表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
57/76

第57話 狂い始めた水

ドラウグルの危機を逃れた荷車は走り続けた。

ヤギの蹄が雪を踏む音が続く。

キュッ、キュッ、キュッ...


誰もあまり喋らない。

さっきの出来事が、まだ体の中に残っている。


雪乃が俺の隣で手袋を見ていた。

革のミトン。内側の毛が白い。

ぎゅっと握る。

また開く。

「大丈夫?」

俺が聞くと、雪乃は俯いたまま少し笑った。

「うん...大丈夫」

声はいつも通りだったけど、

目を伏せたままで、何かを考えているようだ。


荷車の前ではシャールヴィが背伸びをしていた。

「まったく、気持ち悪い連中だったなぁ」

「うん!腐ってた!」レスクヴァがすぐ答える

ロキが鼻で笑う。

「死んだ者が歩き回る世界なんて珍しくもないな」

「珍しくないの!?」レスクヴァが目を丸くした

ロキはニヤッと笑っただけだった。

トールは黙って手綱を握っている。



「この旅、続けた方が良いのかな」雪乃が低い声で言った

祈るように顔の前で合わせた皮のミトンの手袋を見つめながら。

「うん...それさ、俺も思ったんだ。こないだの村を出る時」

雪乃が振り向き、目を少し大きく開いて俺の目を見た。

「俺...あの村にずっと居るのも悪くないかも...なんて一瞬。でも、この世界そのものが壊れ始めてるんじゃ、結局どこにいても未来は無いのかなって」

「うん...」雪乃はうなずいてから前に視線を移した。そこにはトールの大きな背中がある

「私たちがトールについて行くのには、意味があるんじゃないのかなって思ったの」

「え?」俺は雪乃の横顔を見た

「私たちは、最初、たぶん偶然拾われた。でもね、この旅に私たちが必要なかったら、トールだったら、あの村に私たちを置いて行ったと思う」

「あ...」俺もようやく気がついた

雪乃はまた俺を見て、目を細めてうなずいた。

そして膝を抱え込み、顔を埋めた。



荷車はそれからかなり進んだ。

揺れがひどい。でも歩くよりマシ...


ふっと、雪乃が顔を上げた。

目を細めて深く息を吸う。

もう一度。

そして眉が少し寄った。


「どうしたの?」気になって声をかけた

雪乃はすぐには答えない。

風の中に顔を向けたまま言った。

「水の匂いがする...」


「川?」シャールヴィが振り返る

「ううん」雪乃はゆっくりと首を振った

「何か嫌な臭いが少し...」



ヤギの耳がぴくっと動いた。

少しして、地形が変わり始めた。

雪の平原が終わる。

低い岩と凍った草が混じり始める。


やがて谷のような窪地が現れた。

その底に、細い川が流れていた。

水は黒っぽい。

氷の縁がところどころ張っている。


荷車が止まる。

トールが川を見ている。

俺は荷台から降りる。

足の下の雪がギュッと鳴った。底冷えがする。

川のそばまで歩いてみた

静かだ。

不自然なほど静かな川。

普通なら水の音がするはずなのに、

ほとんど聞こえない。

風も止んでいる。


レスクヴァも川に近づいて来た。

「凍ってる?」

「待って」雪乃も後から歩いて来て言った

レスクヴァが止まって雪乃を振り返る。

雪乃はゆっくり川へ歩いた。

しゃがみこみ、手袋を外す。

指先を水の上にかざす。触れてはいない。

でも、そのままじっとしている。

「臭いがする...」水面を見つめながら言った

「腐ってる」


風が吹いて、水面が少し揺れた。

揺れと共に水の中央がふくらんだ。

ほんのわずか。

まるで水の下から何かが押しているみたいに。

黒い土から湧いて来た死霊...ドラウグルの姿を俺は思い出した。


「ねえ、あれ、変よ」レスクヴァが俺の袖をつかんで上下に振った

水面のふくらみが広がる。

ふくらみがゆっくり持ち上がる。


その中に何かが見える。人の形にも見える。

でも人じゃない。顔がはっきりしない。

髪のようなものが、水の中で長く揺れている。水草みたいに。


「幽霊...?」レスクヴァが低い声で言った

「いや...あれはきっと水の精霊だ」シャールヴィが答えた


ロキが片手を顎に当て、川を見ている。

そして、静かに言った。

「水まで狂い始めたか」


誰もすぐには言葉を返せない。


水の中の影がゆっくり動く。立ち上がるように。

水が形を作る。体の輪郭が見える。

でも完全じゃない。形作りつつ崩れていく。


腕がある。指もある。

けれど透明だ。水でできているみたいに。


顔の部分がこちらを向く。

目があるのかどうか分からない。

でも、見られている。そんな感じがする。

背中がゾワゾワとする。


雪乃が一歩前に出た。

「雪乃、待って...」俺は思わず声を出した


しかし、雪乃は止まらない。川のほとりまで行く。

水の精霊は動かない。ただ揺れている。


雪乃が静かに語りかけた。

「あなたも苦しいの?」


風が止まった。水面が静まる。精霊の形が少し崩れた。

そして音が聞こえた。


言葉じゃない。水が石に切られるような音。

かすかな声。

「根......」

水が揺れる。

「痛む......」


雪乃の目が少し見開いた。

「根?」


精霊の体が崩れ始める。

水が形を失う。

最後に、もう一度だけ声がした。

「深く......」


そして......消えた。

水面が静かになる。川がまた、ただの水になる。


誰もすぐには動けずにいた。


「今の...」レスクヴァがようやく声を出した

「水は世界の血だ」ロキが川を見たまま言った

「その血が狂い始めた」


風がまた吹き始め、川の水がゆっくり流れる。


雪乃はまだ川を見ている。

指先が濡れていた。水に触っていないのに。

雪乃がそれに気づいて、そっと指先を見つめた。


「行く」トールの声に、皆が荷車に戻る。


語る言葉が見つからない。


トールが手綱を引く。

ヤギが動き出す。

荷車はまた進む。

岩と凍った草の平原を。



「良くない......」トールが前を見つめ、低い声で言った。


「水までも...」


遠くで、何かがしたたり落ちたような音が聞こえた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ