第72話 焼け跡の先
大地から熱が引いていく。
さっきまで空気に混ざっていた焼けた匂いが、徐々に薄くなっていく 。
代わりに土の湿った匂いが漂い出す。
崖の縁に残った細い火が、ぱち、と音を立てて消えた 。
トールがゆっくりと息を吐き、肩を回して首を鳴らす 。
「ちと、疲れた...」
それだけ言って、ミョルニルを握り直す 。
焦げた黒い粉が槌に着いている。
ロキがそれを見て、口の端を上げる 。
「少しは効いたろ」
「少しだけだ」トールが片目を細めた
「そして、あれは俺が倒したわけじゃない」
フレイヤが崖の先を見つめている。さっきまでスルトがいた場所だ 。
黒く焼けた地面が広がっているが、炎はもう上がっていない。
「スルト...不思議な消え方をした」そうつぶやいて、片手で金の髪をかき上げた
レスクヴァがしゃがみ込み、手で土を触る 。指先に黒い灰がつく。
「もう、熱くない...」
その声で、俺の身体の力が一気に抜けた 。
膝が震えている。踏ん張っていたことに気づく。
雪乃の手はまだ握ったままだ 。
さっきよりも少しだけ力が抜けているが、離れてはいない。指先が温かい 。
「大丈夫?」雪乃がこちらを見る。優しい小さな声
「うん...」
喉が乾いている。うまく声が出ない 。
「大丈夫だと思う」
自分で言ってから、ほんの少しだけ笑いそうになる 。
思う...という言い方しかできない。
ロキが横から覗き込む 。
「思う...か。いい答えだな」
そう言って、崖の向こうを指す 。
「だが、終わっていない」
視線を上げる。スルトが消えた先、そのさらに奥 。空気の色が違う。
そこだけ待機の密度が違うように見える 。
巨大な幹の輪郭が、さっきよりもはっきりと見える。
距離はある 。だが、さっきより近く感じる。
「道ができたわね」フレイヤが、きつい目をして笑った
崖の向こう側。
さっきまで崩れていた斜面の一部が、なだらかな坂になっている 。
道と言えるほどではないが、踏める場所がずっと先まで連なっている。
トールが前に出る。足元を確かめるように踏みしめて 。
地面が沈まないのを見て、もう一歩。
「行ける」トールが地面を見下ろしてうなずいた
シャールヴィが周囲を見渡す 。
「崩れがおさまったみたいだね」
レスクヴァが立ち上がる 。
「でも、また変なのが出てきたりしない?」
ロキが肩をすくめる代わりに、軽く手を振る 。
「同じやり方は続かない。あれは一度きりだ」
その言い方に、妙な確信が感じられる。
「行くぞ」トールがうながす。
崖を下りる。土が柔らかい 。靴が少し沈むが大丈夫だ。
焼けた匂いの中に、湿った土の匂いが混ざっている 。
折れた枝や土石を踏みしめていく。
斜面の途中で、まだ煙が上がっている場所がある 。
近づくと、焦げた木の内部が赤く残っている。煙が肺に入る。
「煙、少し苦いね」雪乃が隣で言う
「うん......雪乃、マフラーを顔に巻いて、鼻と口を覆うと良いかも」
「そうだね。半分使う?」
「大丈夫。二人で巻いて俺がコケたら雪乃まで転んじゃうから」
「そっか...ありがと」雪乃がうつむいて微笑んだ
少し下ったところで、地形が開ける。焼けた地面が広がっている 。
ところどころにまだ火の跡が残っているが、もう強くはない。
その先に、ユグドラシルの幹 。さっきよりも、ずいぶん近づいた。
幹の表面 には、ところどころに黒ずんだ部分がある。
焼けたようにも見えるが、炎で焼かれたのとは違う 。
焼けた色ではなく、植物が傷んだ色のような感じ。
雪乃が足を止めた。
「あれ...」
雪乃が指差した先を見る 。
ユグドラシルの幹の表面に、無数の筋が走っている。ひびのようにも見えるが、完全に割れてはいない 。
内側から押されてひび割れたような筋。
「来たな」ロキが笑う
「皮が拒んでいるのね」フレイヤが鋭い眼差しで巨木の幹の表面を見つめる
その言葉で、空気が変わった。
風が止まる 。音が消える。
遠くで小さく、パキッと何かが割れる音がした 。
幹の表面を覆う筋が開いた。




