第69話 フレイヤ
森を進む。ひたすら巨木ユグドラシルへ。
根を跨ぎ、枝を押し分け、所々で湧き出た黒いドロドロを避けて進む。
森の匂いが濃く、喉が乾いてきた。
ドク...ドク...と地面の奥で音が続く。
やがて木立が切れ、空が開ける。
視界の先にユグドラシルの幹がはっきり見える。
近づいた分だけ太さがわかる。
そして、上の方は雲に入って見えない。
木立の終わりに、人の生活の跡があった。踏み跡と灰、干された皮と杭。
「誰かいる」レスクヴァが指差す
トールが一歩出ようとした時、風が変わった。
湿り気が消え、甘い匂いが混じる。
花でも香でもない、やわらかくて、意識を引く匂い。
「まあ、ずいぶん荒れちゃったのね」と女の声
振り向く前に横に立っていた。金の髪が光を拾って流れ、風に揺れても乱れない。
その女の白い肌は光を弾かず柔らかく返し、
銀色のドレスは森を歩いてきたとは思えないほど整っている。
泥も葉もつかないまま、歩みに合わせて静かに波打つ。
「誰だよ」とシャールヴィが不審げな表情
「名前を聞く前に名乗るのが礼儀でしょう?」女が艶やかに微笑んだ
「私はフレイヤだけど」
「また神様?」レスクヴァが小さく息をはいた
「にぎやかでいい」ロキがニヤニヤする
「何の用だ」トールがユグドラシルを見たまま言う
フレイヤは肩越しにトールを見つめる。その目に一瞬、懐かしむような色が混じる。
「相変わらずね。挨拶もないの?」と首を傾け
「昔はもう少し愛想があった気がするけど」と目を細めて続ける
トールは答えない。喉仏がわずかに上下した
「それとも、また女装でもして私のドレスを着たくなったの?」フレイヤがさらりと言う
「あれはまた見たいな」ロキが吹き出す
トールの肩がぴくりと動いた。
「言うな...」声は低く震えているが、わずかに顔がほころんだ。
「また貸してあげてもいいのよ。似合ってたし」フレイヤが悪戯っぽい顔をした
フレイヤの視線がこちらへ移る。
「坊や、急いでるその顔。悪くないわね」フレイヤが近づくと匂いが少し濃くなる。
「あなた、名前は?」
「颯太」
「ソータ」と音を確かめるように繰り返し
「緊張してる?」くすっと笑う
「してない」
「してる顔よ。でもそれ、私に、じゃないわね」細めた目は愉しんでいる
視線が横へ流れ、雪乃に止まる。
雪乃は前を見たまま振り返らない。
フレイヤが高く細い声で笑う。
「ああ、そういうこと。二人で来たのにね、今は並んでない」からかうような同情するような口元
言葉は軽いが逃げ場が無い。
フレイヤが横に立つ。
「安心して。からかってるだけ。でも今のままだと置いていかれるわよ」
「誰に」
「あの子に」と、顎で雪乃を示して微笑む
雪乃は何かに取り憑かれたようにユグドラシルへと歩いて行く。
「待って」と手を伸ばすが、でも雪乃は振り向かない。
フレイヤがトールの元へと歩く。足取りが軽く、泥も枝も踏んでいるのに音がほとんどしない。
「トール、無茶してるわね」
「止めないければ、世界が...」
「知ってる。だから来たの」短い言葉で空気が変わる
「ずいぶん優しいな」ロキが笑う
「あなたには関係ないわ。でも、あなたもここにいる」
「この一行は面白いのでな」ロキが悪い猫みたいに目を細める
湿地に入る。浅く見えて沈む。足場を選ばないと飲まれる。
黒い水の細い流れが走る。
フレイヤが先を進み、迷いなく足を置く。
「ここ、踏んで」踏むと沈まない
「次、少し左」指示は簡単だが外れない
「教えてくれるんだ」とシャールヴィが微笑む
「面白いから。それに、腐れは嫌い」とフレイヤ
ロキが肩を揺らして笑う。
森の奥でユグドラシルの輪郭が濃くなる。
以前は空の色に溶けていたが、今は幹の凹凸まで見える。
空気が変わり、わずかに冷える。
雪乃は止まらず前へ進む。俺も前を見る。
自分の吐いてしまった言葉は消えない。
気持ちは遠いまま...
「頑張りなさい、少年」フレイヤが横で笑う
森を抜け、草原を越え、いくつか夜を過ごす。
森や湿地をあれほど歩いても、フレイヤの銀色のドレスは一切汚れない。泥も付かず、破れもしない。
最初に見たままの美しさを保っている。
やがてユグドラシルが目前に迫る。幹の凹凸と色、裂け目がハッキリ見える。
いや、目前ではないだろう。あれは巨大過ぎる。まだ数キロメートルはあるだろう。
フレイヤが一歩前に出る。
「ここから先は、遊びじゃない」
「今までが軽かったみたいに聞こえるな」ロキが顔を歪めて笑う
トールが一歩踏み出すと地面が広く沈んだ。
ドク...と地の底から音が返る。さらに踏み込むと地面に裂け目が走り、赤っぽい光がにじみ出る。
ドク...ドク...と音が速くなる。
下から押し上げられるように地面が持ち上がる。
「踏める場所が無い」とフレイヤが言う
トールが足を止める。進めない。
地面の裂け目から赤黒いものが押し上がる。
空気がじわじわと熱を帯びる。
そして、俺が一歩踏み出した瞬間、目の前の地面が大きく崩れた。




