日、それを言っただけだ」
エルの声は、いつもより低かった。
「言ったところで、誰も戻らぬ」
■
村へ帰る道の、二日目の夕方だった。
峠の上で休んでいたとき、ティナが唐突に言った。
「わたし、名前、返してもらいました」
彼女は空を見ていた。
「『ティナ・アルベール』って、あの部屋で、何回も呼ばれました」
彼女は笑った。
「教会にいた十一年間、わたし、番号で呼ばれてたんです。『適性不良の三番』って」
俺は初めてその話を聞いた。
「名前で呼ばれたの、村に来てからです」
ティナは膝を抱えた。
「だから、あの部屋で名前を呼ばれるたびに、怖いのに、ちょっと嬉しかったんです。変ですよね」
「変じゃないです」
俺は言った。
ボロのことを思い出していた。捨てた連中がつけた名前を、これからも背負うのか、と聞いたときのことを。
「ティナさん」 「はい」 「その力、教える気ありますか」
彼女が振り返った。
「え?」 「エルさんが言ってました。継ぎ手の技は、教わればできたって」
俺は言った。
「村ごとに一人、いたらしいです」
ティナは、しばらくぽかんとしていた。
それから、両手で口を押さえた。
「……わたしが、教えるんですか」 「はい」 「わたし、教わったことないんですけど」 「俺も、拾い方を教わったことないです」
俺は立ち上がった。
「二人とも、下手なところから始めればいいと思います」
ティナは峠から谷を見下ろした。
遠くに、ロスタの煙が細く立っていた。
「――継ぎ手、また作れますかね」
彼女は言った。
「三百年前に消えたやつ」
「作れますよ」
俺は答えた。
「消えたってことは、捨てられたってことなので」
俺は言った。
「拾えます」
■
村に戻ると、ドルグが門のところに立っていた。
彼は俺たちの顔を見て、それだけで結果を察したらしく、何も聞かずに背を向けて、こう言った。
「――で、今日は何を拾ってきた」
俺は答えた。
「三百年前の技術です」
ドルグが振り返った。
「なんだと」 「あと、ティナさんの名前です」
村の中から、ミカが金槌を持って走ってきて、トビーと弟たちが叫びながら続いて、カル爺さんが荷車から「遅い!」と怒鳴って、ゼロが「帰還を確認しました」と言って、ボロが――
ボロが、大きくなっていた。
三日前より、明らかに。
もう犬ではなかった。仔馬くらいの大きさになって、銀色の毛が夕日を弾いていた。
「小僧」
彼は言った。
「――北から、我の群れの匂いがする」




