第59話 ラグナロク・神々の黄昏(たそがれ)
荷車は岩の多い地面をゆっくり進み、谷へと入った。
車輪が石に当たるたび、荷台がガタンゴトンと揺れる。
黒い根。
腐った液。
脈を打つ音。
さっき見たものが頭から離れない。
雪乃が隣で黙っている。
ミトンをはめた手を膝の上で軽く握ったり開いたりしていた。
「ここで休む」しばらく進んだところでトールが手綱を引いた
小さな岩丘の陰。風が弱い。
荷車が停まる。
レスクヴァが元気良く荷台から飛び降りた。
「あ〜〜〜、お尻いた〜い!」両手で腰をコンコン叩く
「半日、板の上で揺られりゃぁな」シャールヴィが笑った
俺も降りた。
腰とふくらはぎがビリビリしびれる。
岩だらけの雪原に立って伸びをする。
冷たい空気が胸に入る。
トールがヤギを岩に繋いだ。
ヤギはすぐ雪を掘り始め、草を探す。
シャールヴィが荷台を探る。
「薪、まだ残ってるな」
「焚き火!」レスクヴァが両手を広げる。
「はいはい、待ってろよ」シャールヴィが笑って焚き火の準備を始めた
火が踊り薪がはぜる。
ロキは岩に腰を下ろして火を見つめている。
雪乃は荷車のそばで水袋を持ち上げた。
「鍋、出していい?」
「おー、頼む」シャールヴィが大きな口を開けて笑った
干し肉を細かく裂く。
鍋に水と一緒に入れて火の上に置く。
湯気が上がり始めると、肉の匂い。茹で汁の匂い。
「まだかなー?」レスクヴァが鍋を覗く。
鍋がコトコト鳴り始める。
雪乃が木匙で混ぜる。火の光で頬が少し赤い。
俺は袋を触った。革のざらっとした感触。
村のおかみさん。煙の匂い。囲炉裏。
ほんの少し前のことなのに、ずいぶん昔みたいだ。
椀に分ける。湯気が視界を覆う。嬉しい景色♪
フー、フー。塩、肉、とろける。
「うまい!」体の奥までじんわり広がる
雪乃が笑った。
焚き火がぱちぱち鳴る。
皆、黙々と食べ続けた。
横に座っている雪乃が、俺にもたれかかるように寄って、耳元でささやいた。
「颯太、ねぇ...ちょっと」そして俺の制服の袖をつまんで、ツンツンと引っ張った
俺たちは立ち上がり、焚き火の場を後にした。レスクヴァとシャールヴィが俺たちを見てニマニマと微笑んでいる。
え!? 雪乃?これは...
俺は雪乃に袖を引っ張られて寝場所に行った。
おかみさんの村で分けてもらった藁を敷いた寝場所。
雪乃が藁の上にスカートを整えながら座った。
俺も隣に座る。なんでいきなりこんな状況になるんだ?
心臓が急にバクバクしてきた。
「ここ、北欧神話みたいな世界かもしれない」雪乃が空を見上げながら小さな声で言った
「え!?」
「ユグドラシル...ロキが言ったでしょ?ユグドラシルは世界の大元の巨大な樹。その根が腐り始めてる」
「それって、本当だとすると、やっぱり世界が?」俺は呆然とした。だけど今まで見てきた事を思えば...
「トール、ロキ...北欧神話に出てくる神の名前。最初は、ただそういう名前の大きな人たちかと思ってた。でも、あのトールは雷を落とすし、巨人の王が『神』って言ってた。そしてユグドラシル」雪乃が厳しい表情になった
「世界が滅びる。ほとんどの神々も死ぬ」雪乃がうつむいた
「世界と神様が滅びる神話?何で?」
「小学校の低学年の頃に図書館で読んだだけ。はっきりとは憶えてない」
「トールはどんな神様なの?」
「あの通りよ。真っ直ぐで、悪い神様じゃない」雪乃が微笑んだ
「ロキは?」
「よくわからない神様。敵なのか味方なのか...」雪乃は目を細めた
「トールは今、世界が壊れるのを止めるために、この旅をしているのか」
「私たちも...」
しばらく言葉も無く、トールやレスクヴァ達のいる焚き火の煙を見つめた。
「その神話で、トールは死ぬの?」恐れていたことを聞いた
「うん...」雪乃がゆっくりとうなずいた
しばらくしてから俺たちは焚き火に戻った。
レスクヴァとシャールヴィがニマニマ微笑んで迎えた。
ヤギが耳を立て、顔を上げ「ベェェ〜!」と鳴いた
シャールヴィが顔を上げた。暗い岩場を見て、ゆっくり立ち上がる。
「何かある」
「何か動いた?」レスクヴァが椀を持ったまま固まった
「動物じゃない」シャールヴィが首を横に振る
トールも立ち上がった。焚き火の向こうを見る。
風が一瞬、激しく吹いた。
雪の匂い。その中に湿った嫌な臭い。
雪乃が顔を上げ、目を細める。
「水...」眉が寄る。険しい表情
火の向こう。岩の影に黒い筋が現れた。
シャールヴィが慎重に近づく。
俺たちも後ろから覗いた。
岩に割れ目がある。
そこから黒っぽい水が湧き出している。
ボコッ...ボコ.....
「何でこんな所から水が湧き出すの?」レスクヴァが顔をしかめた
雪乃がしゃがむ。
水に触れない距離で手をかざす。
「匂いが同じ」低い声
「川と、裂け目の大きな木の根と同じ」
ボコ...
また黒い水が湧いた。
その周りの石が黒く染まっていく。
「拡がっているな」ロキがつぶやいた
トールが水を見つめる。焚き火の光が広い背中を赤く照らしている。
大きな手がミョルニルを握り直す。
「水までも...」うめき声のような低い声
ボコッと、黒い水が湧き、また新しい流れを作る。
トールが振り返る。
「ここを離れる」
俺たちは荷台に乗る。
藁が少し湿っていて冷たい。
俺たちは荷台に乗る。
藁が少し湿っていて冷たい。
荷車が動き出し、川がゆっくり遠ざかる。
隣で雪乃が体育座りで俯いている。
「大丈夫?」
「うん」雪乃が静かにうなずく。
俺は胸の皮袋を触る。
さらっとした肌触りの革。
村のおかみさんの顔が浮かぶ。
あの村の水は、きれいだった。
あの村は今。まだ大丈夫なのかな...
「海を見た方がいい」ロキが言った。荷車の後ろの囲い板に腰掛けながら
トールが短くうなずく。
「そうだな」
荷車は谷を抜けて進む。
遠い空の下。
遥かな海へ。




