覗いていた子供
男の子は、俺と目が合った瞬間に逃げようとして、三歩で転んだ。
起き上がって、また逃げようとして、また転んだ。
二回目に転んだところで、ティナが追いついて、しゃがみ込んだ。
「大丈夫?」
男の子は年のころ十歳くらいで、痩せていて、袖も裾も短くなった服を着ていた。
膝が擦りむけて血が出ていたが、それより先に、彼は自分の背中を庇うようにして丸まった。
背中に、麻袋を負っていた。
「盗ってない」
彼は言った。
「なんも盗ってない。見てただけだ」
袋の口から、干した薬草がはみ出していた。
ティナがそれを見て、俺を見た。
俺は少し離れたところに立ったまま、聞いた。
「その薬草、谷の裏で採ったの」 「……そうだよ」 「あそこ、俺たちの畑じゃないよ」 「え」 「村の外だから、誰のものでもない。盗ってないよ」
男の子は、しばらく黙って、それから警戒した目のまま言った。
「じゃあ、なんで追いかけた」 「膝、血が出てるので」
ティナが自分の手拭いを裂いて、彼の膝に巻いた。
男の子は巻かれるままになっていたが、途中で小さく「痛い」と言って、それを言ったこと自体を恥じるみたいに口を結んだ。
■
名前はトビーといった。
宿場町の外れの、干し草置き場で寝ているという。
「薬草、いくらで売れるの」
俺が聞くと、彼は指を三本立てた。
「一束、銅貨三枚。でも、買い叩かれると二枚」 「一日にどれくらい採れる?」 「四束。歩くのに時間かかるから」
銅貨十枚前後だ。パンが二つ買える。
「一人で住んでるの」 「……四人」
トビーはそう言って、それから慌てて口を押さえた。
「言ってねえ。今の、言ってねえからな」
俺は頷いた。
「言ってないです」
トビーは俺の顔をじっと見て、それから、ぼそぼそと続けた。
「弟が二人と、爺さんが一人。爺さんは足が動かねえ。だから俺が採るんだ」
彼は麻袋を抱え直した。
「あんたら、ここに住んでんの」 「はい」 「三年前、俺たちも住んでた」
俺は動きを止めた。
「――ロスタに?」
トビーは頷いた。
「水が止まって、畑が枯れて、みんな出てった。爺さんはあのとき腰やって、それで歩けなくなった」
彼は村を見回した。
井戸を、水車を、鍛冶場の煙を。
「……なんで、煙上がってんだ」
声が震えていた。
「三年、ずっと見に来てた。誰も帰ってこなかった。爺さんは、あの村はもう死んだって言った」
トビーは俺を睨んだ。
睨むというより、それ以外の顔ができない、という感じだった。
「なんで、あんたらみたいなよそ者が、住んでんだよ」
■
俺は答えを探した。
権利の話をすれば、俺たちのほうが弱い。
拾ったから、と言えば、この子の三年を踏みつけることになる。
結局、俺は何も言わずに、トビーの手を取って、井戸まで歩いた。
「水、飲んでみてください」
俺は桶を落として、汲み上げて、彼の前に置いた。
トビーは桶を覗き込んで、動きを止めた。
「……出てる」 「出てます」 「止まってたのに」
彼は両手で水をすくって、飲んだ。
一口飲んで、それから、二口目を飲もうとして、途中で止まった。
肩が震えていた。
顔を上げなかった。
俺は待った。
やがて、トビーは水の中に顔を突っ込むみたいにして、声を殺して泣いた。
■
その日の夕方、俺は村の家を一軒、開けた。
十四軒ある即入居可の家のうち、一番井戸に近い一軒だった。
「トビーくん」 「なんだよ」 「この家、誰の家か知ってますか」
トビーは家を見て、それから、掠れた声で言った。
「……ミルクさんち」 「ミルクさんは、今どこに」 「知らねえ。散り散りだ」
俺は扉を閉めて、隣の家に移った。
「じゃあ、こっちは」 「ハンナ婆ちゃんち」 「こっちは」 「……ロブさんち。鍛冶屋やってた」
俺は次々に扉を開けて、そのたびにトビーが名前を言った。
十四軒目まで来たとき、彼は疲れきった顔で言った。
「なんでこんなこと聞くんだよ」 「家の名前を、知ってる人がいないと困るからです」
俺は言った。
「俺、この家を『十四番』としか呼べません。ミルクさんちだって知ってるのは、この村で、あなただけです」
トビーが、俺を見た。
「三十日後に、人が十五人いないと、この村は取り上げられます」
俺は続けた。
「今、七人しかいません。あと八人です」
俺は屈んで、彼と目線を合わせた。
「爺さんと、弟二人と、あなたで四人。あと四人、あなたが名前を知っている人を、探すのを手伝ってくれませんか」
トビーは、長いこと黙っていた。
それから、鼻をすすって、こう言った。
「――飯、出るのか」




