第56話 大地の下から
ヤギの蹄が雪を踏む。
荷車は進む。
村を出て、もう半日ほど経つ。
空は低い。
雲が薄く広がり、光が雪原の所々にぼんやりと落ちて輝いている。
俺は首から下げた皮袋を指で触った。
革のざらっとした感触。
雪乃が作ってくれた袋。
その隣で、雪乃はミトンをはめた手を口元に近づけて息を吐いていた。
白い息がすぐに風に流れる。
「寒い?」
「ううん、手は暖かい」
そう言ってミトンの手をにぎにぎと動かしニッコリ微笑む雪乃。
そう、内側に毛がついた革の手袋は、ほんと暖かいね。
雪乃がふっと顔を上げて目を細めた。
そして深く息を吸う。
「どうしたの?」
雪乃はすぐには答え図に風の方を向く。
もう一度、ゆっくり息を吸う。
「風の匂い...」
「何か匂うのかい?」シャールヴィが前から振り返った。
雪乃はうなずいた。
「雪の匂いじゃない」
ロキがいつの間にか現れて、荷車の後ろで腕を組んでいる。
その口元がほんの少しだけ動いた。
あれ!?遠くに何かがいる!
前方の丘の斜面に、黒っぽい影が見えてきた。
あれは...たぶん、獣の群れだ。
近づいて見ると、
十数頭、雪を掘って草を食べている。
「鹿!」レスクヴァが荷馬車の横板から身を乗り出した。
鹿たちはこちらに気づいていないようだ。
が...突然、一頭が顔を上げた。耳がぴんと立つ。
そして、雪が爆発したように舞う。
ドドドドドドッ!!群れが一斉に走り出した。
ただの逃げ方じゃない。急過ぎる。
「変だ...」厳しい声。シャールヴィには珍しい
鹿の群れは丘を越え、消えた。
雪原は静かになった。
ヤギが突然止まった。
フン...フン...鼻を鳴らしている。
耳が後ろに倒れている。見るからに神経質そうな雰囲気。
トールが手綱を握ったまま前を見る。
雪乃が言った。
「すごく...強い匂いがする」声が少し震えている
風が吹いた。
うん、雪の匂いじゃない。
腐った水。濡れた鉄。そして...
死臭...?
わけもなくゾッとした。
地面の一部が黒くなり、それが拡がり始めた。
雪が溶けている......
地面が腐っていくようにも感じる、嫌な光景。
「止まる」トールが手綱を引いてヤギたちを止めた
目の前に拡がり始めた黒い地面がヌラヌラと動いている。
ズヌッ......
黒い土が盛り上がる。
地面の下から何かが押し上げているように。
黒い地面が割れた。
手が出た。
黒っぽい手。長い爪。
指がワラワラとうごめく。
「なによあれ!!」レスクヴァが叫んだ
雪の中から、ゆっくりと黒ずんだ人の姿が起き上がる。
鎧。錆びた鉄。裂けた革。
顔の皮膚は灰色。目はどんよりと白い。
口からは黒い液体が垂れている。
「ドラウグル」トールのいかめしい声、そのつぶやきが大気を震わす
「あれは腐っている。古い戦士の亡霊だ」汚い物を見るような目でロキが言った
亡霊...ドラウグルがゆっくり立ち上がった。
そして、周囲の雪がまた動きだした。
ヌボボ...ヌプッ...
一つじゃない。
二つ。三つ。四つ......
雪の下から次々に死体が起き上がる。
「数が多過ぎる!」シャールヴィが叫んだ
ドラウグルが動いた。
信じられない速さ。
ズザッ!!雪を蹴って突進してくる。
トールがミョルニルの槌を振り上げる。
閃光!轟音!
ドゴオォォォン!!
一体のドラウグルの頭が砕け、雪に叩きつけられる。
だが...その体はまた動きだした。
首が曲がったまま、ギシィときしみながら立ち上がる。
別の一体のドラウグルが荷車の横板に這い上がり、俺たちの前に現れた!
なんという嫌な臭い...
シャールヴィが短剣を抜いて、横殴りにそれを斬った。
肉が裂ける。
しかし...ドラウグルは痛くないのか、荷車の横板を乗り越えて来ようとする。
黒ずんだ腕を振る。
シャールヴィが吹き飛ばされた。
「シャールヴィ!!」レスクヴァが叫ぶ。
ヤギが怯えて暴れている。
荷車が激しく揺れる。
ドラウグルが雪乃に向かう。
雪乃は動けずに身をこわばらせている。
助けなきゃ...
あぁ、俺も...動けない。
恐怖で足が縛りつけられたみたいだ。
浅い呼吸が激しくなる。
胸が締め付けられる。
体が言うことを聞かない。
雪乃、逃げてくれ!......
ドラウグルが雪乃に手を伸ばす。
閃光が走った。
トールのミョルニルがドラウグルの右肩を砕いた。
ドラウグルはバランスを崩して荷車から落ちた。
しかし、崩れかけた体はまだ動いている。
「多い...」トールの顔が険しい
ドラウグルが十体以上集まって来た。
うごめく黒い地面からはまだまだ湧いて来るようだ。
「大地が腐り始めている」ロキが静かに言った
トールがミョルニルを前に突き出し水平に振った。
雷の閃光が、押し寄せるドラウグル群を薙ぎ払った。
しかし、それらはボロボロに崩れた体で、また起き上がろうとしている。
腐った臭いが漂う。生理的に受け付けない嫌な臭い。
世界が......壊れ始めているのか?
「行くぞ、しっかりつかまれ」トールが吠えた
ヤギが走り出す。
荷車の車輪が黒いドロドロの大地を踏み締めて進む。
俺はやっと息を吸った。
後ろでは、ドラウグルの群れが立ち上がっていた。




