第四十七話 天才の挫折
ミサは何も言わず、一歩、また一歩と夫人へ向かって歩き始めた。その歩みは決して速くはない。それでも夫人にとっては、ゆっくりと迫ってくる死神のように映っていた。
「こ、来ないでくださいまし!」
夫人は反射的に杖を構え、次々と魔法を放つ。炎の槍、風の刃、雷撃、氷槍。もはや詠唱の順序も威力も関係なく、ただ近付けさせまいという一心で魔法を乱射していた。
しかし、その全てがミサへ届くことはない。
スッ――。
人差し指が一度振られる。
スッ――。
再び指先が動く。
それだけで飛来した魔法は中央から綺麗に裂け、そのまま魔力へと還って消滅していく。
夫人は息を乱しながら杖を握る。
理解できなかった。
王都アカデミーへ入学してから卒業するまで、自分より優秀な魔法使いは誰一人として存在しなかった。実技試験では常に首席を取り、教師からも天才と称され、同級生たちは憧れの眼差しを向けてきた。
だから疑ったことすらなかった。
自分は強い。
自分は優秀だ。
自分の魔法は誰にも破れない。
そう信じ続けてきた。
だが。
目の前にいる受付嬢は、その常識そのものを踏み潰していた。
指を振るだけで魔法を切る。
そんな存在など聞いたことがない。
そんな技術など存在するはずがない。
魔法とは相殺するもの。
防御するもの。
避けるもの。
切るものではない。
夫人の中で積み上げてきた常識が、音を立てて崩れていく。
それでも意地だけは失わなかった。
「まだ……まだ終わっておりませんわ!」
夫人は残った魔力を振り絞り、自身の前へ幾重にも魔法陣を展開する。
透明な壁が幾層にも重なり合い、前方を完全に塞ぐ。
学院時代、一度も破られたことのない自慢の防御魔法だった。
ミサは夫人の目の前まで歩み寄ると、防御壁を静かに見つめる。
そして。
右手をゆっくりと横へ払った。
スッ――。
乾いた音すら響かない。
次の瞬間、幾重にも重ねられた防御魔法は中央から一直線に切り裂かれ、硝子細工が砕け散るように魔力の粒子となって消えていく。
「そんな……」
夫人の杖が震えた。
最後の砦。
決して破られないと信じていた防御魔法まで、まるで紙細工のように切られてしまった。
ミサは人差し指を下ろし、静かに夫人を見る。
「……まだ続けますか?」
その一言だけだった。
脅しでもない。
怒りでもない。
ただ確認しただけ。
だからこそ、その言葉は夫人の心へ深く突き刺さった。
悔しさで唇を噛み締め、杖を握る手は震え続ける。
長い沈黙の末。
「……わたくしの、負けですわ」
絞り出すようにそう告げると、夫人はゆっくりと杖を下ろした。
訓練場に集まっていた冒険者たちから安堵の息が漏れる。
領主はその場へへたり込みそうになりながら胸を撫で下ろし、護衛二人もようやく緊張を解いた。
しかし、夫人だけは最後までミサから視線を逸らさなかった。
その目には敗北を認めた者の潔さはなく、悔しさと屈辱、そして敵意だけが色濃く残っている。
ミサもそれ以上何かを言うことはなく、人差し指に纏わせていた魔力を静かに解除すると、小さく一礼して訓練場を後にしようとする。
その背中へ向かって、領主が深々と頭を下げた。
「ミサさん……本当に申し訳なかった。全部、私の監督不足だ」
「お気になさらないでください。領主様にはいつも良くしていただいておりますので」
「ありがとう……本当にありがとう」
領主は何度も頭を下げると、夫人の元へ歩み寄る。
夫人は終始無言のままミサを睨み続け、最後まで敵意を隠すことはなかった。
やがて領主夫妻と護衛二人は馬車へ乗り込み、そのまま冒険者ギルドを後にする。
その馬車を見送りながらガルドは腕を組み、小さく苦笑した。
「ありゃあ、しばらく根に持つぞ」
「でしょうね」
ミサも小さく肩を竦めるだけだった。
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